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民間航空再開50年を語る

写真 1951年マーチン202 もくせい号
1951年10月25日、たくさんの見送りを受け第二次大戦後の民間航空再開の第一便として羽田空港から伊丹空港へ向かうマーチン202「もく星」号

 2001(平成13)年4月5日に開催した座談会「戦後50年を顧みる」をお届けします。航空の先人のご苦労を知り、航空界全般をみつめ直す一助になれば幸いです。


<出席者>
日本旅行作家協会 会長 齋藤 茂太 (医学博士)
日本航空協会 会長 利光 松男 (日本航空 常任顧問)
副会長 平沢 秀雄 (国際航空連盟 副会長)
理事 松尾 道彦 (日本鉄道建設公団 総裁)
理事 東  昭 (東京大学名誉教授)
監事 内村 信行 ((財)航空交通管制協会 会長)
監事 青木 英雄 ((社)日本航空技術協会 栄誉会長)
評議員 鍛治 壯一 (航空ジャーナリスト)
<司会>
日本航空協会 事務局長 本橋 和彦 (専務理事)


司会(本橋)
1951年(昭和26年)戦後初めて「日の丸」をつけた飛行機が羽田から飛び立って、50年が経過しました。日本航空は、そこを創立年として、現在50周年の記念行事を実施中です。サンフランシスコ講和条約が発効し、航空関連法が施行されたのが、その翌年の1952年(昭和27年)です。運輸省(現国土交通省)はそこから数えて40年目の1992年(平成4年)に、それまでの「航空日」を「空の日」とし、さらに「空の旬間」を加え衣替えをして、平成14年を民間航空再開50周年として記念行事を計画しています。全日空でも前身の日本ヘリコプター株式会社創立から数えて、来年を50周年としています。
わが日本航空協会は2003年(平成15年)に卒寿・90歳を迎えます。来るべき時代に即応すべく、昨年、寄附行為を改訂して事業範囲を航空から、宇宙にまで広げました。

利光会長
 私は1951年(昭和26年)8月20日に日本航空(現日本航空の前身)に入社しましたが、会社は8月の1日に創業したばかりでした。それから2ヶ月後の10月25日「日の丸」をつけたマーチン202型機が国内線を営業することになります。長いトンネルを抜けてようやく手にした民間航空再開でした。


「廃墟から民間人の再出発」

写真 利光会長利光会長
 1945年8月15日の無条件降伏で、わが国は即日武装解除しています。残る民間航空についても、飛行機の所有はもとより飛行機に日の丸をつけて飛ばすということは一切まかりならん、年内末までに民間航空に関するすべての活動・組織等を廃止・解散せよ、というわけです。この通達を誤解して、一時期は、模型飛行機まで自粛していたほどでした。
そして5年が過ぎ、東西の二極化により、連合軍に民間航空の再開の兆しがみえてきました。それまで雌伏していた人々は、来るべき日のために航空会社発足の準備を密かに始めました。条件付きの航空再開の覚書が発令されて、5社の申請になりました。民間航空再開に関する当時の国民の意欲は、敗戦の痛手を補うような大きなうねりであったという感じでした。藤山愛一郎氏を中心とする3社の連合が日本航空を形成し、運輸省(現国土交通省)から免許をいただき、6年間の空白を経て、苦労の末に日本航空が創立されました。当初の事業内容は、営業部門のみで、運航・整備は米国に委託するという条件つきでしたが、私は大空への夢が捨てきれず、日本航空に入社したわけです。
 当時の日航は、現在銀座日航ホテルがある銀座8丁目にモルタル3階建てであり、これが航空会社の本社かという建物で、飛行機を持たない航空会社でした。
 与えられた仕事は「運送約款」を謄写版で刷る、切り貼りして訂正する、航空庁(現航空局)へ提出する、というものでした。当時の航空庁には内村(現日本航空協会監事)先生がいらっしゃって、きっと何回も突き返されたのではないかと思います。
内村監事
 下っ端だった私には、その頃の記憶はあまりございません。
話は戻りますが、8月15日の終戦から、「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書(AG360,SCAPIN 301)」が発せられた11月18日まで、この短い間にいろんなことがありました。
進駐軍の上陸とともに、8月24日以降一切の飛行は禁止になりました。戦争末期、特攻隊として活躍した一部が残存していた当時の状況では致し方ない処置だったと思います。軍民を問わず、全ての飛行機は供出を命ぜられ、涙を堪えきれずに炎上する飛行機を見つめた人々は大勢いました。ただ、終戦後の応急の措置として、軍の復員や戦後処理の急速な遂行を確保するために、とくに戦災によって海運の交通が不便を極めた状況下において、緊急公務をもつ軍人や官吏の交通、公用通信物輸送のためには航空機によらなければならなかったので、航空局に終戦連絡部を組織して、9月14日から東京―札幌、東京―新潟―富山、東京―名古屋―大阪―福岡などに、民間機に緑十字を付けて連絡することが認められました(9月12日付けSCAPIN 23)。しかし、進駐軍側の航空体制が整ってきた10月7日、緑十字飛行は廃止になっています。これ以降、日本は名実ともに翼を失ってしまい、丸5年の空白期の後に、日本航空の設立につながっていくわけですね。ノウハウの無いところからの出発は、どんなにか大変だったと思います。
利光会長
なにもかもゼロからの手探りの出発でした。資本金1億円の株主の約半分が旅行代理店7社であり、他は財界からの出資で、すべて民間からでした。私のもう一つの仕事が、これら代理店契約の仕事であり、最初の営業案内も作りました。経済的に厳しい状況のなかで、運送約款も手製なら、営業パンフレットも印刷技術が稚拙ですから、刷り上ってきた天然色のスチュワーデスの顔写真などは曲がっていたことを今でも覚えております。機材はノースウエスト社との契約でマーチン202型機3機、DC4型機1機。これにてんおう星、ど星、きん星など、星の名前を付けて初便に備えました。路線は東京・大阪・福岡と東京・札幌です。
 準備万端、10月25日、いよいよ東京・大阪の初便が羽田を無事に飛び立ちました。本社にいまして、「大島上空、ただいま通過」という通報を受けて、事務所で万歳を叫んだものです。民間航空再開を国民も祝いました。一つの明るい夢が実現した瞬間でした。写真 創業当時の日本航空
まだ自主運航ではなく、当時は銀座営業所から羽田まで直行バスを運行して、お客様とスチュワーデスが一緒に乗るというのんびりした、いい時代でした。このようなサービスは復活すればと思います。戦後のまだ食糧難の時代ですから、搭乗するお客様は少なく、何回もサクラ搭乗をした機内はちょっとした外国のようで、出されたバヤリースオレンジとサンドイッチの美味しさは今でも忘れることができません。機内には、いずれは運航を担うことになる7人のパイロットがサービスや保安を手伝うという名目で、スチュワードとして搭乗しており、半ドアに開いているコックピットをさりげなく覗いては、いつの日かこのドアの向こうで自分達の手で、将来の日本の空を背負うぞという気概が全身に漂っていました。
キャプテンの卵たちが「いつの日か、我らキャプテンならん」とスチュワードとして飛んでいた、あの飛行機野郎の集団から、はや50年が経ちました。感無量です。



「官も航空再開に熱い想い」

内村監事
航空局側にも熱い思いがありました。
翼をもぎとられた日本政府は何とかして航空勢力を温存しておきたいと願い、航空関係者は今後の再開に備えてこれを手放してはいけないと考えました。そこで、飛行機は飛ばせないけれども、航空集団というものは維持したいと「航空保安部」を設置しました。後に、日本航空の社長として活躍されます松尾静磨さんが、その航空保安部長として航空再開までの数年間、大変な努力をされました。パイロット、整備関係、無線、通信などに係わっておられた方々が航空保安部の要員になって、専ら進駐軍の飛行場に派遣されて、アメリカ軍監視の下に飛行場、航空保安施設等の維持管理・運営を図る、便所掃除もするなど、大変な苦労を進んでされていました。写真 内村監事
 当時航空保安部で松尾静磨さんと苦労を共にされ、わが国戦後の航空の再建に大きく貢献された方々に、たとえば、戦後日航に入り、日本航空機操縦士協会の会長をされた故長野英麿さん、全日空の機長として大いに活躍され、長野さんの後、日本航空機操縦士協会の会長をされた有働武俊さん、わが国の航空管制界の草分けであり、当初の航空局管制課長として航空管制の礎を築き上げた故泉靖二さんがいらっしゃいました。
この苦労が報われたのが、航空再開です。関係者の皆さん方は大変にお喜びになっていました。ただ、まだ実際の運航は禁じられておりましたので、パイロットをはじめ関係者は、まだまだ切歯扼腕の思いをされていたと思います。「この空は我が空ならず秋の空」の歌もあり、航空関係者は髀肉の嘆をかこっておられたわけであります。
航空禁止令が解かれる前に、まず営業のみの会社設立はよろしい、という命令が進駐軍から参りまして、それに基づいて航空運送事業令というものを出しました。この事業令に基づきまして運営会社をつくるということになりました。
ところで、航空禁止令が解除されるのは、1952年、サンフランシスコ講話条約の発効によってであり、初めて自主運航ができるということになるのですが、それまでの間、日本の空を一体誰が運航するのかということが大変大きな問題でした。
当時は、ノースウエスト外航7社が日本に乗り入れておりましたが、彼らがJDAC(Japan Domestic Airline Company)という会社を共同設立して、運航に当たるという話になりました。
航空の約束事の一つに、「他国が自国内の地点間運航を禁止する」という権益があるのはご存知だと思います。当時の日本には、このカボタージュの拒否権が認められておりませんでしたが、日本政府航空庁がこの権益を強く主張し続けた結果、米国航空局も理解を示したため、JDACの設立は、幸いに立ち消えとなりました。GHQと航空庁との交渉の結果、まず、わが国の資本で航空会社を設立し営業を行い、当面の運航を外国航空会社に委託することになりました。その結果、日本航空が免許を得て、事業令に基づく航空運送事業を始められたのです。

「航空再開のまず第一歩でした」
平沢副会長写真 平沢副会長
 日本航空は、実はそれに先立って8月27日から29日まで招待飛行を実施しているのですね。JDACを構成する1社だったフィリッピン航空からDC3をチャーターし、大急ぎで胴体に「日本航空」「金星」と塗装し、尾翼の国旗はフィリピンのままという状態です。またスチュワーデスも1ケ月の間に募集・選考されるという状態でした。結局JDACは頓挫し、日本航空では運航と整備の委託先をノースウエスト航空としました。ノースウエスト航空からチャーターした機材には、その前と区別する必要があったのでしょう、すい星号、か星号の平仮名愛称が使用されました。
私自身は初飛行の10月25日の翌26日、日本航空に整備要員の第1陣6人のひとりとして入社しました。入社が決まっていたので10月25日の第1便をランプで見送った記憶があります。入社後即日ノースウエスト航空に出向を命ぜられ、同社の整備士指導の下、夜間シフトで日航が使用するマーチン202とDC4の整備を行いました。当時は朝鮮戦争の最中ですから、米軍の輸送機優先で格納庫は空いている時だけしか使わせてもらえません。毎日夜間の固定シフトで、厳冬の夜でも屋外でマーチン202の定期点検をやり、大変寒かったことを鮮明に覚えております。


「ANA、JASも続いて誕生」
松尾理事
戦後当時は日本航空の将来はどうなるか分からないという時代でした。今日あるのは、あの時代に生きた方々の先見性の故であり、パイロットの方ばかりでなく、当時の航空に対する関係者の心意気、民間航空再開へ傾けられた熱意のほどがよく分かります。航空再開の当初は日本航空1社だけでしたが、翌年12月1日、全日本空輸の前身、日本ヘリコプターが旗揚げされました。これに、今日の日本エアシステムも加わって、互いに切磋琢磨し、現在のわが国航空の隆盛をもたらしたと思います。
司会 
9年前の1992年(平成4年)に、民間航空再開40周年の記念行事があり、その一つ記念座談会「航空の空白時代を語る」を行いまして、当時、運輸省航空局長でいらした松尾理事が司会をされています。その内容は当協会発行『日本航空史 昭和戦後編』に掲載されておりますが、出席者をみますと、秋山龍、佐貫亦男、関川栄一郎、高木養根、長野英麿の各氏でした。錚錚たる方々です。写真 松尾理事
松尾理事
 民間航空再開40周年記念事業の一環として懇談会を行い、参加されたなかで今は関川栄一郎さんと私しか残っておりません。当時の現場を熟知していたのは長野機長でした。
松尾静磨さんが航空保安部長の時代に、長野機長は極東空軍のCAB代表部から、CAR(Civil Air Regulation)を静かに借りて(笑い)全部写真に撮り、これが現在の航空法の基盤になっているとのお話を伺った事が、懐かしく思い出されます。こういった先人たちの努力というものがあってこそはじめて再開できたのだと思います。
ところで平成12年度の国内航空旅客数が9,200万人弱になっており、羽田空港だけでも現在5,500万人です。また国際航空旅客数は4,900万人に達しています。僅か50年の間にこれだけの猛烈な発展をしたのは日本だけではないかと思います。急激な勢いで伸びてきた航空界でございます。写真
 私どもJASは、今年、東亜国内航空が合併発足した昭和46年5月15日より数えて創業30周年を迎えます。わが国航空の繁栄の一翼を担えればと願っています。前身である日東航空、富士航空、北日本航空、東亜航空が活躍した昭和20年代末から30年代当時、航空へ寄せる想いは熱く、今よりもはるかに多い航空会社があり、それが企業合併等で現在に至っています。そしていま、規制緩和の中で幾つかの新会社が設立されという新しい時代を迎えております。(注 松尾理事は、座談会当時JAS副社長)
青木監事写真 齋藤氏
 私がいた全日空は、前身の日本ヘリコプター輸送と極東航空が共に1952年12月設立されました。平成14年には50周年になります。創立前後の先人の苦労と栄光は、社史で偲ぶばかりですが、今なお記憶に強く残るのはた当時常に合言葉のように言われていた「現在窮乏、将来有望」という言葉でした。初代社長の美土呂昌一先生が言い出されたものと聞いています。「現在窮乏」というのは将に実感でしたが、「将来有望」は何か観念的な感じで、本当に今日我々が見るような航空の発展は予想できていなかったと思います。


「日本は航空の神話の国」
齋藤氏
世界には空にまつわる神話・伝説が数多くあり、ギリシャのイカロス神話は有名で、航空の発祥というと、誰もがこの神話を持ち出します。しかし、考えてみますと日本は世界最大の航空・宇宙の国なのです。神代の時代に遡れば、とにかく天孫降臨ですから。
「天の岩舟:あまのいわふね」に乗って天から高千穂の峰に降りてこられたという大変なロマンでございまして、天の岩舟に乗った日本最初のパイロットが「天の探女:あまのさぐめ」であります。吉野川上空で若い女性に気をとられ墜落した久米の仙人、かぐや姫や羽衣伝説は良く知られているところです。1929年(昭和4年)にできた日本航空輸送株式会社のシンボルが天女でした。
司会
われわれが今いる航空会館に、以前飛行館が建っていましたが、1929年6月に開館しております。その店子第一号が、創立間もない日本航空輸送株式会社でした。
齋藤氏
近代になり「竹蜻蛉」の平賀源内、飛行船の山田猪三郎、玉虫型飛行器の二宮忠八、岡山の表具師であった浮田幸吉のグライダーなど多くの空への挑戦があります。
江戸時代に活躍した平賀源内の多芸多才ぶりは定評のあるところですが、幕末期、天文学から植物学、動物学等、ありとあらゆるものに興味を示して、とうとう飛行機の設計までやった人がおります。山形県鶴岡の松森胤保という方で、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチというあだ名をつけられました。昭和天皇がその松森家をお訪ねになって、お孫さんとお会いになったおり、予定の時間になってもお帰りにならなかったというくらい興味を示されたという記録が残っています。
その松森さんが明治維新後、山形県議会の議員になり、鶴岡から山形まで通うのに、歩いたり、籠に乗ったりでは時間がかかるため、飛行機で通おうとして羽ばたき機の設計をしています。5、6人乗りの飛行機は、勿論実現しませんでしたがその設計図は残っています。
 森鴎外の話になりますが、鴎外は小倉時代に『小倉日記』というのを書いていますけれども、その中に「羽族飛行の理を窮めた人」として矢頭良一という青年と知り合ったとあります。その人は飛行機に関する知識があって、ピストンエンジンでプロペラを回すという構想を立てましたが、1908年(明治41年)11月にわずか30歳で他界してしまったそうです。鴎外は、1901年(明治34年)に「飛行機」という日本語をつくった人ですが、早世した矢頭の葬儀委員長を務めております。このように多くの先駆者がいらっしゃいます。このような先駆者を大いに顕彰していただきたくも文化事業のひとつのお仕事ではないかと思います。


「航空運賃」とかけて「男」と解く・・・
利光会長
 1954年(昭和29年)2月2日に日本航空が国際線第一号となる、サンフランシスコ・ホノルル線を開設致しました。
 当時の運賃表によりますと、何と東京−ホノルル往復のファーストクラスが33万3千円とあります。現在ホノルル線は、宿泊つきで10万円以下のツアーもあります。当時のサラリーマンの月給は、1万円以下でしたので、33ヶ月以上月給を払い続けなければならない金額でした。戦後から今日にいたる日本でのものの値段を考えますに、「男と航空運賃の値段」が最も下がったのではないでしょうか。
写真 鍛治評議員鍛治評議員
航空運賃を払った方の側から申し上げますと、私が初めて飛行機に乗ったのが1957年(昭和32年)7月です。入社して間もなくでしたが、当時の初任給は9,800 円で、羽田―札幌間が、確か1万100 円でした。要するに初任給より少し高かった。飛行機は日本航空のDC4です。新入社員で多忙を極めており、やっともらえた有給休暇の初日に網走の地に立っていたかったわけです。夜勤明けに午後3時頃に仕事を終え羽田へ駆けつけて、千歳まで飛びました。札幌を経由して夜行で網走へ向かい、第1日目の朝、念願の網走に着きました。今では秘境とはいえませんが、知床半島へ行ったのです。写真を撮り原稿を書いて、5日目に帰ってきました。会長が「男と航空運賃は戦後、最も値段を下げた」と言われたように、航空運賃は十分安くなっているのを実感しています。
写真 齋藤氏齋藤氏
私が自分で運賃を払ったわけではないのですが、中学生の頃、母(齋藤輝子氏)に連れられて東京〜大阪まで飛行機(フォッカー・スーパー・ユニバーサル)に乗りました。後でパンフレットを見ると運賃は30円でした。そのころの大学卒業生の初任給が60円程ですから、初任給の半分ぐらいの運賃でしたから大変高いわけでございます。
 我が家で最初に空を飛んだのは父(齋藤茂吉氏)で、1929年(昭和4年)に朝日新聞社のドルニエ・コメートという飛行機で立川飛行場から関東平野を一周しておりますが、そのときに60首ぐらいの歌を詠んでいます。その中に愉快な歌が1つありますから御披露します。
「我より幾代か後の子孫ども、今日の我が得意をけだし笑はむ」です。しかし、我より幾代か後の子孫ではなく、翌年に私が乗ってしまいました。このように航空の進歩が早かったということがあったわけです。写真


「航空技術革新の50年」
東理事
この50年の間に航空と宇宙に何が起こったかを観察してみます。
まず機体でいいますと、プロペラ機からジェット機に変わり、1952年に、コメットが旅客機として羽田に飛来しました。画期的な事象の一つです。私は、1959年にプロペラ機のDC7Cで渡米し、1961年に帰国する時は、ジェット機のボーイング707 でした。ジェット機によって低亜音速から高亜音速に高速化し、地球が狭くなりました。
 1960年代に超音速機(SST)の問題が出てきました。人類は1947年、米国空軍のチャック・イエガーによって音速を破っていますが、輸送機にとっては未知の分野でした。国際的なSSTの開発競争がはじまりましたが、ソニック・ブーム(音速突破時の衝撃波)の発生や成層圏の直接汚染などによってアメリカ国内での飛行に疑問がでてきました。1960年代の終わり頃、超音速旅客機の開発を断念し大量輸送へ向けて大型機の開発を行い、御存知のように数百人乗りの飛行機ができあがりました。今後さらに、巨大化の方向に向かいつつあります。
 その後、耐久性、軽量化そして加工の容易さなどから、新素材が開発されそして使用されるようになりました。ライト兄弟のフライヤーは布と木材で作られていましたが、やがてアルミニウム合金、そしてチタン合金を使うようになったわけです。現在はFRPやカーボンファイバーの使用が増えています。
 また、設計・製造部門での変化は、エレクトロニクスの発達によって計算能力が向上したことです。私は、航空再開の次の年に卒業しましたが、航空機の設計計算は手回しのカルキュレーターを使っていました。このような変化が50年間でありました。
平沢副会長
 私も大学の航空学科時代、手回しの計算機で航空機の設計をやっていました。日本航空時代は、整備部門や技術部門、最後に運航を担当しましたが、工学における驚くほど急速な変化と進歩については、まったく同じ経験をしています。
わが国で戦後制作したYS11は、鈑金の機体で人力操る最後の旅客機だと思います。油圧から電動モーター、フライバイワイヤーそしてフライバイライトとなり、情報伝達も便利で早くなっています。今後も航空機の安定・制御システムが進化していくと思っております。
東理事
情報通信で画期的なものは、通信衛星などが打ち上げられ確実な運航が可能になりました。ソ連のスプートニク1号が打ち上げられたのが、1957年です。ガガーリンの有名な言葉「地球は青かった」は1961年。1950年から1960年代にかけて次々に衛星が打ち上げられ、今一番我々にとってありがたいのはGPSです。航法衛星によって、自分の位置が簡単に分かるようになり、これからの航空管制はGPSを抜きにして考えられないと思います。航空機同士の間隔を縮め、航空路を有効に活用できるので、全ての航空機の運航に有効活用して欲しいと思います。
 50年を振り返りますと、飛行機の他に回転翼機の発達も著しいと思います。朝鮮戦争の際は傷病者の救出や死体を運ぶ程度にしか使われていなかったヘリコプターが、ヴェトナム戦争以降では小隊を運ぶ輸送機として使われています。軍用機以外でもヘリコプターは、我が国のように山が多い地形や飛行場が少ないという条件下での近距離(200〜300km以下)の輸送に適合するものです。将来は1,000kmくらいまでの航続距離の長い輸送にティルトローターが有望で、今後回転翼航空機が近距離輸送の主役になると思います。

写真 東理事「航空の延長線上で考える宇宙」

東理事 
 宇宙開発については、高額な料金で宇宙旅行は実施されましたが、まだ一般的ではありません。近い将来に、宇宙旅客機が完成し、安価な宇宙の旅が実現すると思います。
 そして最も大事なことは安全問題です。どんなに飛行機が発達しようと、鍛治さんが日頃指摘されていますように、自動制御系がどこまで安全を保ってくれるかという問題があります。今の航空機は自動制御系を積んでおり、要するに固有安定を減らしても、性能を上げて、軽くして、できるだけ多くのお客さんを安く運ぶという方向で進んでいます。万が一、自動制御系が故障したときに、固有安定で飛べるかどうかのぎりぎりのところで設計をやっております。
そこで、自動制御系が本当に人間の命をどう守ってくれるのか、マン・マシーン・システムとして人間がどこまで自動制御系にオーバーライドできるようにするかの問題があります。ヨーロッパ(特にフランス)の考えのように、最後まで自動制御系が面倒を見るから全く人間は手出しをするな、という方向でいくのか、アメリカのように人間のオーバーライドを安全の最後の砦とするのかは、これからのいろいろな事故の解明を経ながらどちらかに決まっていくと考えています。
利光会長 
21世紀は、情報化時代、宇宙時代、いろいろといわれております。その中でも、コミュニケーション・ネットワーク産業は限りなく伸びていくと考えています。IT技術の進展で、仕事でも日常生活の面でも人々は簡単に頻繁に連絡をし合うようになります。人々はそれだけ頻繁に気楽に航空で往来し、それが地球上であったり、地球の上空のかなたであったりするかもしれません。
そうした時代が目と鼻の先に待っているからこそ、我々は、宇宙までの飛翔を可能にしてくれた、戦後の苦しい時期を生き延びた先人の熱い想いを、今こそしっかりと受け止めて、これからの21世紀を進んでいく原点として見つめたいと思う次第でございます。
写真 本橋専務理事司会
日本航空協会は、8月1日、航空宇宙輸送研究会を立ち上げました。現在宇宙3団体といわれる宇宙開発事業団、航空宇宙技術研究所、宇宙科学研究所、メーカーの日本航空宇宙工業会、そして航空3社などの組織と一緒に宇宙旅行への実現に、人々の興味を盛り上げていく一助となりたいと考えています。
この50年間の航空と宇宙の進歩に感謝し、人類の平和と心の豊かさにたとえ微々たるものであっても貢献していきたいと願っております。



『航空と文化』2001年秋季号より転用掲載

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