「日本航空一期生」を出版して

ミリタリー調制服とトルネードステーキ

 コロナ禍のなか、今年も蒸し暑い日本の夏がめぐってきた。
 毎年、衣替えの時期には、衣装ケースの中身を総入れ替えすることにしているが、そのなかで中身を入れ替えない一つのケースがある。
 それは、日本航空時代の制服一式がつまったものだ。
 紺色のミリタリー調のワンピース、真ん中には金色のボタンがウェスト下まであり、赤いベルトがアクセントである。森英恵氏の絶好調時代のデザインで、いちばん長期間にわたって着用されたスチュワーデスの制服ではないだろうか。
 1978年の成田国際空港開港前年の入社試験の時、面接で制服の印象を聞かれたことを記憶している。その時の私の答えは、
 「帽子はバッキンガム宮殿の近衛兵のようだと思いました」
 大学4年の夏の二ヶ月、イギリスでホームステイを経験してから、すっかり海外の魅力に魅せられていて、応募したようなものだった。
 数年の勤務の間に、ブラジル線を除く国際線をすべて飛んだ。制服にはその思い出がつまっている。厚手の生地のそれを纏うと、蒸し暑いステイ先では、じんわりと汗が滲んできたものだ。飛行機のタラップを下りる時、ほっと一息ついて仲間と談笑しながらクルーバスに乗り込むとき、日本とは違う匂いと空気感が迫ってくる。遠くまで飛んで来た実感をもつ瞬間だった。
 五感が現地に馴染まない時は、このウールの制服は、鎧のように守ってくれた。戦闘服とでもいっていい丈夫さだった。たしかに、ジャンボジェット時代の400席越えの旅客へのサービスは、戦闘といってもいいものだったかもしれない。
 一方で、ファーストクラスでは、パーサーが鶴のデザインをあしらった優雅なロングドレスを着て、ワゴンで客席をまわり、乗客の好みを聞きながらオードヴルやデザートをサービスした。また、狭いラバトリーで着替える和服は、雅な日本らしさの演出だった。
 今でもファーストクラスでは同じようにグレードの高い食事がサービスされているだろうが、当時、エコノミークラスの東京発の食事は、どのくらいの価格だったのだろうか。東京発は、牛ヒレにベーコンが巻いてあるトルネードステーキと決まっており、毎回、乗客が映画を鑑賞する時間になると、薄暗いキャビンの片隅で食べたものだ。
 400度のオーヴンで焼くこと15分。カートの上から下まで並ぶ十数枚のトレイの真ん中に、高温のオーヴンからキャセロールを取り出して置いて行く。それは新人スチュワーデスの仕事だった。だから、それをラインに出て完璧にこなすために、訓練所では教官がストップウォッチを握りしめて、そのタイムを計った。急ぐあまり二の腕の内側に火傷をすることもあり、「香港でタイガー・バームを買って、いつも携帯していたらいいわ」と先輩が臭いの強い軟膏をつけてくれた。
 最近、コロナの危機的状況を乗り越えるために、機内食が通信販売されるようにもなったらしい。航空ファンは多く、巣ごもり需要で大人気だというのでネットを見てみると、700円から1800円ほど。あのトルネードステーキだったら、数千円はするはずだ。それも古きよき時代となり、21世紀の航空業界は、熾烈な競争を展開することになってしまった。

おもてなしの原点

 スチュワーデスの仕事は、一期一会である。スポットカンバセーションこそ顧客を作り、リピーターを作る。今回のオリンピック誘致の時「おもてなし」という言葉が注目されたが、その原点は、世界に進出していく際に考え出された日本航空のサービスにあるように感じる。
 戦後出遅れた日本航空が集客のために生み出したアイディアは、独自の伝統をもつ日本的演出であると指摘したのは、アメリカの広告会社だったらしい。それが鶴丸であり、古美術カレンダーとなった。
  それがどのように考えられたものかは、今回『日本航空一期生』(中公文庫)の執筆過程で、生存している創業時の社員一期生たち、運航、整備、営業、スチュワーデスら元社員を訪ね、JALのアーカイヴスに眠っている膨大な資料を発掘して知った。JAL在籍時には知り得なかった古巣の歴史だった。

飛行館と航空会館

飛行館

飛行館

 さて、私が日本における航空の大本山である日本航空協会の航空会館の存在を知ったのは、もう25年ほど前、二冊目となる女優・杉村春子の評伝を書いていた時だ。
 杉村春子の初舞台が、航空会館という名称となる以前の「飛行館」であり、演劇の公演をするのに、飛行館とは変わった名前だな、と思った。航空会館のある内幸町あたりはかつて田村町と呼ばれ、1929年に建てられた6階建の建物は、東京で一番の高層建築で、「田村町の飛行館」といえば全国に名前がとどろいていた。現代でも全国一高いビルが話題になるように、当時もまさにそうだった。
 5、6階は吹き抜けになっていて、モボ、モガと言われる格好を好んだ進歩的な新劇、つまり築地座、文学座、俳優座、民芸など、海外の演劇を紹介する劇団が使っていた。飛行館は時代の先端をいくシンボルだった。

 最近では火星探索機の話題が報道されるが、そんなところまで行くことを20世紀初頭に誰が想像しただろうか。
 そもそもライト兄弟の世界初の有人飛行から、まだ110年あまりしか経っていない。奇しくもこの年に、『日本航空一期生』で主軸とした航空人・松尾静磨が誕生している。
 それから7年後、日本でも軍人が海外から持ち帰った飛行機を操縦して飛んだ。代々木の練兵場と言われていた今の代々木公園・NHKあたりは一面が原っぱで、その上空を最高高度70メートルほどで、四分間ほど飛行した。距離にして3000メートルほど。1910年でまだその程度だから、航空技術の革新というのは、凄まじい。
 その後、1914年に勃発した第一次世界大戦が、世界的な航空の一大転換期となり、日本でも東京帝国大学に航空研究所を作って機運が高まった。これにより日本の航空技術も革新的に進歩することになった。
 最近、民間会社の宇宙計画が報道されるようになったが、アマゾンのジェフ・ベゾスは、宇宙空間をもっぱら産業用にして、地球は旅行に行ったり、ピクニックをしたりするような星として構想しているらしい。地球を汚染せず、にということだろう。地球は宇宙から見ると、儚く美しく、これを破壊しようと誰も思わなくなるだろうと言った宇宙飛行士がいたが、儚い地球の環境保護のために航空技術が使われる日も、そんな遠い将来ではないのだろう。

エアガール

 さて、3月末、拙著が『エアガール』というタイトルで、テレビ朝日系でドラマ化された。主演の広瀬すずが人気で、彼女のエアガール姿がしょっちゅうテレビで流れていたので、多くの人はいわゆるスチュワーデス物語だと思っていたということだが、放映後、その反応は大きく変わった。戦後の日本の民間航空再開が色濃く描かれていたからである。
 ドラマでは白洲次郎を除いて、「日本航空」という社名も、実在の社員の名前も使われなかったが、物語自体は、占領下に100パーセント民間資本で航空会社を立ち上げた『日本航空一期生』そのままだった。
 その広瀬すずが「戦後初のCAに応募して」というところから、話が展開して行くため、戦後になって初めてエアガールが誕生したと思った人が多いらしいのだが、実は、エアガールは戦前から存在した。
 1928年ごろには、日本航空輸送ほかいくつかのローカル線を運航する飛行機会社があった。満州事変の起こる1931年には、ローカル線運用会社に三人のエアガールが採用され、東京=清水間を飛んだらしいが、月末の初めての給料があまりに安かったので辞めてしまい、エアガールは廃止されたという。この区間が可能なのは、当時は、水上機による公共水面利用が主流だったからだ。
 韓国を植民地としていた日本からは朝鮮半島へ向けて定期便も飛んでいて、同年には我が国初の国営の国際飛行場として、羽田東京飛行場が開場した。とはいえ、コンクリートの滑走路は幅15メートル、長さはたった300メートルだった。整備は予算不足で万全でなく、開場式もなかった。羽田は水陸両用空港で、海老取川の水上で離着陸もした。その後戦時色が強くなるに従って、全国の飛行場が整備されるようになっていく。
 中国大陸への進出もはかられ、時代も航空事業を後押ししたようで、この時代に再びエアガール募集がなされ脚光を浴びた。
 実は、これに知人のお母様が応募していた。娘である彼女自身、母上生存中は、エアガールの試験を受けた事実はつゆ知らず、葬儀の席で親戚から聞いて驚いたのだという。
 「華やかなエアガールの世界に似合わない」と送ってくれたのが、下の写真である。今回、日本航空協会の協力を得て、写真の詳細もわかった。

 この写真は、1936年に東京航空株式会社が「エアタキシー」のために新規募集したエアガールの採用試験の写真だった。タクシーのように気軽にというわけか、ネーミングが「エアタキシー」。東京・京浜地区を遊覧飛行するにあたってのエアガール募集である。雑誌『別冊1億人の昭和史日本航空史』には、このほかにも数葉の写真が掲載されており、試験飛行を含む適正検査の様子がわかる。
 さて、頭に手を当てている女性のすぐ後ろにいるのが、知人の母上である。
 実は、この女性こそ、今回のテレビドラマ化で、広瀬すず演じるエアガールのバックグラウンドとなった。
 初めて中央公論の社屋でプロデユーサーにあった時、本に書いてないことを教えて欲しいといわれ、私はエアガールが戦前にあったことを口にした。
 18歳の知人の母上は、新橋で仕出し料理屋を営んでいる店の看板娘である。つまり飛行館からすぐ近くに店があり、それで、どうやら航空関係の人にエアガールの募集があるからと、勧められて応募することになったと思われた。しかし、結局、空は飛ばず、彼女は民芸の創立メンバーの俳優・下元勉氏と結婚した。
 新橋には新劇人、宇野重吉や滝沢修など劇団民芸の根城となる「蟻屋」という喫茶店もあったから、そんな関係で知り合ったはずだ。飛行館周辺はまさにドラマ誕生の地だった。

東京エアベース

 敗戦によって、日本人の価値観は180度転換することを余儀なくされ、アメリカ的民主主義が日本を席巻した。占領軍は、不在地主の手にあった広大な農地を小作人の手に解放するという大胆な改革もおこなった。文化的側面では厳しい検閲が行われ、軍国主義と結びついたものは徹底的に排除された。歌舞伎の切腹や忠臣蔵など忠義を題材にしたものは禁止され、一方、映画で大いに奨励されたのが、戦中は禁止されたキスシーンだった。キスは民主主義のシンボルとなった。
 航空においては、航空禁止令が発令され、事業や製造、学術研究に至るまで一切の航空活動が禁じられた。国内にある飛行機という飛行機が破壊された。
 1945年8月末にアメリカ軍を主体とした連合国軍の進駐が始まるや、9月13日には、羽田の海老取川以東の住宅や諸施設の接収を発表し、9月29日を限って居住者全員が立退くことになった。それも紙一枚の通告である。
 こうして連合国軍、実質はアメリカ軍によって空港が整備されていく。本来の東京飛行場の北側にある地区と南側地区をつないで羽田は拡充され、A滑走路の基礎工事が始まった。
 北側の島の中の黒く写っているのが三角池で、もともとあった日本の飛行機はブルドーザーで運ばれて池の中に沈んで行ったらしい。その右上にある逆L字形の滑走路が薄く映っているところが、本来の飛行場である。

拡張工事中の羽田(1946年4月9日撮影)。矢印は三角池を示す。<br>出典:国土地理院ウェブサイト(加工して使用)

拡張工事中の羽田(1946年4月9日撮影)。矢印は三角池を示す。
出典:国土地理院ウェブサイト(加工して使用)

 国内の飛行機は全て破壊命令が出された。各地の飛行場の施設も壊されることになったが、この時、航空局では若手の松尾静磨が動いた。
 「全部壊したら、あなた方が困るのではないですか」
 松尾の一言がGHQに現実を知らしめたのだろう。航空局は、所帯を大幅に縮小したものの解体を免れ、航空保安部となって残った。松尾は、伊丹空港の設計など民間航空だけに関わったとしてパージを受けず、この航空保安部の責任者となった。そして航空が日本人の手に戻ってきたときのために、各地に散った技術者や操縦士を航空保安部に呼び寄せ、なんとか日本の航空を温存しようとした。この行動によって日本の航空は完全な解体を免れることになる。

白洲次郎の介入

 飛行場はすべて米軍の管理下である。航空保安部は空港整備のドカタの親分のようだったと回想した人もいた。
 一方で海外からは民間機が飛んできていた。大型のプロペラ旅客機であるパンアメリカン航空のストラトクルーザーは語り草になるほど豪華で、二階構造の客室にはベッド、一階にはバーやソファを備えたラウンジがあった。世界の航空は日本を置き去りにし、驚くほどの進歩を遂げていたのである。東京飛行場にはノースウェスト航空、英国航空、フィリピン航空、スカンジナビア航空など、国際線を持つ世界の民間機が離着陸していた。
 一方で、国内航空は空白になっていたから、外資はGHQに競って事業許可を申請し、日本独立後の国内定期航空の利権に目をつけていた。
 当時、南米の空はパンアメリカンがほとんど独占していたから、その構造が日本にも取り入れられる可能性が大きくなった。
 それを後押ししたのが、白洲次郎である。
 白州は吉田茂と親交があり、第二次吉田内閣で貿易庁が新設されると、その初代長官となった。吉田内閣における側近政治だとマスコミは批判した。竹中平蔵がいい例だが、現代では民間人が大臣に就任しても政権非難が巻き起こることはないが、かつての日本では選挙を経ていない民間人が政治に加わることはなく、政界からも財界からも批判が上がった時代だった。
 その白州が外資と組んで動き出したから、航空人は驚愕した。吉田内閣では、金のかかる事業はアメリカに任せるという方針が貫かれていたのである。
 調べてみると、鉄鋼業においても白州次郎はイギリス資本に任せるべく動いた。広畑製鉄所にいた永野重雄が銀座のクラブで白州二郎に出くわし、柔道の嗜みのあった永野は白州を組み敷き、その後白州は退いたという。そのほかの業界でも同様の事例がある。もしその時、各業界の主導者たちが踏ん張らなかったら、戦後の日本の発展はあっただろうか。日本の主幹産業は外資という事態になっていたかもしれない。
 白州の航空界への介入を阻止したのが、初代社長となる柳田誠二郎や松尾静磨、藤山愛一郎、森村勇ら、日本人の手による航空再開に情熱を持った人々だった。彼らはジャーナリズムに訴え、また朝鮮戦争も追い風となり、1951年、営業部門だけを担う民間航空会社の日本航空ができた。飛行機を持てない航空会社の誕生だった。

100パーセント民間資本会社だった日本航空

 当時の新聞には、「我が空は、我が空ならず秋の空」などという俳句がのっている。
 そんなゼロどころか、マイナスから、日本の航空会社、ナショナルフラッグを誕生させた人々の苦難と喜びを描くには、生存者に取材しなければならないし、資料も漁らなくてはならない。ほぼ5年の月日がかかった。これまでおもに評伝を書いてきたのに、そんな挑戦をすることになったのは、私が日本航空に勤務していたことを知る編集者の勧めからだった。日本航空を描くことは、青臭く言えば、私の青春の総括だとも思えた。
 それにしても、私が勤務した頃、半官半民だった日本航空がそもそもは、完全な民間航空会社として出発していたとは。JAL破綻に当たってさまざまな本が出版されていたが、そこにあるのは間違った記述ばかりだった。日本航空の真実を調べる必要があった。
 JALの広報部の社員と会ったのは、銀座日航ホテル、創業当時に本社があった場所である。
 本社といえば体裁はいいが、元は時計屋の建物で、会社らしい体裁を整えるための突貫工事が夏の盛りに行われた。一階に営業部門とチェックインカウンター、乗客はここでチェックインし、荷物を預ける。スチュワーデスはここから乗客と一緒にバスに乗って飛行場に向かう。検問所では同乗した地上職員が乗客名簿を差し出して占領軍のチェックを受けた。それは緊張する一瞬だったという。二階には社長室、三階は屋根裏のような部屋で夜勤の社員らの休憩所となっていた。
 ある時、初代社長となった柳田誠二郎がスカンジナビア航空の社長を、幾分恥じらった気持ちで社長室に案内した。鴨居は低く畳敷きである。すると、青い目の社長は次のような助言をした。
 「航空会社は社屋をよくする必要はない。社屋にかける金があったら、全部飛行機にかけないといけない。そして飛行機はそれまでにたくさんの会社が使って、ぜったい間違いないという型のものを選び、それ以外は買うものではない」
 柳田はこれを金言とし、のちには購入予定だったコメットをキャンセルした。世界初のジェット旅客機と世界が注目する中、海外で事故が続いたからだった。

臆病ものと言われる勇気を持て

 もく星号事故を契機の一つとして、運航を日本人の手に取り戻した日本航空だが、専務のちに社長を務めた松尾静磨は「臆病者と言われる勇気をもて」と常々口にした。安全第一こそが会社の存続を意味していた。
 整備出身の平沢秀雄は、「修理を急げと言われることはなく、現場の声をよく聞いてもらえた時代だった」と回想している。
 松尾は、決して油断することはなかった。
 「なぜこんなに重い飛行機が空に浮くか。デカい金属の塊が空中に浮くことは一つのねじ、配線、この機体を操縦する人間が、何一つ誤りをおかしていないからだ。つまり飛行機を作る人、それを整備する人たちすべてが当たり前のことに全力をあげているからだ。その一つが崩れた時、どうなると思う?」
 機械文明の象徴である航空機の安全を、技術屋出身でありながら、松尾は祈るような気持ちで願っていた。少しでも天候が悪ければ、夜と言わず早朝と言わず、羽田の運航統制室に電話をかけて、全路線の運航状況が正常かどうか確かめた。
 機長たちには、「天候が悪い到着地の空港上空で、ちょっとでも不安や危険を感じたら、遠慮なく引き返してほしい。他社機が降りているのに格好が悪いとか臆病と謗られてしまうというようなことは気にせず、安全を一番に考えてほしい」
 運航乗員や整備士の仕事では、ちょっとした勘違いのような、人間にありがちな誤ちが致命傷となる。それは技術のよしあしからくるものでなく、もっと人間的な、状況判断力からくるものだと感じて、運航にたずさわる一人一人が健康で、精神的に安定していることが安全に欠かせないと、労働環境整備や家庭の安らぎが大切であると説いた。
 機長昇格試験に合格して任命する時には、社長室で任命式が行われた。その時、フライトには家庭第一主義が安全運航を生む、と笑顔で語りかけた。
 機械技術もそれを使う人間も決して常に完璧なはずがないという疑いの気持ちこそが、安全を生むという信仰である。松尾は祈りの人であった。安全こそが会社の存続を意味した。

 私の出身地である茨城県筑西市には、100万平方メートルの敷地のある「ザ・ヒロサワ・シティ」* がある。精密金属プレス加工などから創業し、何十もの会社を所有する廣澤清氏は、隈研吾設計の美術館に中川一政のコレクションを並べ、さらに鉄道や飛行機の収集も始めた。航空ミュージアムでは戦後初の国産旅客機YS11や国立科学博物館から移した零戦も公開されている。
 そんな展示をコロナ禍でも見に行くほど、私には航空愛が復活してしまっている。『日本航空一期生』出版にあたっては、多くの航空人に出会うこともできた。そんな人々の大空への思いに接すると、またなにか航空に関する著書を著してみたいと思い始めるのである。

※(参考)ザ・ヒロサワ・シティ ホームページ:https://www.shimodate.jp

執筆

中丸 美繪

*本記事は『航空と文化』(No.123)2021年夏季号からの転載です。

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