小谷式ユングマンの挑戦

小谷式ユングマンの挑戦

1. ビュッカー Bü131 ユングマンとは

図1:ユングマンは第2次世界大戦中に日本でもライセンス生産 されました。写真は海軍で試用された輸入機。

図1:ユングマンは第2次世界大戦中に日本でもライセンス生産 されました。写真は海軍で試用された輸入機。

ビュッカー Bü131 ユングマン(以下:ユングマン。若者という意味)というバイプレーン(複葉機)スポーツ機をご存知でしょうか。ビュッカー社というカール・クレメンス・ビュッカーが1932年にドイツで設立した航空機メーカーが開発し、1934年に初飛行した初等練習機で、ドイツ以外でも欧州13カ国、欧州以外4カ国に採用されて、ライセンス生産を含めて約5000機が製造され、第2次世界大戦後もしばらく練習機として使用されていました。日本にも輸入されたほか、海軍二式陸上初歩練習機「紅葉こうよう」、陸軍四式基本練習機(キ86)として、合わせて約1200機がライセンス生産されました(図1、表1)。

表1:ビュッカーBü131ユングマンと小谷式ユングマンの諸元
*出典:『日本航空機辞典 上巻 1910–1945』(野沢正、モデルアート社、2002)

特徴は、全ての曲技飛行が可能で取扱も容易、維持費も安くかつ堅牢と三拍子揃っていたことでした。主任設計者は、スウェーデン人のアンダース J アンダーソンで、彼は第2次世界大戦後にスウェーデンで生産されたサーブ91サフィールの設計者としても知られています。

 

ビュッカー Bü131ユングマン

小谷式 ユングマン
エンジンヒルト HM504A2
100hp
ライカミング 0-290-D2
135hp
全幅(m)7.407.40
全長(m)6.626.62
主翼面積(m2)13.513.5
自重(kg)380449.5
全備重量(kg)670670
最大速度(km/h)180195
着陸速度(km/h)82110
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2. 私が自作航空機にユングマンを選んだ理由

図2:自由航空研究所(株)のJHX-4型ラムジェットヘリコプター。右の学生服姿が筆者、操縦席に萩原先生が座っています。

図2:自由航空研究所(株)のJHX-4型ラムジェットヘリコプター。右の学生服姿が筆者、操縦席に萩原先生が座っています。

私が自作航空機にユングマンを選んだのは、戦後の日本に安価に乗れる練習機が無かったからです。セスナ150が一番フライト料金が安かったのですが、それでも若いサラリーマンには重荷でした。1959年当時、私は東京都立航空工業高等学校(現在の東京都立産業技術高等専門学校の前身)を卒業後、萩原久雄先生が所長を務める自由航空研究所(株)で JHX-4型(日本で初めて離陸に成功したラムジェットヘリコプター。図2)の開発の手伝い及び小型ホバークラフトの試作研究をしていました。あるとき、萩原先生が、「昔、満洲(中国東北部)で陸軍の航空部隊がユングマンを使用していたが、抜群に運動性の良い機体で、かつ整備も容易であったと言っていた。小谷君がスポーツ機を作るなら是非ユングマンにしなさい。」と言われました。

その後、調布飛行場で陸上単発のライセンスを取るため、有楽町の宮入医院(指定航空身体検査医)に行ったところ、宮入文悦院長から突然「私は昔、少年航空兵としてユングマンで練習を重ね、わずか9時間で単独飛行に成功した」と聞かされてビックリしました。「小谷君、私はビュッカーの本物が欲しいのだ。あなたは自作機ビルダーだと聞いているが、作れないものだろうか?」と打診されたことを覚えています。
 また、1968年、エクスペリメンタル航空機連盟(以下、EXAL)の前身である日本自作航空機協会が発足し、会員になりましたが、その初代会長・宮原旭氏にユングマンのことを話すと、作りやすい機体であると仰っていました。3人の先生が口を揃えて良い機体であると推薦されるので本気になって検討を始めました。
 日産自動車にエンジニアとして就職してからも、ユングマンへの興味は失いませんでしたが、資料はいくら調べても雑誌の三面図程度のものが数枚と戦時中の搭乗記事ぐらいしかありませんでした。萩原先生から、「終戦直後、四式基本練習機の図面一式を10万円くらいで売り歩いている元軍人がいた」と聞いて、八方手を尽くして探しましたが消息はつかめずじまいでした。今もどこかに埋もれているのではないでしょうか。
 1976年夏、とうとう意を決して、もともとユングマンのファンでもあった坂田守氏(後に本田航空社長)、平嶋健三氏(日産エアロクラブ)を誘い3人でヨーロッパにユングマン探しの旅に出ることにしました。しかし出発直前まで、これといった情報はつかめていませんでした。出発直前に坂田氏の友人である西ドイツ・エアランゲン市在住のシーメンス社技師ヴィクトル・アルレート氏が十数年かけてユングマンをレストアし ドイツ航空局で耐空証明を取得したことが分かって訪問しようとしたのですが、都合で会えずじまいとなり、作戦変更で北ドイツからヨーロッパを縦走してオーストリア、スイスまでユングマンの在りそうな飛行場を巡る旅をすることになりました。2日目、移動距離は870キロ、ドイツを過ぎ、オーストリア国境を越えてスイスの検問所に着いた時、スイス側をヒョイと見ると、バイプレーンらしきものがタッチ・アンド・ゴーをしているではありませんか。通関もそこそこにボーデン湖畔にあるアルテンライン飛行場に駆けつけました。
 そこでは正に FFA(Flug-und Fahrzeugwerke Altenrhein。アルテンライン航空機および車両製作会社という意味)所属のユングマンが、飛行クラブ員のためにタッチ・アンド・ゴーを繰り返していました。エンジンスタート時にはシトロエン2CVを電源車として使用していました。ダメ元で、そのリーダーに「我々はユングマンを求めて日本から来たばかりで、ドイツのアウトバーンを南下して2日目に偶然チャンスが訪れた」ことを説明し、数分でも良いから試乗させて欲しいとお願いしました。驚いたことに、この FFA の職員は2回ずつ乗せてくれました(図3、4)。

その時の感想は、フィーリング的にセスナと全く異なる、ということでした。セスナが乗用車ならユングマンはオートバイという感じで、特に着陸時の高度処理は機体をクラブ(カニの横ばいのように)に傾け急角度で突っ込み、地面すれすれで引き起こして短距離で着陸しました。この日はボーデン湖を見下ろす高台のホテルでホンドボーを肴に祝杯を挙げたことは言うまでもありません。しかし、製作を始めたのはそれから23年後の1999年でした。それまで何をしていたのか?と思われるでしょうが、ちょうど各社、クルマの開発競争が激しくなり、休みは日曜日のみ、月間残業100時間に達し、自作機をつくる体力も時間も無くなってしまったのです。

3. ユングマンの製作スタート 亀のような開発スピード

図5:筆者が作成した1/10の全体レイアウト図

図5:筆者が作成した1/10の全体レイアウト図

1999年11月から本格的にプロジェクトを始めました。資料探しはそれ以前から始めていましたが、なかなか欲しい資料、例えばビュッカー社の正規図面、それも製造図は見つかりませんでした。スケッチのような絵は見つかるのですが、寸法の入った図面がなかなか見つかりません。また、強度計算書、性能計算書もしかりです。ドイツ本国をいくら調べても入手できなかったのですが、1976年までライセンス生産されていたスペインのCASA社の1.131型のフライトマニュアルと機体マニュアルはヤフーで入手しました。これによりおおよその寸法と重量、重心位置のデータが判明しました。これを基に1/10の全体レイアウト図を作成しました(図5)。また、スラスト軸、上下主翼および水平尾翼の取付角がわかり、次に各セクションの計画図作成にかかりました。

図6:アルレート氏から届いた主翼構造図

図6:アルレート氏から届いた主翼構造図

最初は主翼の翼型も分からなかったのですが、そのうち NACA3410.5 ということがわかり、その特性線図により性能計算ができるようになりました。1976年には会えなかったアルレート氏からビュッカー社オリジナルの主翼構造図のコピーが送られてきました(図6)。それは本格的な製造図で詳細に寸法すべてが記入されていました。

正規の部品図が入手できなかったため、主翼を構成する取付金具、翼内張線などの図面はなく、主翼構造図から起こしていく必要がありました。
 胴体、尾翼、主脚、エンジンマウント等の図面もアルレート氏に送ってもらった図面(図7)を基に数百点の部品の設計図を起こしていきました。製作した図面は計画図25枚、部品図480枚、取扱図50枚ほどでした。図面作成のための検討・計算を入れると合計3,750時間になりました。

この時点で全体を性能的にも構造的にも把握する必要が出てきました。性能的代表値は資料で知ることができましたが、いざ自分で性能計算をするとなると、基本となる重量を特定する必要があります。参考にした資料によれば、全備重量670kgとなっていましたが、構造重量がいくらになるのかは実際に約5,000点の部品重量を積算しないと出ないわけです。(ただし、それも図面上の計画重量ですから、正確には初号機完成後でないと分からないわけです。)ここで重要になってくるのは使用する材料を決めることです。金属材料・部品は米国製の航空機用正規品を使用することにしました。
 迂闊なことですが、設計していくうちにこれは相当な覚悟が必要だなと分かってきました。かつて日本でライセンス生産を担当した国際航空工業などの正確な体制は知りませんが、たぶん開発技術者のみで数十人、それ相応の試作工場で大勢が対応したと思われます。最も重要な設計図、製造・試験飛行に関するマニュアル等すべてがビュッカー社から提供されたでしょう。資金は軍から出ていたでしょう。試験飛行はもちろん軍の飛行場が利用できたでしょう。これに引き替え我々の開発体制は設計・試作・実験・調達・経理・その他全体でクラブ員数名の体制でした。
 組立場所(約40坪=主翼の強度実験に必要な床面積)として厚木の関口に土地を購入し作業所を建てました。この段階で退職金が0円となり、家族会議で老後の生活をどうしてくれるのかと大問題になりました。日本の自作航空機作りに少しでも貢献することが目的だと説明したのですが、平成のドンキホーテを気取って老後の生活をメチャメチャにするのはやめてほしいとのことでした。常識的に考えればまさにその通りで、あれこれ考えたすえに、大学の客員教授になるなどしてサラリーマン生活を再開し、退職金の穴埋めと生活費に当てることになりました。
 ないない尽くしで始まった貧乏プロジェクトですが、開発費が無い上に私がサラリーマン生活に戻ってしまったため、設計・部品製造は休日のみとなってしまいました。普通、ユングマン程度の自作機を作るには部品製作、組立まで約1万時間かかるのが常識です。1999年に開発を開始してから2020年10月にジャンプ飛行30回を終了するまで、約20年かかってしまいました(図8、9)。

設計上の最後の難問はエンジンでした。オリジナルはヒルトの倒立4気筒105馬力です。このエンジンも探しましたが、本場のドイツでも入手できず戦時中のものをスイスでオーバーホールしている有様です。幸いスイスのモランド社がライカミング150馬力の水平対向4気筒エンジンに換装し耐空証明を取得していたのが参考にできたので、たまたま所有していたライカミング135馬力エンジンを搭載できるように胴体を設計しました。私の場合は新造胴体ですから載せやすく、エンジンマウント、カウリング類、排気系部品はパイパーPA-18-135型のものが流用できました。ちなみに米国では多くのユングマンがライカミングエンジンで飛んでいます。
 重心位置の特定も難問でした。複葉機の重心位置はどのように求めるのか、日本では戦後複葉機を作っていないため知っている人がいませんでした。古い資料を調べていくうちに『九三式中間練習機取扱説明書』(海軍航空本部、昭和19年8月)に相当翼弦に対する重心位置関係図が見つかり、この方式を参考にして計画重心位置を決めましたが、半信半疑の状態でした。どうしても地上滑走するまでに本物のユングマンの重心位置を知りたいと思っていたところ CASA1.131 の資料の中に許容重心範囲を発見しました。そしてアルレート氏からもドイツ航空局で耐空証明をとったときの重心位置データが送られてきました。我々のユングマンの重心範囲は双方の許容重心範囲内に収まっていて安心しました。なお、最終的に実際の重心位置の確認は主輪の下2カ所、尾輪1カ所にハカリを置いて確認し、さらに機体全体をチェーンブロックで吊り上げて重心位置を実測しました。
 メインギヤとテールギヤについては、おおよその図面があったものの主脚ストラット、オレオのショックアブソーバーの減衰力特性、バンパーラバーの荷重・たわみ特性などは全く分からず推定一輪荷重、ホイールストローク最大上下荷重等から算出しました。特に横荷重とシミー(異常振動)発生の程度はまったく分かりませんでしたが、満洲で使用していた際、主脚が弱かったとの情報は得ていました。ドラムブレーキからディスクブレーキに変更したことが改良点です。
 本機は荷重制限が最大12Gとして設計されていましたが、製作した主翼、胴体、支柱等主要部品が本当に充分な強度を有するのか確認する必要がありました。一番気になるのは主翼桁の強度です。スプルースの桁材とリブと張線で全体の剛性を保つ構造です。最大飛行荷重は670kg、主翼面積は14.8m2(上翼中央部を含む)、翼面荷重45.3kg/m2となります。今回初めてのこともあり、A類(曲技飛行が全て可能)までは狙わずU類(急激な運動および背面飛行を除く曲技飛行に適する)相当にとどめ実験をしました。上下逆さまにおいた上下主翼に6G、つまり4,020kg(670kg×6G)の砂袋を載せてたわみ量の測定を行いました(図10~12)。

実験では、まず一袋10kgの砂袋を402袋準備しました。なぜ10kgかというと、主翼の上の載せる際、10kgが持てる限界だからです。片翼にそれぞれ3名、記録および号令係が1名、計7名で実行します。号令一下、1Gずつ主翼に均等に載せていき、2Gごとに計測点のたわみ量を計測していきます。この時、7人の息が合わないと主翼は破損してしまうので注意を要しました。実験の結果、たわみ量は想定内で十分に安全であることが確認でき、12Gまで保つであろう感触を得ました。
 旧ルフトバッフェ(第2次大戦のドイツ空軍)で当時どのような安全基準で設計されていたかは知りません。大戦後、民間の安全基準は大幅に改定されました。まして、戦前の軍用機は特に安全面が見直されていて、アルレート氏に尋ねたところ、彼のユングマンも一新されたドイツ連邦共和国の耐空性基準が適用され、新たに性能計算書、強度計算書を提出したそうです。また、オリジナルのユングマンでは操縦系統の一部に使用されていたピアノ線を捻線(ワイヤー)に交換したそうですが、我々はオリジナルの部品図が無かったことが幸いして最初から捻線を使用しました。アルレート氏からは、我々が行ったユングマンの主翼強度テストは戦後、他の誰もやったことがないことなのでデータを教えてほしいと言われました。
 エンジンマウントと胴体フレームは強度計算をしたところエンジンマウント部は約60G、胴体部は20~40Gの強度がありました。
 複葉機の組立で難しかったのは上翼を正確に組み付けることです。上翼と下翼の取付迎角は2度の違いがあり、かつ上翼の捩り下げ角が0.5度あります。3次元の数値の確保には苦労しました。ビュッカー社の組立標準スペックが不明のため、米軍規格等を参考にしました。ドイツはメートル法ですが、米軍はインチです。工具、強度換算、公差の取り方などインチ基準に換算しました。
 胴体のクロームモリブデン鋼管もオリジナルの0.75mmのものが無く、米国製の0.89mmのものを採用しました。これにより、フレーム重量は19%重くなっています。他にも鋼板、ネジ類でもわずかに重量増加しました。一番重量増加したのはエンジンです。補機を含めるとヒルトと比べるとライカミングの方が32.8kg重いのです。バッテリーを後部座席後ろの荷物室に移し、なんとか適正な重心位置を確保しました。
 全体組立まで分からなかったのは3舵の舵角です。これは地上滑走直前に分かり、正規の舵角に調整しました。住宅地の真ん中の40坪建屋内でエンジンの試運転をしました。まず手土産を準備し、ご近所の家々に XX時頃大音響が響くのでよろしくと挨拶回りをしました。試運転の後、隣の家に聞いたところ、「大型トラック程度で、ヒコーキが落ちるより良いので充分に試運転してください」と言われました。

4. 機体の完成=新たなチャレンジそして地上滑走とジャンプフライト

自作航空機は「航空法第11条第1項ただし書」に従って2段階の試験飛行をすることになります。

表2「航空法第11条第1項ただし書」による試験飛行
出典:「自作航空機に関する試験飛行等の許可について」国土交通省サーキュラー 整理番号 No.1-006
https://www.mlit.go.jp/koku/04_outline/02_anzen/03_keiryo/02_anzen/smp.pdf 

第1段階の飛行

第2段階の飛行

離着陸を行う地表面又は離着水を行う水面上における高度3m以下のジャンプ飛行。原則として、人、人家又は物件の上空を除く場周空域内(飛行場又は航空法第79条の場外離着陸の許可を受けた場所に係る場周空域内)の飛行であって、管制区又は管制圏を飛行せず、かつ、航空法第81条及び航空法施行規則第174条(最低安全高度)の規定を遵守して行う飛行。
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図13:本多正明さん(右)と筆者

図13:本多正明さん(右)と筆者

最初に地上滑走を行う飛行場を探す作業に入りました。これはなかなか難物で我々の本拠地・厚木からの距離が重要です。機材は運び込んでおいても、テスト走行・飛行に毎回でかけるわけです。やはり片道300kmが限界です。混み合っているところも不適当です。皆さんもご存じの通り飛行場を半日貸し切る対価は高額でそれを何回も繰り返すことになるため、高額となります。
 いろいろ検討した結果、富士川滑空場が一番望ましいことが分かりました。使用許可は静岡県航空協会にいただく必要があります。さっそく静岡県航空協会の理事とEXALの理事を務める本多正明さんに仲介をお願いし、同協会の鈴木会長と交渉に入りました。常日頃から飛行場の維持管理に心を砕いておられる鈴木会長からは「20年もかけて試作していたのだから、もっと前もって相談して欲しかった」とごもっともなご意見をいただきましたが、結果として事故を起こさないよう十分な対策をするなどを条件に使用許可が出ました。
 次はテストパイロットの選任です。20年前には自分でテストするつもりでしたが、若い人にお願いする方がより安全に行えると判断し、誰にお願いしようかなと思っていた矢先、EXALとして本多理事におねがいしてはどうかとの話になり打診したところ、「低迷しているスポーツ航空の発展に寄与する企画なのでリスクを承知の上で協力したい」と了解を得ました。
 我々のプロジェクトがここまでたどり着けたのは、なんと言ってもテストパイロットの本多さんの適切、正確な指示があったからです(図13)。

図14:ユングマンをトラクターで牽引しているところ。

図14:ユングマンをトラクターで牽引しているところ。

本多さんは日本大学航空学科理工学修士、千葉大学で工学博士号を取得した、木村秀政先生直系のパイロット・エンジニアです。普通、このような経歴の人は自作航空機に手を出したがらないのです。また、スポーツ航空発展のため、リスクを承知で主任テストパイロットを引き受けてくださったことは、このプロジェクトに大きな意味を持っています。試験飛行準備段階より設計仕様の確認、性能計算の方法・数値のチェック、部品強度評価、ドイツからの資料のチェック、各システムの計算値が適切か、性能、強度の吟味、全体の性能要件をパイロットとして評価して飛行規程に反映させています。彼のアドバイスは航空機設計者、製造者の専門用語で語られます。エンジンの調子、離陸速度、距離、舵の応答性、横風の影響、エンジン出力に応じた機体のレスポンス・沈み方の程度など、全てが正確な物理量として提示されるので、設計図なり整備要領書なりに正確に反映することができます。
 2019年5月12日、いよいよ富士川滑空場に進出しました。富士山が我々を歓迎してくれました。地上滑走に入る前の地上整備は約1カ月かかりました。格納庫からランウェイまで約400m公道を移動しなければいけないので、早速牽引車を探しましたがなかなかありません。小型モーターボート用のトレーラーが最適と分かり、中古品を千葉県市原市で買い取り、富士川まで400km運びましたが、そのままでは使用できず、ユングマンの尾輪専用の尾輪受けを新造してトレーラーに取り付ける必要がありました(図14)。

地上滑走は6月22日より始まりました。この滑空場は800mの平坦地で北端に橋が迫っており、20分単位で風向が目まぐるしく変わり、横風が強く吹くことがあるため油断できません。初日は地上滑走を6回行い、南南西の風速5~7m/sec、滑走速度は約30km/h。2回目の滑走後、左側のブレーキが効かなくなりましたが、ブレーキ液を補充すると正常に戻りました。

 本多パイロットのファーストインプレッションは、以下の通り。

1)

直進性は エアロンカ、PA-18と同等、方向操縦性がやや低く、
テールウインドではブレーキを使用しないと進路保持が難しい。
2)ブレーキ力は地上最大回転数(2,420rpm)でズルズルと滑り出すが所要の制動力はある。
3)主輪のサスペンションはやや固めである(エアロンカと比較して)。
4)

尾輪バネの硬さ、ショックアブソーバーの減衰力についてはよく分からないが接地性は良好である。
方向舵と連動している、着地時のレスポンスを考えると良いかもしれない。当分、様子を見たい。
5)前方視界は確保できている。
6)ドライビングポジションは問題ない。
7)スロットルレバーのフリクションは適当である。
8)エンジン回転はアイドリングより最大回転まで円滑に作動する。
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 パイロットの評価を聞き、私はほんの少し安心しました。知りたかったのは、まず直進できるか、次に尾輪のシミーが発生しないか、でした。また、サスペンションストロークとショックアブソーバーの減衰力が適切かも気になっていましたが、一応満足できるようでした。バンパーラバーのダンピングは着陸時でないと分かりにくいので後日確認としました。
 2020年7月末までに航空法に定める地上試運転(停止状態での運転)、発動機の試運転合計2時間以上を行った後、尾輪をあげた高速滑走30分以上を終了しました。
 地上滑走が無事に終わったので、次のジャンプ飛行の申請ができるようになります。藤原EXAL副会長の指導で航空局の申請書類をまとめ、航空法第11条第1項(機体検査)、第28条(運用面)、第79条(飛行場関係)の許可申請を行いました。以後、航空法の適用を受けることになります。申請内容は第1段階の飛行(ジャンプ飛行)を行うことです。これはわずかに空中に浮き上がる高度(3m以下)の飛行を20回以上実施し、飛行ごとの操縦系統の効きおよび反応に注意し、安全な飛行のため必要と考えられる運用上の制限および操縦手順に関するデータを取得するのが目的です。
 申請の手続きは第11条、第28条、第79条それぞれの窓口が異なります。前2者は千代田区九段第2合同庁舎で同時に済みます。第79条は羽田の航空管制保安部になります。申請書も別々です。ところが、重複する部分が3~4割あります。統一窓口にしてもらえればいろいろ節約になると思うので善処をお願いしたいところです。
 こちらの責任でしょうが、書類の訂正および追加の書類提出も3カ所から要請されます。びっくりしたのは、3部署の連携が素晴らしいことで、重複している資料は句読点まで同一にするよう訂正を要求されます。あまりの几帳面さに感心しました。審査内容が違うため、3部署とも許可期間が異なります。この中で第11条は機体検査のために出す書類も多く200ページを超えました。
 2020年8月8日12時23分、初めてのジャンプ飛行に成功しました(図15)。

この日のコンディションは南南西の風、風力4~5m/sec、テイクオフしてからの三舵の効きは良好で地上滑走時の敏感さはありませんでした。高度3mでパワーを絞り、ややノーズを上げて2点接地しました。尾輪が接地した時、2秒ほどシミーが発生しました。
 当然ながら毎回のテストは正確に漏れの無いよう記録しますが、特に難しいのはパイロットがテスト中に発する無線の記録です。エンジン音に掻き消され聴きにくいのです。しかし、アクションしているその一瞬のコメントが重要な意味を持っていることが多いのです。横風の影響、そのときの修正舵のフィーリングは直後に聞き取っておく必要があります。ジャンプ飛行での燃費は15.5 L/h でした。
 その後、ジャンプ飛行は順調に進み、2020年10月31日、南南西の風2m/secの中、30回目のジャンプを終了しました(図16、17)。地上滑走を始めてからジャンプ飛行終了まで13時間と5分でした。

本多パイロットから指摘された主な改良項目は、地上姿勢時における燃料タンクの水抜きパイプの増設、細かい部品まで航空用に交換、ブレーキマスターシリンダーのダイヤフラムを分解交換、前席のエンジン回転計を電気式に交換して後席に取り付ける、点火スイッチを回転式からタンブラースイッチに交換、ブローバイホースが短くカウリング内が汚れるため胴体下部まで80cm延長する、速度計の校正を行う、ビュッカー社の資料により正確な舵角補正を行う、速度計は10マイルごとの計測誤差を把握する、などです。このほかにも毎回テスト終了時に細かい改善指示をいただきました。10月31日にジャンプ飛行が終了した時点で機体の完成度は向上し、とくに安全面の信頼度が向上しました。この一連のテストで操縦してみなければ分からない微妙なフィーリングなどを適切に指導してもらうことにより高いレベルの改良が進んだと思います。規定の20回を大幅にクリアしているので、第2段階の試験飛行の申請をしました。

5. これから自作機を作りたい人へのアドバイス

機種選定は、キットがあれば入りやすいですが、機種は限定されます。独自設計は勉強にもなるし楽しいですが、航空局に許可申請の時の書類作成は大変になります。試験にも工数が掛かります。ノーズ式と尾輪式どちらにするかも重要で、離着陸の難易度、必要なパイロットの技量に大きな差が出ます。ユングマンの場合には、幸運にも尾輪式にも対応できる本多パイロットだったため安全に進められました。
 実機があるのであれば、博物館やエアショーなどで取材することができます。翼の取付部の処理、可動部の構造、端部の処理など自作機ビルダーとして必要箇所を重点的に取材しておくことです。
 おおよその製作資金とテスト飛行経費の予算計画を作ること。作業台、実験治具、計測設備・用具などにも多くの費用が掛かります。テスト活動を重ねていくとパイプのつまり、各部のゆるみ、羽布の損傷などが発生し、各種工具など一揃いの整備用品が必要です。
 過去の例では都立航空高専方式(=学校のプロジェクトとして行うこと)が最も実現性が高いですが、個人またはグループとして楽しむには継続性がありません。同好会的にグループ運営にするのも一つのやり方ですが、この方法ははじめの約束事をきちんとしないと空中分解する例が多いようです。私のように20年間細々とやるのも一つの方法でしょうが、長すぎて普通の人では20年間フィーバーし続けにくいのではないでしょうか。また、たとえそうできても、できる頃には体力、思考力とも落ちギブアップしてしまいそうです。
 作る場所も問題です。最初、リブ1枚とかプロペラ1本とかシコシコやっているうちは良いのですが、完成が近づくと、家庭内に自分の居場所もなくなる憂き目に遭います。この時点で金銭的にも住居内スペースにおいても奥様の協力を得ることは絶望的になります。時々、アルレート氏よりフライトはいつですか? と質問されますが、彼らには我々の置かれている状況が理解できないのです。
 飛行場も計画開始から決めておいた方が良いでしょう。飛行機が出来上がってからの飛行場探しは色々大変です。
 リブ1本作るにも道具の準備が重要です。『アマチュアのための軽飛行機製作法』(L. パズマニー、日本航空技術協会、1980)、『軽飛行機の設計法』(L. パズマニー、日本航空整備協会、1971)、『ウルトラクルーザー自作飛行機で空を飛ぶ』(藤田恒治、成山堂書店、2016)が大変参考になります。ただし、これらは金属製機の本なので木製機の場合は『滑空機便覧』(大日本飛行協会、1944)および『証明済み航空機、発動機、プロペラおよび計器の保守、修理および改造米国民間航空規定18』(米国民間航空局)が参考になります。工作法については建具屋、大工、家具屋に聴くと良いでしょう。部品の製作には治具を作ることが重要になりますが、これも予算を立てる際に含めておかなければなりません。金属部品の防錆処理も周到な計画が必要です。作業工程の段取りは特に重要で、たとえば羽布張り前に取り付けるべき部品をいくつかは後から組み込むことになり本来必要な時間の数倍の時間を要しました。また、特殊工具を使用しないと取付不可能な部品もあり、事前に気がついておく必要があります。これもバカにならない金額です。
 サラリーマンとしての1日の仕事が終わってから帰宅してできることは、せいぜい主翼のリブの半分くらいですが、気長にやれば1ヶ月くらいで1機分のリブを手にすることが可能です。毎日休まず努力すれば2年ほどで1機組み立てられるでしょう。重要な部分の機械加工、溶接などは専門のクラフトマンに任せた方が良いでしょう。主翼、胴体の羽布張りができる人、張線技術者が非常に少なくなっていますので、注意が必要です。
 細大漏らさず、調査・設計・製作を記録しておけばグループの資産になります。記録係を選任しておくのも一つの方法です。

6. ユングマンを製作して思うこと

ユングマンを開発してきて、萩原先生をはじめ諸先輩が「作るのに易しい機体だよ」という言葉に一杯喰わされたとしみじみ感じます。設計の天才アンダーソンが手掛けただけあり、それぞれの設計・製造リミットが非常にシビアで、自作機ビルダーにはハードルがとても高いのです。私が強く感じているのは設計者アンダーソンの設計思想です。最小の資材で最高の性能を生起させる考えです。どこを取ってもそれ以上削れないほど無駄を鋭くそぎ落とした部品構成なのです。彼のセンスは合理性の中に美しさを表現していると思います。今日まで費用対効果の観点から見ても最も優れた飛行機の一つだろうと思います。美しさの点で ユングマン に張り合えるのは デハビランドDH90ドラゴンフライ ぐらいでしょう。
 航空局に申請書を提出した際、担当以外の検査官から「あなたは退職金を全部注ぎ込んで、わずか半径9kmの空域を飛ぶことしかできない自作航空機を何故やるのですか?」と素朴な質問を受けました。常識人が見れば、その通りです。特に第11条を審査する検査官からすれば製作者がどの程度知識があるのか、材料選定、工作技術、その他もろもろの実力があるのかよく分からない訳ですから、できれば審査は御免被りたいというのが本音ではないでしょうか。それも受け止めた上で、第1段階、第2段階のフライト実績を確認しながら航空局所管の指導協力を仰ぎ、耐空性のある機体に仕上げていくのが当面の目標です。
 80年以上前の飛行機を再現して何が面白いのかとよく人に聴かれますが、楽しいことは色々あります。一つは当時の技術がどういうものであったか理解できることです。たとえば、バイプレーンは歴史の遺物で将来に向け何の可能性も無いじゃないかという人も多くいます。果たしてそうでしょうか。温故知新とでも言いましょうか、ここまでの設計・製作・実験を通じて振り返ると、航空機設計の基本はほぼ全て網羅しているし、製作に関する諸技術も限定されていますが充分に勉強できます。何よりも飛行機全体を成立させるバランスの取り方、取扱方法などは等身大の現物を扱わねば分からないことが多くありました。また、試作機の実験は滅多に経験することはできないことであり、貴重なデータが取得でき、後進には価値ある財産となるでしょう。
 52年前、宮原EXAL初代会長が渋谷の自邸で行った創立総会で「私は日本の空に雲霞のごとく自作航空機を飛ばしたいのである」と挨拶されたことを覚えております。しかし日本では戦後、構造重量400kgを超えた自作航空機は大西式水上単葉単座機、濱尾EXAL会長の複葉単座機「しおからとんぼ号」、航空高専の生徒たちが作った複葉複座機「スターダスター号」、そして私の ユングマン の4機しかありません。経済で世界第1位のアメリカに2万機以上の自作機があるのに対して、第3位の日本では4機+多数の超軽量動力機しかありません。自作機作りに挑戦する人が増えることを願ってやみません。

執筆

エクスペリメンタル航空機連盟 理事 小谷 修一

*本記事は『航空と文化』(No.122) 2021年新春号からの転載。

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