News Release 一般財団法人 日本航空協会
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重要航空遺産
零式水上偵察機

所 在 地 万世特攻平和祈念館
解 説 海に囲まれた日本は、第2次世界大戦が終わるまでの間、多種多様の水上機を開発・運用してきた。1940年(昭和15)に日本海軍に制式採用された零式水上偵察機は、ドイツのハインケル社との技術提携などを通して開発力をつけた愛知時計電機鰍ノより設計された。それまでの日本の主な水上偵察機が複葉形態・羽布張りであったものを低翼単葉形態の金属製とし、すぐれた操縦・安定性や大きな航続距離などの特色を持っていた。日本海軍で広く使われ、日本の水上機の中で最大の生産数となる1,423機が作られた。生産機数および運用実績なども含めて日本の水上機の代表といえる。

万世特攻平和祈念館に展示されている零式水上偵察機は、鹿児島県加世田市(現南さつま市)吹上浜沖約600m、水深5mの海底に沈んでいたものが、加世田市により1992年(平成4)8月22日に引き上げられたものである。引き上げ後の調査により、胴体内から「九飛41116号」という製造会社および製造番号の表示が、機内に残っていた装備品からは所属部隊を示す「偵三〇二」の文字が見つかり、同機が九州飛行機で生産され偵察第三〇二飛行隊に所属していたことが確認された。これらの情報などから同機の乗員が判り、乗員の証言から1945年(昭和20)6月4日に沖縄方面の夜間偵察のために出発したが帰路燃料不足で吹上浜沖に不時着水し、3名の乗員全員が脱出した後に水没したことが判明した。

同機はプロペラと操縦席の一部を海底から露出する以外は完全に砂に埋まった状態で海底にあったために、長期間海没していた割には比較的に腐食や破損がゆるやかであった。ただし、水上機の特徴ともいえるフロートは、引き上げられた機体には残っていなかった。また、木製の尾翼は一部を残すのみであった。引き上げ後、機体の状態を踏まえた加世田市の意向で引き上げ前の海底に沈んでいた状態を再現することになり、フロートを初めとする欠落部分を新たに製作することは行われていない。したがって保存処置等を担当した海上自衛隊鹿屋航空基地の鹿屋航空工作所の隊員等の作業は、錆・詰まった砂や付着した牡蠣殻などの除去や防食処置が主となり、外観の見栄えを単によくするための修理や再塗装は行われていない。このため、尾翼の木製の桁材や主翼に残る日の丸の赤色塗装を初めとする使用当時の状態を現在も確認できる。また、状態は必ずしも良くないが操縦席内に残った多くの装備品も合わせて保存されていることは、本機の運用の様子を窺うことができる点で大変貴重である。多くの装備品が残っていることは戦時中の日本の飛行機として稀であり、スミソニアン航空宇宙博物館が所蔵する日本軍機を修復した際にも参考にされたほどである。

日本は第2次世界大戦中に多くの水上機を開発・運用した世界有数の国であった。零式水上偵察機は南さつま市が所蔵する機体を含めて2機が残るのみである。中でも同市が所有する零式水上偵察機は使用当時の状態を良く保っている。また、今日に至る機体の来歴を紹介する展示は文化財の保存活用の方法として評価が高い。これらのことから、南さつま市の零式水上偵察機は、日本の水上機の歴史を今日に伝える貴重な資料であり、文化財的価値もきわめて高いといえる。


万世特攻平和祈念館(南さつま市)に展示されている零式水上偵察機


第2次世界大戦中にラバウルで撮影された零式水上偵察機

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2011.12.1から設置