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逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(1)
- シリーズ開始にあたって -
  徳田 忠成
2007.01.15
   
   
  第二次大戦後、61年が過ぎた今日、航空機乗員養成所(以下、養成所)と聞いて、すぐ理解できる人は少ない。ましてや養成所卒業生のほとんどが80才も半ばをすぎ、その多くは鬼籍になっておられるから、それが戦時の民間パイロット養成組織だと、すぐ頭に思い描く人はごく限られてしまう。


航空機乗員養成所のシンボルマーク

 明治43年(1910)12月19日は、徳川好敏、日野熊蔵両陸軍大尉が代々木練兵場で初飛行した、記念すべき日である。以来、黎明期から終戦までの日本の空は、完全に軍主導によってすすめられた。民間航空といえば、「民間航空の父」といわれた鹿児島県出身の奈良原三次男爵と、その門下生の白戸栄之助や伊藤音次郎らによって、いわゆる自費で細々とスタートしたのである。そんな中で、大正2年(1913)4月に帝国飛行協会が設立され、ようやく国民に対する組織的継続的な空への啓蒙の萌芽が胎動してきた。

 帝国飛行協会(日本航空協会の前身)は、毎年の数次にわたる記録飛行大会や懸賞郵便飛行大会を各地で開催し、飛行機に対する民衆の認識が浸透しようとしていた。各地に飛行学校が設立され、陸海軍より払い下げられた、第一次大戦時代に使用した旧式な飛行機が活用されるなど、民間人パイロットがぼつぼつ誕生していた。といっても、まだまだ国民の空への意識改革は、ほど遠いものがあった。

 帝国飛行協会による、民間パイロット養成のための陸軍委託訓練が開始されたのは、大正4年(1915)であったが、その後の3年間で養成したパイロットは、わずかに6名にすぎない。民間航空の保護奨励ないし取締りのための航空局が、陸軍省の外局として誕生したのが大正9年(1920)8月であり、同時に専門家の養成という趣旨から、陸軍委託操縦生制度が開始された。これは18年間に亘ったが、養成されたパイロットは、陸海軍合わせて163名と少ない。日本航空輸送研究所を嚆矢とする小規模の航空各社が誕生したが、需要が少なく、あまりプロの民間パイロットを必要としない時代であった。

 やがて、太平洋戦争勃発が迫りくるなか、日本列島は軍一色に塗りかえられていった。陸海軍パイロットを支える大量の予備乗員養成が急務となり、昭和13年(1938)6月に逓信省航空局直轄の航空機乗員養成所が誕生し、その養成規模が急ピッチで拡大していった。この意図は、軍予備役パイロットの養成にあったから、今の航空大学校のように純粋に民間航空パイロットを養成する組織とは本質的に趣を異にしている。

 しかも戦時中は、乗員養成所卒業生の大半が所属していた大日本航空をはじめ、民間航空各社は、陸海軍の後方支援業務として徴用され、民間航空としての航空運送業務は存在しなかったといってよい。民間航空という仮面を被って、彼らは陸海軍の組織同様に組み込まれ、危険極まりない職務に邁進したのである。

 戦後60年の今日、戦争を知らない日本人がほとんどである。もはや太平洋戦争が風化しようとしているが、それでも、満州の地ノモンハンや真珠湾、ビルマ戦線やソロモンの空で、はなばなしく活躍した空の勇者たちやエース・パイロットの姿は、「隼」や「零戦」などの優れた戦闘機と共に、多くの空戦記によって勇ましく喧伝され、少なからず、読者の皆さんの脳裏に刻まれていることだろう。

 その狭間にあって、ほとんど裏方に徹して活躍した、かつての航空機乗員養成所卒業生の実態を知る人は少ない。設立以来、終戦までの7年有余の間、世界に羽ばたくことを夢みた7000人に余る青少年が、難関を突破して民間パイロット養成所の狭き門をたたいた。彼らは軍隊同様の厳しい飛行訓練に明け暮れ、卒業生は4600人にのぼったが、その行く手には、太平洋戦争という未曾有の激戦に翻弄され、巻き込まれる運命が待っていたのである。

 陸海軍に徴用された彼らの仕事といえば、必勝を信じながら、熾烈な戦線の全域に亘って、日夜、もくもくと航空輸送に邁進することだった。いよいよ日本の敗色が濃くなった昭和19年(1944)末から20年(1945)にかけての徴用航空輸送任務は、この上なく危険なものだった。制空権の無い空を、まさに丸裸同然の輸送機で駆けめぐり、敵戦闘機の好餌となって多くの犠牲者をだしている。

 さらに民間パイロット養成という、募集時の謳い文句とは裏腹に、戦争の拡大と激化に伴い、戦闘機要員、あるいは特攻隊員としての訓練を強いられ、有無を言わさず最前線へ送られ、「予備下士(予備下士官の略)」と蔑まれながら、現役に勝る活躍をし、有為の若者が散華していった事実を、どれだけの人が知っているだろうか?

 戦争を知らない現代の若者たちは、逆に戦争映画やアニメに影響されて、戦争を美化し、暴力を正義の象徴と勘違いしている傾向はないだろうか。軍備強化の要請によって誕生した60年前の航空機乗員養成所の存在と、そこで養成された若鷲たちの姿は、今は幻と化しており、まさに忘れ去られようとしている。今、私はここを卒業した数千人の若者たちが、戦時を壮絶に生き抜き、あるいは国難に殉じ若くして戦場に消えていった事実を書き残す必要を痛感している。

 これはひるがえって、彼ら戦没者への鎮魂であると同時に、若い世代が、60年前の凄惨な戦争の一局面である航空機乗員養成所卒業生の姿を振りかえり、それを正しく認識し、将来へのエネルギーの一助になることを願ってやまない。


航空機乗員養成所旗

 最後になったが、この原稿の上梓にあたって、本文精査の労をとっていただいた有村宏氏、貴重な資料のご提供をいただいた塩野入健二氏、新井省吾氏をはじめ、かつての乗員養成所出身の多くの方々に、ご高齢を厭わず、ご協力いただいたことを衷心より感謝し、深くお礼申し上げる。

 なお、これからの物語の理解を深めていただくため、「航空機乗員養成所年表」を作成した。適宜クリックし、ご参照いただきたい。




とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト

次回は「第1章 民間パイロット養成の萌芽」を掲載します。 

         
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