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民間パイロットの活躍 1. 民間飛行競技大会 日本の民間鳥人たちが活躍するようになり、大空へ大衆の関心が向くようになったのは、帝国飛行協会が設立された大正2年以降である。この時から第二次大戦が勃発する昭和16年(1941)末までの期間は、民間パイロットがもっとも大空を謳歌した時代だった。世界的にみても、第一次大戦終結から第二次大戦までの約20年間は、飛行時間および速度、飛行高度および距離、それに伴う飛行機開発と、レシプロ機による記録が日進月歩で塗り替えられる、もっとも華やかに彩られた時代であった。 帝国飛行協会主催による初めての民間飛行大会は、大正3年(1914)6月13、14日に阪神鳴尾競馬場で開催された。航空局が設立されたのは大正9年(1920)8月だから、官による規定はなかったが、この時代に創られた参加規約は、往時を偲ばせるものとして興味深い。その一部を紹介する 「本大会ニハ万国飛行免状ヲ有スル民間飛行家ニシテ飛行機ヲ有スルモノニ 限リ参加シ得ルモノナリ」。 「飛行参加者・・・総テノ費用ヲ自弁スルモノトス」 「参加飛行家ハ飛行場ニ於ケル自己飛行機保管ノ責ニ任ジ飛行機ヲ焼失又ハ 破損スルコトアルモ帝国飛行協会ハ一切其ノ責ニ任ゼズ」 「参加飛行家ハ三十分以上継続飛行ヲナスベシ」 「本大会最優等飛行家ニハ帝国飛行協会メタルヲ贈呈スル」 なお十数箇条の実施細則と、2機以上が同時に飛ぶ初めてのケースなので、事故防止のための規定があった。 競技参加者は、最終的に荻田常三郎、高左右隆之、坂本寿一の3人のみで、他に磯部鈇吉が番外として参加した。いずれも欧米で飛行訓練を受けたヒコーキ野郎である。飛行当日は2日間とも好天に恵まれ、大阪朝日新聞の前宣伝が効を奏し、物珍しさも手伝って、延べ35万人の大群衆が押しかけたという。滞空時間一等が坂本の31分22秒、高度一等が荻田の2,003mであった。 この頃は、飛行家プロ第一号の白戸栄之助が、全国を巡業して有料飛行をしていた時代で、民間飛行学校もぼつぼつ設立されていった。大正5年になって、アメリカの飛行家たちが来日して公開飛行をやったり、帝国飛行協会主催による2地点間の周回無着陸懸賞飛行競技会も盛んに行われ、後藤勇吉や山県豊太郎、嶋田武男、謝文達といった名だたる飛行家が活躍して、民衆への空への関心と啓蒙を広めていった時代である。 2. 陸海軍委託操縦生の活躍 航空機乗員養成所が誕生する頃までの、つかの間の平和な時代に、陸海軍委託操縦生が活躍の場を与えられるようになったのは、大正末期からであった。なにしろ民間操縦士総数が、一、二、三等操縦士合わせて500人に満たない時代だった。 以下に陸海軍委託操縦生による、主な活躍の記録を年代順に列記する。
3. 「神風」号による亜欧往復連絡飛行の快挙 飯沼正明飛行士(陸委11期、26歳)と塚越賢璽機関士(委託機関生1期、38歳)搭乗の、三菱雁型「神風」号による亜欧連絡飛行の完成は、日本国中、まさに国を挙げてのお祭り騒ぎだった。このお祭りに相応しい、飯沼飛行士の歌舞伎役者のような端正な顔立ちは、全国の乙女の秋波の的になったし、青少年は、そのカッコよさに憧れ、われもわれもと航空機乗員養成所を目指したのである。
当時では珍しいサングラスをかけ、すらりとした痩身の飯沼飛行士が、手を挙げながら操縦席から降り立ったとき、越田さんは将来のわが道を決めていた。猛勉強の甲斐あって、合格者10名の一人に選ばれ、自分の名前が官報に載ったときの感激は、今でも忘れないという。 この行事は朝日新聞社が企画立案したもので、そもそもはイギリス皇帝ジョージⅥ世の戴冠式の原稿写真を輸送するのが目的だったが、次第に日本の国威発揚と、日英親善飛行のための連絡飛行へと拡大していった。その中心になったのが編集局長だった美土路昌一(戦後、全日空社長)、河内一彦航空部長、新野百三郎航空部次長、中野勝義航空部員(戦後、全日空副社長)の面々だった。 朝日新聞は昭和12年(1937)元旦の紙面に、これを大々的に発表したから、全国に反響を巻きおこした。朝日は紙上で、応援歌や機体の名前、それに飛行時間を当てる公募をおこなった。応援歌には4万5千通が応募し、「神風」の名は53万余通の中から選ばれた。さらに飛行時間を当てる懸賞募集には474万通が舞い込み、東京の13歳の少年がピタリと当てた。 使用機は陸軍の97式司令部偵察機(キ15)試作2号機を改良、550馬力エンジン搭載の単発機で、昭和12年(1937)4月6日早朝に立川を飛び立った。
飛行ルートは南廻りで、11ヶ所を経由、10日にロンドンのクロイドン飛行場に到着した。飛行距離15,357km、飛行時間94時間17分56秒(実飛行時間51時間19分23秒)だった。アジアと欧州を結ぶ連絡飛行は、百時間を切ることが当面の課題だったから、これを見事にクリア、FAI(国際航空連盟)公認記録となった。 飯沼、塚越両搭乗員は、欧州各地で国賓並みの待遇を受け、再び予定になかった南廻りの帰路を飛行、この年5月21日に羽田飛行場に降り立った。東京銀座での祝賀パレードは、前代未聞の空前の人山だったという。 なお、飯沼飛行士は、太平洋戦争勃発直後、プノンペン飛行場で離陸中の99式直協機のプロペラに触れ、事故死した。享年29歳だった。国民的英雄の死は伏され、要人輸送の途中、攻撃を受けて壮絶な戦死を遂げたと報じられた。 とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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