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逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(16)
- 海軍徴用輸送機隊の編成 -
  徳田 忠成
2008.04.15
   
   
海軍徴用輸送機隊の編成

1. 開戦前後の編成

 海軍航空本部の要請によって、大日本航空は昭和16年8月、すでに海南島徴用輸送機隊を編成して、海南島海口基地に進出していた。ダグラスDC-3型輸送機3機と三菱双発輸送機3機を使用、海口から香港と台北、海口からサイゴン間の定期運航をおこない、海軍の対南方作戦準備を支援するものだった。

 他方、海軍は大日本航空へ、東京から台北経由で海口への直通運航を指令しており、開戦前、すでに海軍航空本部直轄の海軍第一徴用輸送隊が編成されて、任務に就いていた。要人輸送などの、慌ただしい作戦準備をするためだった。このコースは終戦直前まで続いたが、沖縄陥落後は中国に迂回コースをとって飛行している。

 開戦の日、16年12月8日未明、海軍航空本部は、大日本航空会社非常時運航体制に則って、直ちに海南島徴用輸送機隊へ下命している。「輸送機隊は夜明けを待って、その飛行機を以って海南島周辺の海上を哨戒、偵察し、敵性艦船の発見に努めよ」

 但し、海軍の徴用方法は陸軍と違い、必要とされる運航量を、飛行時間当たりのベースで大日航からチャーターするもので、その運用や隊の編成については、会社側に任されていた。これによって職員は、軍紀に拘束されることなく、かなり自由に行動できた。海軍の無給嘱託であり、給料は会社が出していたが、この点は陸軍と同じである。

2. 編成概要

 開戦の翌年2月、快進撃を続けていた日本軍はシンガポールを陥落、海南島徴用輸送機隊基地は、海口からシンガポールへ移動、名称も第二徴用輸送機隊と改められた。 その後、以下のように次々と徴用輸送隊が編成された。( )内は本隊所在地。

 海軍第一徴用輸送機隊(東京)  海軍第二徴用輸送機隊(シンガポール)
海軍第三徴用輸送機隊(マニラ) 海軍第四徴用輸送機隊(マカッサル、のちスラバヤ)海軍第五徴用輸送機隊(横浜)  海軍第六徴用輸送機隊(トラック島) 
  注:以下、各隊を第○隊と略称する。

 開戦後、シンガポールを基地とした第二隊は、仏印方面の輸送を担当したが、海軍徴用輸送部がスラバヤに設けられたとき、再度、ここを基地とすべく移動した。

 この地域は戦域のもっとも西側であったから、フィリピン全域が米軍に制圧され、制空権が奪われたあとも、その間隙をぬってスラバヤージャカルターシンガポールー海南島間の運航が、終戦まで続けられた。

 マニラに基地を置く第三隊は、全輸送機隊の中でもっとも熾烈を極めた。フィリピンは、大小無数の小島より成る特異な地理的環境にあるから、航空輸送業務は欠かせない。第三隊はフィリピン全域を担当しており、北は台北ないし高雄から、南はダバオに至る南北縦貫線をカバーし、さらに和蘭領インド(インドネシア)からニューギニア方面への中継連絡航空路であった。

 17年に入ると、フィリピン方面の戦局激化に伴い、第三南艦隊麾下に入って活躍した。19年10月、米軍によるフィリピン反抗作戦が展開されると、陸軍大本営は捷号作戦を発動、その全域が日米決戦の天王山と化した。世界最大の海戦といわれたレイテ海戦の最中、ほとんど無防備で暖速、大型輸送機の飛ぶところは、もはや安全地帯ではない。極めて危険な状況下での運航を強いられただけに、多くの痛ましい犠牲者を出している。

 19年10月20日、マッカーサー率いる米機動部隊がレイテ島に進攻、翌年1月9日にルソン島東岸のリンガエン湾に上陸、マニラが陥とされようとしていた。マニラ駐在の大日航職員は、必死の思いで北上へ退避した。移動する車両もなく、多くの犠牲者を出しながら、徒歩でボロボロになって250キロ北のエチアゲへ、さらに100キロ北にあるツゲガラオ、さらに北端のアパリまで、苦難の撤退をつづけたのである。

 そこで救出を待つ悲惨な状況になったが、台湾からの大日航機による決死の救出作戦(後述)によって、かろうじて死地から脱出している。

 第四隊の担当区域は、和蘭領インド全域であった。セレベスやボルネオなど、大部分がジャングルに覆われた一帯の地上交通網は皆無に等しく、航空交通は必須であった。只、幸いにこのエリアは、米軍の反攻地域から外れていたので、激戦の渦中に巻き込まれることは無かったが、マニラ陥落後は、戦火によって交通網が寸断され、運航には困難を極めた。

 第一次大戦後、日本の委託統治領だった南洋諸島は、太平洋の緊張の高まりと共に、対米作戦上、日本海軍の最重要防衛線として不可欠になった。

 これに対処すべく海軍は、飛行艇隊の第五隊を設け、横須賀鎮守府麾下として、基地を横浜の根岸湾においた。路線は横浜ーサイパンーパラオートラックを運航した。さらに飛行艇隊の第六隊を設けて、南洋方面作戦に従事していた第四艦隊麾下とし、主基地をトラック島におき、ここからラバウル、クェゼリン間を運航した。

 戦争激化と共に、南太平洋路線は、ますますその重要度を増していった。海軍の指示により、路線は延長され、トラックからパラオ、ダバオ、マカッサル経由でスラバヤに至る路線を新設し、海軍中央と現地部隊との迅速な連絡網を構築していった。

 しかし、18年から19年にかけて、米機動部隊はつぎつぎと南洋諸島を制圧、19年6月には、海軍の最重要拠点であるサイパン島およびテニアン島が玉砕した。海軍防衛線の後退につぐ後退によって、徴用輸送機隊は大きな犠牲を強いられ、その機能も麻痺状態に陥った。とくにトラック島を基地としていた第六隊は、壊滅状態になって終焉し、多くの隊員が犠牲になったのである。

 

3. 海軍直轄の輸送隊へ改編

 17年秋のガダルカナル島攻防戦の敗退によって、ソロモン海戦もようやく終末を迎えようとしていたが、海軍は南方方面資源地域の治安維持と、後方支援機構強化の策を図った。スラバヤに南西方面艦隊司令部を設け、これを支援するために、新たに南西方面海軍徴用航空輸送部を創った。

 ここに航空機整備のための工場を設置し、機材のオーバーホールや発動機の装換を可能とし、機材稼働率の向上が計られた。そして19年11月、シンガポールに支部を設置、現地輸送業務の一層の円滑化が可能になった。この輸送部は、後にスラバヤ海軍徴用航空輸送部と改称、第四隊が吸収され、さらに第二隊が吸収された。第三隊は、フィリピン方面の激戦によって機能が麻痺し、マニラ分遣隊に変更された。

 海軍中央は、より一層、的確且つ迅速な指令伝達を計る目的で、次のような組織に改編したが、そこには最早、航空会社としての機能はない。

臨時海軍徴用航空輸送本部―
               大日本第二運営局―
                           |―海軍第一徴用輸送隊(東京)
                            |―海軍第五徴用輸送隊(横浜)
                           |―スラバヤ海軍徴用航空輸送部

 さらに20年7月15日、大日航でおこなっていた徴用航空輸送業務に代わって、特設海軍航空輸送廠が設置された。これは海軍自体の航空輸送と第二運営局をも包含するもので、もはや大日本航空としてのカラーはなく、海軍の一組織であったが、それが機能することはなかった。
    
 海軍徴用輸送機隊がもっとも活躍したのは、17年初めから19年前半であった。この間、1200名が動員され、飛行機材は、DC-3約40機、三菱双発輸送機約10機、川西中型飛行艇2機、川西97式飛行艇約20機、二式大艇「晴空」5機、計約77機である。


DC-3型輸送機


 

97式飛行艇


 

とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト

逓信省航空局 航空機乗員養成所物語リンク
(1) シリーズ開始にあたって
(2) 民間パイロット養成の萌芽
(3) 海軍委託によるパイロット養成制度 
(4) 航空輸送会社の誕生  
(5) 民間パイロットの活躍
(6) 草創期の運航要領
(7) 航空機乗員養成所の設立(その1)
(8) 航空機乗員養成所の設立(その2)
(9) 航空機乗員養成所の訓練概要
(10) 天虎飛行研究所の実状
(11) 中央航空機乗員養成所の設立
(12) 予備役下士官の評価と制度の変遷
(13) 地方航空機乗員養成所本科生制度
(14) 戦時下の本科生の動向
(15) 大日本航空の組織改編
参照 航空機乗員養成所年表
         
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