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 モンゴルの歴史 (2)
  - The Land of Nomads -
     加戸 信之       
2008.07.15
   
   

1.恐竜の時代

 モンゴル高原は2億4千年前に現在の形が出来上がった。白亜紀は恐竜の天下で世界でも有数の恐竜化石の宝庫である。ゴビ砂漠で沢山の恐竜化石が見つかっており、特に恐竜の卵はモンゴル以外では中国でしか発見されていない。孵化したてで蛙のようなプトロセラプスの赤ん坊化石も自然史博物館に展示されている。映画「ジュラシック・パーク」を製作したスピルバーグ゙監督は、この恐竜の卵の化石からあの映画の筋を思いついたと言われている。

 モンゴル高原には相当早くから人類が住みついていたようで、旧石器時代後期、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代の岩壁画や墳墓遺跡が見つかっている。広大な土地に住み狩猟生活を送っていたらしく、岩壁画には山羊や鹿などの野生動物とそれを追う狩人、また戦闘の場面として弓を持った戦士が描かれている。狩猟生活からやがて牧畜生活を営み始め、前述紀元前8世紀頃に騎馬遊牧が始まった。この頃から多種の騎馬民族が中国北方を度々侵略し北方の蛮族として恐れられていた。


2.騎馬遊牧の始まり
 遊牧民に欠かせない馬は紀元前4,000年頃に現在のウクライナの草原で初めて家畜化された。しかしその後の2,000年間、馬の飼育は殆ど普及せず、騎馬で家畜を追う生活をする騎馬遊牧はようやく紀元前1,000年頃にこれもまた黒海の北のウクライナ草原に住んでいたキンメリア人により始まった。

 キンメリア人は東方から移動して来たスキタイ人に追われて紀元前8世紀末にカフカス山脈を東に超え、アッシリア帝国を脅かしたが紀元前7世紀末に消滅した。このキンメリア人によって騎馬遊牧が中央アジアに伝わったと言われている。

 車両は牛用のものが紀元前3,500年頃にメソポタミアで発明され、紀元前2,000年頃にメソポタミア北方の草原で馬が引く古代戦車が現れ、またたく間に地中海から黄河まで普及した。しかし遊牧民はもっぱら騎乗に頼り、テントなどの荷物を運ぶことに牛車を使用した。

 乗馬に必要なものは鐙と蹄鉄であるが、初期の遊牧民は何もなしで裸馬に乗っていた。鐙はずっと後になって4世紀頃、騎馬が苦手な農耕民が足を乗せるために中国で誕生した。最初は片側だけだったが、これが便利だと遊牧騎馬民族に広まり、やがて両側に付けるようになった。この鐙を取り付けるために硬い鞍と腹帯も必要になり発達した。

 蹄鉄はもっと後で、ビザンティン帝国で8世紀頃に登場し、10世紀に西ヨーロッパに普及したが遊牧騎馬民は沢山の交換用の馬を連れて軟らかい草原を疾駆していたためなかなか普及せず、13世紀のチンギス・ハーン時代になってヨーロッパにまで遠征する頃に必要になりようやく普及したらしい。

 日本には鐙は比較的早く中国から室町時代には伝わっていたが蹄鉄は明治時代になってようやく普及している。戦国時代や江戸時代も馬は蹄鉄なしで走らされていたらしい。


3.秦の建国と匈奴のモンゴル高原統一
 モンゴルと中国との関わりは古代から切っても切れない関係であったため、モンゴルの歴史は中国の歴史といっても良い位である。東アジアでは7世紀末まで、漢字が唯一の文字であり、また遊牧民には歴史を書き残すという風習がなかったため、モンゴルの歴史は中世までは中国の歴史書に頼るしかない。中国は漢人の国としているが、実態は古くから北の遊牧民や満州人に度々支配され、民族的にも深く入り混じって今日に至っているのである。
                                    中国の統一とモンゴル高原の統一はほぼ同じ頃である。中国はBC221年に最初の皇帝と自ら名乗った始皇帝により始めて統一され秦となった。始皇帝は政府官僚機構、制度、貨幣、度量単位の統一などの様々な改革を行ったことで名高いが、モンゴルとの関係では北方の蛮族の侵入を防ぐために万里の長城建設を始め、その後の中国各帝国もこれを維持補強して現在まで残っている。

 秦は黄河から長江流域までの中原を統一して初めて中国と呼べる統一国家を築いたが北は万里の長城、現在の北京のすぐ北側までで、現在の内モンゴルを含むモンゴル高原や満州には支配が及んでいなかった。

 なお、内と外モンゴルという呼び名は相当後の時代までなく、歴史家はゴビ砂漠を挟んで砂漠の北と南、つまり漠北、漠南と名付けている。

 この始皇帝がBC210年に死去し、項羽と劉邦の中国を2分しての争いが続いて混乱していた頃、北方の陰山山脈にいた匈奴部族が東方と西方の他遊牧民族を征服し、モンゴル高原を始めて統一した。遊牧騎馬民族の連合体は、東は満州、北はバイカル湖、西はアルタイ山脈まで支配し、戦士30万人を率いたと言われている。

 中国人に蛮族と恐れられていた北方遊牧騎馬民族は昔から、乳製品や家畜を中国の穀物や絹や綿類との交換交易を行っていたのだが、その交換がうまく行かなくなると、略奪の限りを尽くしたため蛮族と恐れられていたものである。中国が統一され、また万里の長城が築かれ始めたため、中国農民を略奪出来なくなった匈奴が他遊牧部族を征服して統一したというのが実態のようである。


4.漢と匈奴
BC202年 中国は項羽が死去して、劉邦が初代高祖となって漢を建国。
BC200年 高祖は32万の兵を率いて匈奴攻撃に向かったが、高祖率いる部隊が本軍に先んじて進軍したため逆に匈奴の大群に包囲され匈奴部族長、冒頓に莫大な貢物を贈って開放してもらった。これ以降、漢は毎年絹、真綿、米、酒、食料を匈奴に送り、更に皇族の娘を冒頓に送ってようやく平和を保った。漢のこのような屈辱的な友好関係は第五代武帝の時代まで半世紀続いた。
BC139年 漢の武帝は、かってモンゴル高原の西半分を支配していたが匈奴に追われ、現在のアフガニスタン北部にいた月氏や、月氏が追われた後に天山山脈に住んでいた鳥孫という遊牧騎馬民と同盟して匈奴に対して積極的に攻撃を行い、匈奴支配地の一部を奪った。
BC87年 度々の大軍派兵でかえって自らの兵馬の損害が大きく国力を消耗した漢は、武帝の死後一転して匈奴と衝突しない消極政策に転じた。
BC56年 匈奴で内乱が起こり東西に分裂、東匈奴はBC51年に漢の首都長安で漢に臣下の礼を取った。この結果、漢の支援を得た東匈奴は西匈奴を征服し再びモンゴル高原を統一した。
BC8年 漢は外戚、王莽に乗っ取られて滅ぶ。王莽は国号を新と改めたが、間もなく内乱で滅亡。
25年 光武帝が漢を復興して後漢時代となる。
48年 匈奴が今度は南北に分裂し、南匈奴が後漢と同盟。

 
5.鮮卑と後漢、三国時代
 87年、北匈奴が、鮮卑というモンゴル高原東端の大興安嶺山脈に住んでいた遊牧騎馬民族に侵略され西に追われ、また約20万人の匈奴が後漢に亡命した。その後、鮮卑は漠北を支配し、残っていた匈奴は鮮卑と自称するようになった。

 西に追われた北匈奴は黒海にまで至った。4世紀に黒海北岸を制圧した遊牧騎馬民族フン族というのはこの北匈奴の後裔の一部だと考えられている。このフン族についてはギリシャやローマの歴史書に短足、背は低く小太り、黒くて小さな落ち窪んだ目、平らな鼻と記されていることから明らかにモンゴロイドの特徴を備えていた。

 匈奴時代の遺跡としてはウランバートルルの北方100kmの山中に古墳群が発見され200以上の墳墓が発掘されている。紀元前後の匈奴貴族のものと考えられている。

 なお、これより古い紀元前5-4世紀の古墳群がモンゴル高原西北、アルタイ山地で発見され永久凍土のおかげで男女一対のミイラ、木製品、フェルト、織物、木製の四輪車などが腐食せずに出土している。特に世界最古のペルシャ絨毯、西アジアのゴブラン織り、中国製の不死鳥と花の刺繍入り絹織物など世界でも貴重な品々が見つかっている。

 また、現カザフスタンで黄金人間という、紀元前7世紀頃の全身を黄金ずくめで装飾された若者の遺骸が出土されたが、身長165cm、モンゴロイドの特徴があるが容貌はコーカソイド。最新の研究では匈奴に追われて西に逃れた大月氏だと考えられている。

 174年、後漢に宗教秘密結社の反乱「黄巾の乱」が起こった。

 189年、黄巾の乱を鎮圧した漢軍内で「董卓の乱」と呼ばれる内戦勃発。
この後の長い戦乱と飢饉のため、漢人の人口は150年頃の5,600万人から1/10以下の400万人にまで激減した。

 220年、後漢王朝が滅亡。魏、呉、蜀の3国に分裂し、「三国志」の舞台となる。三国とも人口が極端に減っていて長期戦を続ける力がなかったため、この分裂状況は60年間も続いた。

 人手不足を補うために三国はそれぞれの周辺で異民族狩りを熱心に行い、北方の魏王、曹操は漠南西部の南匈奴を支配下にして山西省の高原に移住させて私兵とした。また漠南東部に住んでいた鮮卑と同族の鳥丸という遊牧騎馬民族を征服し直属の騎兵隊とした。

 これら遊牧騎馬民族傭兵のおかげで魏は蜀を併合。魏の司馬炎が皇帝を退位させて自ら皇帝になり国号を晋と改めた。晋が呉を併合して中国をやっと統一したものの、皇族の8人の将軍達が争い、「八王の乱」と呼ぶ内戦となった。

 304年、この内戦の間に南匈奴の劉淵が独立を宣言し漢 (前趙) を建てた。これを五胡十六国時代という。五胡とは匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五種類の遊牧民のことで、中国内に移住させられていた5遊牧民族が16の王国を建てたものである。中国中原は全く遊牧民の天下となり、生き残った漢人は現在の武漢と、南京を中心とする長江流域に集まり亡命政権、南朝を作った。


6.北魏王朝
 439年、鮮卑の拓跋氏族が建てた北魏が華北を統一し、135年続いた五胡十六国時代が終わった。

 494年、華北 (中国北部) を統一した太武帝の曾孫、孝文帝が首都を平城 (大同) から洛陽に移した。孝文帝は遷都と同時に遊牧民の服装を禁じ、朝廷では遊牧民の部族後を話すことも禁じて漢人の服装と漢語の使用を強制した。

 後世になって中国人は、この例を出して「野蛮な遊牧民が中国に入ると高度な中国文明に圧倒されて、中国人に同化したがる良い例」と喧伝するが、当時華北には殆ど中国人、すなわち漢人が残っておらず、高度な中国文明など見当たらなかったはずと言われている。

 孝文帝の狙いは、北魏は遊牧民族の連合体で支配層遊牧民に共通の言葉がなく、漢字は表意文字で、どの部族の母語でもなかったため公用語に適していたこと。漢人の南朝を制服して天下を統一するためには皇帝の権力を強化しなくてはならず、遊牧騎馬民族の住地、大同の平城から洛陽に首都を移し同部族出身者がまとまって住まない様にすること。皇帝の地位を、遊牧民連合盟主ではなく臣下一人一人を直接統治する中央集権的なものにすることなどであった。

 更に遊牧民と漢人の融和を計るため遊牧民に漢字姓を名乗らせ、漢人有力者を指名して遊牧民貴族との結婚を奨励した。この政策のため、この後の史料に登場する人物は秦、漢時代からいた漢人のように見えるが、実態は北朝から隋、唐の支配層は、殆どが北方から南下した遊牧騎馬民族の出身である。

 もとの本拠地、漠南に駐留していた遊牧民六個師団が孝文帝の死から24年後に反乱を起こし、幼い皇帝が殺され北魏は滅びる。

 543年、北魏は東魏と西魏に分裂。

 西魏で実権を握った宇文泰は鮮卑人と、鮮卑に下った漢人の軍人を再編成し漢人には鮮卑姓を与えた。漢姓と鮮卑姓は簡潔に書くときは漢名、正式は鮮卑名を使った。鮮卑人と漢人の連合体が陜西省と甘肅省にでき、この連合体が宇文泰の息子が皇帝となった北周、これを乗っ取った隋、その後の唐の政権の基盤となった。

 589年、北朝の隋は南朝の陳を滅ぼして天下を統一。この新統一国家、隋と唐は古い秦、漢の中国とは異なり主流は北アジアから入ってきて中国人となった遊牧民であった。


7.突厥 (トルコ)
 鮮卑が漠南と華北で活躍している間に鮮卑から分離した柔然という部族が漠北の新たな部族連合の中心となっていた。5世紀には大興安嶺から天山山脈までを支配していたが期間は短かった。

 552年、西方から進入してきた突厥という遊牧騎馬民族が柔然に代わって漠北の支配者となった。

 この突厥というのが現在のトルコ民族名の語源である。突厥という漢字は「チュルク」の音訳で現代中国人は「土耳古(トゥルクー)」と音訳し、これを日本人がトルコと写したものである。

 話はずっと後に飛ぶが、現在のトルコ共和国は1923年に建国され、その前身のオスマン帝国を建てたオスマン家は13世紀に今のトルコ共和国のあるアナトリアに駐屯したモンゴル軍である。オスマン帝国は15世紀にビザンティン帝国を滅ぼしてイスタンブールに都を移し、16世紀にはバルカン半島、東地中海、西アジア、北アフリカを支配する大帝国となった。

 150年続いた後、1683年にハンガリーをハプスブルグ家に取り戻され、18世紀には西ヨーロッパ勢に押され、最後に第一次世界大戦にドイツ側に付き敗れて解体した。残ったアナトリアのアンカラでケマル・アタチュルクが、英国軍からの独立抵抗運動を起こしトルコ共和国を建国した。

 現在のトルコ建国の父として崇められている初代大統領アタチュルクはチュルクのアタ(父)、すなわちトルコの父という尊敬名である。確か、首都アンカラかイスタンブールル空港のどちらかがアタチュルク空港と名付けられていたと記憶している。

 オスマン帝国時代にはトルコ人は遊牧民という意味で、地方に住む田舎者という蔑称であったという。

 宮廷の支配層は自分達をオスマン人と言い、自分達の言葉をオスマン語と呼んでいた。しかし建国したてのトルコ共和国には団結が必要で、ケマルは自分達をトルコ民族であると主張し、建国は突厥建国の552年であると決めた。つまり、突厥がトルコ共和国の祖で、モンゴル高原と中央アジアからアナトリアに移住したと主張した。

 現在もトルコ人は突厥が先祖で、突厥の墳墓遺跡が多数残っているモンゴル帝国の首都ハラホリン(カラコルム)近郊が民族発祥の地と思い定めている。2005年夏に来蒙したトルコ副首相もわざわざこのカラコルムに赴きトルコ人墳墓に参拝している。

 突厥の祖先ははっきりしないが、伝承では柔然に奉仕する部族だったという。
546年、柔然から独立し西魏と同盟、柔然最後の王を自殺させ突厥帝国を建国。初代王イルリグ・カガンの息子ムカンは一代で東は満州の遼河から北はバイカル湖、西はカスピ海に至るまでを征服し大帝国となった。

 しかし支配領域が急速に広がったことと、兄弟が東西を分割統治していたこともあって、583年に東西に分裂した。西突厥に攻撃された東突厥は同盟国、隋を頼り南に逃がれた。

 北周に取って代わっていた隋の文帝はこれを受け入れて東突厥との同盟を続けた。


8.突厥と唐
 617年、隋の皇帝が南方巡幸の間に太原駐屯軍の司令官、李淵が挙兵し、東突厥に使者を送りその臣下となることを条件に騎兵の援助を求めた。隋を滅ぼして唐を建国して高祖となった後も、李淵は東突厥に対し臣と称して貢物を贈り続けざるをえなかった。東突厥は万里の長城の内外で遊牧していた。

 630年、唐の第二代太宗は即位直後に10万余の大軍で東突厥を攻めてカガン (王) を捕らえて連れ帰った。これが突厥第一帝国の滅亡である。

 北アジアの遊牧騎馬民族は唐の太宗を自分たちのカガンに選んだ。元々、唐の皇帝は鮮卑の出身であるから、彼ら遊牧民にとっては自分達と同じ遊牧騎馬民族のカガンであった。

 682年、東突厥は再び団結して唐から独立し、突厥第二帝国と呼ばれる。この時代に始めて遊牧騎馬民族独自の文字が誕生する。古代トルコ語をルーン文字と呼ばれるアルファベットで書き表したもので、その石の碑文がオルホン河畔で多数見つかっている。その碑文中、唐の皇帝をタガブチ・カガンと呼んでいるが、タガブチは北魏の皇帝の姓、「拓跋(たくばつ)」をなまって発音したしたもので、つまり遊牧騎馬民にとって唐は漢人の国ではなく鮮卑の国であった。


かど のぶゆき、
元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

                        
         
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