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 モンゴルの歴史 (9)
  - The Land of Nomads -
     加戸 信之       
2009.02.15
   
   

1. モンコ゛ルの再興


 14世紀末から中国の明国と対立を続けたモンコ゛ルの史料は17世紀まで途絶え、その間は断片的な記録しか残っていない。

1487年 フヒ゛ライ家系のタ゛ヤイ・ハーンが北元の皇帝に即位。彼は元朝のモンコ゛ル諸部を再び統一し、今日のモンコ゛ルの中興の祖と呼ばれている
1571年 北元の勢力は次第に弱まり、時の皇帝アルタン・ハーンは明と講和を結び順義王の称号を与えられた。しかし、中国文化の流入でモンコ゛ルの独自性を失うことを警戒してチヘ゛ットとの関係を強化。皇帝は東チヘ゛ット、今の西四川省から来たアセン・ラマに帰依し仏教徒となる。更にケ゛ルク派の高僧ソェナム・キ゛ャツォを招き「タ゛ライ・ラマ」の称号を贈った。タ゛ライとは大海の意味で、チヘ゛ット語キ゛ャツォのモンコ゛ル語訳である。キ゛ャツォは転生活仏であったので、その二代前から数えてタ゛ライ・ラマ三世と称した。こうして元朝崩壊後途絶えていたチヘ゛ット仏教はモンコ゛ル民族に復活された。この後、チヘ゛ットではケ゛ルク派はアルタン・ハーンのひ孫をタ゛ライ・ラマ四世としモンコ゛ルとチヘ゛ットの関係はますます緊密となってゆく。
1616年 ロシア使節が初めてモンコ゛ルを訪れ第二代アルタン・ハーンと会見
1617年 第二代アルタン・ハーンの使節がロシアに派遣された
1628年 東方からモンコ゛ル宗家のリンタ゛ン・ハーンが進入し順義王国は消滅
1659年 第二代アルタン・ハーン死去。第三代アルタン・ハーンは名目上ハルハ右翼のシ゛ャサクト・ハーンの臣下でモンコ゛ル族記ではハーンの副主でハーン号は持っていなかった。しかし北方の新隣人ロシアと最初に交渉を持ち、17世紀を通じてハルハの領主達の中で特に大きな勢力を持ち続けた。


2. 清朝の建国と明の滅亡

モンコ゛ル高原で北元が衰退して混乱してゆく中、満州では新たな動きが起こっていた。
1588年  女直のヌルハチが建州女直を統一。
1616年 ヌルハチ率いる建州女直が満州遼河東方に後金国を建てる。1234年にオコ゛テ゛イ・ハーンに滅ぼされた金の後継国家である。女直人はフヒ゛ライ支配下での二度の日本遠征にも多数が駆り出されている。前にも触れたが、中国正史で女直と書かれた民族はシ゛ュシェンが民族名である。
1624年 チンキ゛ス・ハーンの弟の子孫がヌルハチの姻戚となる。
1635年 北元の宗家リンタ゛ン・ハーンが死去し子のエシ゛ェイが女真に降伏し「制誥 (せいこう) 之宝」の四字の元朝ハーン玉璽 (ぎょくじ) をヌルハチの子ホンタイシ゛に差し出した。ホンタイシ゛はチンキ゛ス・ハーンの天命を受けたと解釈して女直をマンシ゛ュと改名した。この後、彼らの出身地が満州と呼ばれるようになった。
1636年 ホンタイシ゛は瀋陽にマンシ゛ュ人、南モンコ゛ル人、高麗系漢人の各代表を招集して共通の皇帝に推挙され国号を大清と定めた。高麗系漢人とは六度のモンコ゛ル軍の高麗侵略で捕虜となった何十万の高麗系子孫である。
なお、ヨーロッハ°でモンコ゛リアと呼ばれるのは19世紀からで、マンチュリアと呼ばれるようになるのは19世紀中頃からである。満州はモンコ゛ル草原に比べて雨量が多く、天水農耕地帯であったが、土地の生産性は低く狩猟も行われていた。
清はモンコ゛ルのハ-ンから離れて降伏したモンコ゛ル人、高麗系漢人を清軍に編入し出身に関係なく行政上、満州人として扱った。
1637年 朝鮮王は清の大軍に侵入されソウルを落とされ降伏し明と断交して清に属した。
1644年 明は清に抵抗してきたが内乱で滅亡。清皇帝が北京に入り、この後260年余中国を支配する。
清の太宗と呼ばれたホンタイシ゛の5人の皇后は全てモンコ゛ル人で清朝を通じてモンコ゛ル貴族は宮廷での地位が高かった。


3. ロシアの台頭

 モンコ゛ルの影響力が急速に薄れるこの時期に西方でロシアが台頭してくる。
ロシアの起源はルーシと言われているが、このルーシとはスカンテ゛ィナヒ゛アのノルマン人を指す。9世紀にルーシのリュサクシ兄弟がノウ゛コ゛ロト゛、キエフを支配したのがロシアの起こりである。現在のロシア人の大多数を占める東スラフ゛人は森林を切り開く農耕の民であった。

 ロシア各都市はヒ゛サ゛ンツ商人やイスラム商人との毛皮や奴隷を交易する拠点として発展する。

 モンコ゛ル帝国の侵入時はリューリク家の内部抗争中で統一がなく、ロシア各都市とロシア正教会はモンコ゛ル人支配を完全に受け入れた。ロシア語のタタル(複数形がタタール)はモンコ゛ルと同意語だったが、やがてロシアを支配したチンキ゛ス・ハーンの長子シ゛ョチ家子孫だけをタタール人と呼ぶようになり、シ゛ョチ家の支配した地域は「黄金のオルト゛」と呼ばれた。
1237年 モンコ゛ル軍が侵入した時、モスクワは小さな砦で当時の史料には名前すら登場しないがモンコ゛ル支配下、徴税を請け負って発展。
1328年 モスクワ公イウ゛ァン一世が大公の位を授けられた。ハ゛ルト海沿岸で大国に成長しつつあったリトアニアに対抗させるためシ゛ョチ家がモスクワを優遇したこともあり、万人隊17を持つ大公国になった。
1380年 黄金のオルト゛内でハーン継承争いが起こっていたのに付け込んでモスクワ大公がシ゛ョチ家に反乱を起こし、一時は大勝利を収めた。
1382年 シ゛ョチ家がモスクワに再侵入し、モスクワ大公は逃亡した。
15世紀になってから黄金のオルト゛内で宗主争いが絶えず、モスクワとホ°ーラント゛は度々リトアニアに侵略された。
1502年 内紛が終息し、黄金のオルト゛はクリム・タタルと合体して大オルト゛となった。
しかし、その後モスクワ大公イウ゛ァン三世、四世に度々侵略されてハーン家はフ゛ハラに移動。黄金のオルト゛のハーン位をクリム・タタルに奪われる。シ゛ョチ家はこの地で後の1783年にロシアのイェカテリナ二世に滅ぼされる。
1576年 「最後の大ハーン」アクメト゛の曾孫シメオン・ヘ°ックラトウ゛ィチはカシモフに移り住んでモスクワ大公イウ゛ァン四世の保護を受けていたがツァーリの位に就けられた。
1577年 イウ゛ァン四世はシメオンから半ば強制的に譲位を受けて自分がツァーリになった。イウ゛ァン四世はシメオンを利用しただけで、この手続きにより黄金のオルト゛の継承者を名乗りシ゛ョチ家の後裔達を支配する権利を得たことにした。モスクワ・ツァーリはラテン語で「白い皇帝」と自称し、モンコ゛ル族からは「白いハーン」と呼ばれるようになる。これが後の「白ロシア」の名称に繋がる。ロシア帝国もモンコ゛ル帝国の継承国家として出発した訳である。
1581年 イウ゛ァン四世がシヘ゛リア進出を始める。その先兵がコサックであった。コサックはシ゛ョチ家の支配下、ウクライナで自立的軍事共同体を形成して、広野で人馬一体の生活をしていた遊牧民集団で、黄金のオルト゛分裂後、シ゛ョチ家から離れてロシア正教徒になった者達が起源だと言われている。
1585年 コサックがウラル山脈を東に越えて侵入して行ったがクチュム・ハーンの反撃を受けて首領が戦死したため、その後はモンコ゛ル後裔と正面衝突しないように遥か北方に迂回しつつ東進を続け、急速にシヘ゛リア開拓を進めていった。
1604年 コサックはオヒ゛河上流に達しトムスク市を建設した。
1608年 ロシアの前進基地となったトムスク市はハルハのハーンと中国に初めて使節団を派遣したが何の進展も得られなかった。
1613年 ミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれロマノフ朝誕生。ロマノフの孫ト゛ョートル一世になってようやく現代に繋がるロシア帝国の基盤が作られた。
1616年 ロシア使節が始めてアルタン・ハーンに会見。
1617年 逆にアルタン・ハーンの使節が始めてロシアに派遣された。
1638年 タイカ゛、ツント゛ラ地帯を東進し続けたロシアは遂に太平洋岸に達した。ウラル山脈からオホーツク海に達するのにわずか60年弱しか要していない。


4. ロシアのの南下と清との衝突

1638年 この年に太平洋岸に達したロシアは、その後南下を始めた。
1644年 黒竜江(アムール)に達する。
1649年 隊長ハハ゛ロフはアムール地域の原住民タ゛ク゛ール人を略奪しつくし、この原住民の要請を受けた清軍はロシアと最初の戦闘を行った。
1653年 あまりの残虐性と清軍との交戦に苦戦したことからハハ゛ロフは解任されたが、後任のフテハ°ノフが更に黒龍江、松花江、ウスリ江を荒らし回ったため、この一帯の住民が南の清朝に逃れて一時無人地帯になってしまった。
このハハ゛ロフというコサック人はシヘ゛リア極東をロシア領にしたということでロシアの英雄として称えられ、現在のハハ゛ロフスクという都市名にもなり、その銅像が今もハハ゛ロフスクに建っている。
1656年 清が反撃に出、ステハ°ノフ軍を壊滅させた。
1665年 数年の準備後ロシアは再び南下を開始。
1676年 ロシアと清が黒竜江地方をめぐる係争の外交交渉を始めたが決裂。
1683~89年 ロシアと清が満州で6年戦争を行い、清が優勢になった結果、ネルチンスク条約が結ばれ初めての国境線が黒竜江のはるか北方に設定された。この間モンコ゛ル軍も清軍としてロシアと戦っている。
1691年 ロシアとの戦いで苦しんだモンコ゛ルのハルハ部領主達は清に臣従を誓う。この地は20世紀に外モンコ゛ルと呼ばれる地域である。


5. 最後の遊牧帝国シ゛ュ-ンカ゛ル

 モンコ゛ルに話を戻す。モンコ゛ル語で左翼という意味のシ゛ュ-ンカ゛ル部族は17世紀後半に突然歴史の表舞台に登場し中央ユ-ラシア草原に一大遊牧帝国を築いたが18世紀半ばには過去の遊牧帝国と同じく相続争いで内部崩壊し清朝に亡ぼされた。

 その後ユ-ラシアには二度と遊牧帝国は生まれなかった。なお、カサ゛フスタン人がロシアに従属したのはシ゛ュ-ンカ゛ルの圧迫から逃れたためである。

 シ゛ュ-ンカ゛ルは元々13世紀始めオイラト四部族連合を構成する一大部族であったが、元朝が中国からモンコ゛ル高原に退いたフヒ゛ライ家のハ-ンに圧迫されていたものである。
この後、モンコ゛ル高原遊牧民はモンコ゛ル40部族連合とオイラト4部族連合の二大陣営に分かれ対立する。

 オイラト部族連合は元のオイラト部族にモンコ゛ル高原西北部の部族が加わった反フヒ゛ライ連合だった。

 シ゛ュ-ンカ゛ル帝国の本拠地は今の中国新疆北部のシ゛ュ-ンカ゛ル盆地を中心にした天山山脈の北方一帯であった。1620年頃、シ゛ュ-ンカ゛ル部族長ハラフラがアルタイ・ハ-ンに立ち向かったが打ち負かされ、オイラト諸部族はアルタイ・ハ-ンと西のシ゛ョチ後裔の遊牧集団カサ゛フの両方から攻められシヘ゛リアに避難。

 しかし、1623年に南下してモンコ゛ルとの戦争に乗り出し3万6千の兵で8万のモンコ゛ル軍を破りハルハのアルタイ・ハ-ンを殺してオイラトがモンコ゛ル従属から初めて自由になった。
しかし、わずか2年後の1625年に遺産争いを起こし、その一部のトルク゛-ト部族長は5万家族を連れて西に向かい1630年にまだロシア領ではなかったヴォルカ゛河畔に移住した。
オイラト人はモンコ゛ルの影響で17世紀始めにはチヘ゛ット仏教徒になっていたが、チヘ゛ットは施主のモンコ゛ル領主を巻き込んで派閥抗争中で新しく領主になったオイラト諸部は青海に南下して1万の軍で3万のモンコ゛ル・ハルハ部族を殲滅した。

 部族長ク゛-ンはタ゛ライ・ラマ5世から「持教法王」の称号を授かりモンコ゛ル語でク゛ーシ・ノミーン・ハ-ンと名乗りオイラトではじめてのハ-ンを称した。これはハ-ンの称号はチンキ゛ス・ハ-ンの男系子孫だけが称せられるというモンコ゛ル帝国の不文律に対するチヘ゛ット仏教からの挑戦だった。タ゛ライ・ラマ5世は自分を頂点とする仏教世界の秩序に新たな施主を組み入れる意図があった。

 ク゛ーン・ハーンは遠征に同行したシ゛ュ-ンカ゛ル部族長を娘と結婚させハ゛-トル・ホンタイシ゛という称号を与えた上で故地に帰し、中央アシ゛アのオイラト諸部族の盟主とした。
1642年、ク゛ーン・ハーン自身はチヘ゛ット各地を平定しチヘ゛ット全土を統一してチヘ゛ット王の位に就いた。

 タ゛タイ・ラマ5世はチヘ゛ット仏教教主に推載され、この後現在まで続くタ゛ライ・ラマ政権の始祖となった。

 またク゛-ン・ハーンの子孫は青海草原で遊牧しながら名目上、代々のチヘ゛ット王となった。
1678年、ハ゛-トル・ホンタイシ゛没後に内部抗争の結果、カ゛ルタ゛ン・ハーンが継いで西方に勢力を拡大しタリム盆地のトルコ系イスラム教徒を属民とした。

1684~85年、タシュケント、サイラムを占領。
1688年、漠北のハルハに侵入し、数十万人のハルハ人はコ゛ヒ゛砂漠の南に逃れ清に保護を求めた。

 このモンコ゛ル人の領主はハルハにチヘ゛ット仏教を導入し、1585年にモンコ゛ル帝国時代の旧都カラコルムに現在も残る仏教寺院エルテ゛ニ・ソ゛-を築いたアハ゛タ゛イの子孫であり清に従属を誓った。

 カ゛ルタ゛ン・ハーンは清にモンコ゛ル人領主とハルハのチヘ゛ット仏教高僧の引渡しを求めたが清は拒否。

 カ゛ルタ゛ンは2万の兵で南下し北京北方300kmの地で清軍と衝突したが清の増援部隊の到着で漠北に引き揚げた。

この争いでモンコ゛ルでは初めての火器が使われた。シ゛ュ-ンカ゛ル軍は1650年頃からロシアより鉄砲、大砲を提供されており、硫黄を精製して使用した。こうしてオイラト連合を除くモンコ゛ル民族全てが清朝の支配下に入った。

1696年、清は3個軍団でモンコ゛ル高原に遠征しカ゛ルタ゛ン軍は逃走。それを追って清軍は現在のウランハ゛-トル近郊で補足激戦しカ゛ルタ゛ン軍の主力を壊滅。カ゛ルタ゛ン自身は少数の部下と脱出したが、この間にカ゛ルタ゛ンの甥が本拠地で叛旗を翻して清と連合したため故地に帰れず、放浪の末に病没した。

1720年 青海地域とチヘ゛ットでシ゛ュ-ンカ゛ル内部の内部抗争が再び起こったが清朝公認のタ゛ライ・ラマ7世が清に助けられてラサに入り清のチヘ゛ット保護が始まったためシ゛ュ-ンカ゛ル軍は北方に逃れた。
1731年 シ゛ュ-ンカ゛ル軍はモンコ゛ル高原に侵入し一時は清軍を破りエルテ゛ニ・ソ゛-を占領したがモンコ゛ル軍の反撃に大敗して敗走。国境交渉で現在のモンコ゛ル西部のフ゛ヤント河を境とし、オイラトはアルタイ山脈を越えない事と決まった。シ゛ュ-ンカ゛ルはこの為西方征服に専念しカサ゛フを侵略したためカサ゛フは帝政ロシアに保護を求めた。
現在のカサ゛フ人は15世紀にウス゛ヘ゛ク族から分離した遊牧集団の後裔で、イスラム化したチンキ゛ス・ハーンの長子シ゛ョチの後裔の総称である。その一部が南下して現在のウス゛ヘ゛キスタンの国民となった。
1742年 更にシ゛ュ-ンカ゛ルの別軍はタシケントとホ-カント゛・ハーン国を占領。しかしその後お決まりの分裂が起こる。1775年、清はこれを利して一挙にモンコ゛ル軍と満州軍を動員して進軍し、最後の遊牧帝国シ゛ュ-ンカ゛ルは滅亡した。

 その後、シ゛ュ-ンカ゛ルの残党が度々清軍を襲撃したが天然痘が大流行してオイラトの人口が激減。シ゛ュ-ンカ゛ルはほぼ全滅しイリ地方はほとんど無人地帯となった。ヴォルカ゛河畔のトルク゛-ト族がこの地をねらって3万3千家族の大移動を行ったが、途中でロシアのコサック、イスラム教徒のハ゛シキル人、カサ゛フ人、キルキ゛マ人などに襲われて7ヶ月の移動で10万人を失ってようやくイリの故地に帰り着き清の保護下に入った。

 この年、ヴォルカ゛河が凍結しなかったため右岸から渡河できずに取り残された1万数千家族の子孫が元ソ連邦カルムイク共和国の人々である。イリに帰還した7万人のトルク゛-ト族の子孫が現在の新疆北部に住むトルク゛-ト.モンコ゛ル族である。

 一部のオイラト連合とジューンガル 部族もその子孫が現在に生き残っている。


かど のぶゆき、
元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

                        
         
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