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逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(28)
- 航空機乗員養成所出身者座談会 -
編集部
2009.04.15
   
   
  航空機乗員養成所出身者座談会

 2007年1月15日に連載が開始されました「逓信省航空局 航空機乗員養成所物語は2009年3月15日の第27回を最後に終了いたしました。

 連載の終了を記念し去る3月19日、新橋の航空会館6階日本航空協会にて航空機乗員養成所出身の6名の方々にご参集いただき「航空機乗員養成所出身者座談会」を開催いたしました。

 連載の執筆者である徳田忠成氏が司会を務められました。参加者の方々には、往時を思い出し活発にお話いただきました。
参加者とご発言の一部を紹介いたします。
(50音順) 


新井省吾氏  (仙台航空機乗員養成所4期、松戸中央航空機乗員養成所2期)

 
(司会) 新井さんは、松戸中央航空機乗員養成所第2期生でいらっしゃいますね

 そうです。養成所1期から5期までの50名が選ばれて、昭和16年5月12日に松戸中央に入所して訓練を受けました。

 計器飛行の訓練、基本航法、野外航法などの慣熟飛行をしました。途中でジフテリアに罹患したこともあり養成所では126時間の飛行時間しかありません。ここで1等操縦士資格をとりました。 昭和16年12月30日、松戸中央を卒業し40名のうち19名が卒業と同時に臨時召集され、宮崎県の陸軍新田原(にゅうたばる・陸軍の落下傘部隊基地)に配属されました。戦後、生き残ったのは、19名のうち、私を含め4人のみでした。

(司会) 大変な強運ですね。それにつけても、終戦の年3月、沖縄沖航空戦で大事故に遭われましたが、その模様をお聞かせください

 64年前の昨日、3月18日に九死に一生を得る大事故から生き残りました。海軍航空隊の鹿屋(かのや)基地から緊急出動(注:当時、陸軍は海軍の指揮下にあった)で、18日未明、97式重爆撃機の2機編隊で明け方4時半ごろに離陸しました。魚雷1,070キロ、燃料が満タン4,000リットルで機体がとても重かったことを覚えています。

 離陸直後の高度700メートルくらいで、上方にいたグラマン(米軍戦闘機))に攻撃されました。格好の標的になったようです。4番タンクに火がつき、機体は火を噴き、急降下しました。空中爆発の可能性がありましたが、高度200メートル位で、胴体に火が入っている状態で胴体着陸をしたのです。操縦桿で胸をうち、あばら骨2、3本が折れましたが、その程度でよく助かったものだと思います。懸垂していた魚雷は幸いに暴発しませんでした。胴体タンクだったので、燃料がもれていて爆発しなかったのでしょう。
 


板津忠正氏 (米子航空機乗員養成所14期)

(司会) 板津さんは操縦生最後の14期生ですが入所の動機は何だったのでしょう

 母親の在所が三重県の明野にあったので、母の実家にいくたび3歳4歳の頃から明野陸軍飛行学校の飛行機が空中で練習するのを見ており飛行機に乗りたいとずっと思ってました。

(司会) 同期生の多くが特攻隊員として出撃され、690名中13%の88名が戦死されていて、過酷な状態におかれました。戦後、知覧特攻平和会館設立に尽力され、初代館長(事務局長)を務められましたが


 まず申し上げたいのは、特攻隊に戦争末期を除き、原則的に強制とか命令はなかったということです。ガソリンは半分しか積まなかったといわれていますが、これも真実ではありません。一部の例外を除いてはすべて満タンで飛んでいきました。また、長男は特攻隊員に指名されなかったといわれているようですが、陸軍ではそのようなことはありませんでした。戦後生まれの人には分からないと思いますが、その当時は、お国のために特攻攻撃をしなければならないという想いが強かったのです。

 陸軍知覧飛行場は本土最南端の特別攻撃隊の出撃基地ですが、知覧町の方々は特攻隊を見世物にしたくない、あまり世に出したくないという気持ちが強かったのです。私は特攻を歴史上の事実として保存しなければならないと、地元に働きかけました。

 2007年5月に公開された日本映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の脚本はすべて私が目をとおし、映画監督・助監督が自宅に来て打合せをおこないました。

 今の日本の若者が知覧に来て、国のために殉職した若者を初めて知ることにより、自分を見つめなおすきっかけになると信じています。




神谷国夫氏  (米子航空機乗員養成所第1期本科生)


(司会) 入所の動機は何でしょうか。また本科生1期として、3年編入という変則的な形で入所されましたが、その頃の模様をお話ねがいます


 名古屋に名古屋飛行学校があり、小学校4年の時にそこへ遠足にいきまして、滑走路の排気ガスのにおいとプロペラの風圧に感激し、絶対にパイロットになろうと決心しました。お小遣いをもらっては名古屋飛行学校に通ったいわゆる航空少年でした。

 昭和16年4月に開校、1年半、上級生はいないし下級生とは仲良く暮らしてきたので、体罰なんていっさいありません。われわれ本科生は、最初、グライダーを新潟乗員養成所でやりました。実機訓練のために米子へ移ったのですが、体罰はほとんどありませんでした。なぐられたのは全体責任として2回のみでした。

(司会) 航空機乗員養成所ご卒業後、大日本航空へお入りになったのですね

 義務だった軍隊での4ヶ月の訓練後、予備役下士官となって除隊し、昭和19年8月終わりに航空局の命令で各乗員養成所から合計21名が大日本航空に入りました。180名のうち、大日本航空、中華航空、満州航空、松戸中央とわかれ、その他は軍隊に残ったのです。大日本航空では、熊本航空訓練所で将来の民間パイロットの基幹要員となるべく訓練を受けました。

 半年が経ち訓練で雁ノ巣へ行くとき、総勢12名が乗った機が離陸してすぐに墜落しました。その時、はじめて飛行機事故の死者を目の当たりにしました。同期生を丸い棺桶にいれましたが、丸棺から手足が出るので、坊さんから死者の手足を折って棺桶に入れるように言われ、ゾッとしたことを覚えています。

 その事故の本葬の翌日、上海まわり台北行きの軍令がおり、雁ノ巣から参謀長を乗せて海面50メートルぐらいをMC20輸送機で飛びました。昭和20年でいつ爆撃を受けるかわからない状態だった。島伝いの航法で飛び、新竹の飛行場を椰子の葉陰から見つけて行きすぎを知り、やっと淡水飛行場へ到着できました。帰りは沖縄経由で帰ってきました。

 敗戦が濃厚と感じていましたが、上司から「いつかは戦争が終わる。そしたら君たちは、民間パイロットとして日本の将来を担っていかなければならない」といわれました。卒業式と入社式を兼ね、熊本のホテルに一泊し様式のマナーを教えてもらいました。そのとき初めて様式トイレットを知りました。大日本航空の方々は紳士的でした。


越田俊成氏  (米子航空機乗員養成所7期)


(司会) このなかで飛行艇に乗られたのは越田さんだけですが、まず養成所に入られた動機をお話ください

 名古屋に予備航空団ができて、中学から飛行機に乗れるということで入団し、飛行練習を受けていました。それで、たまたま神風号の飯沼操縦士が名古屋飛行場に降り立って、女性に大変人気があったことから、民間パイロットになろうと決心したのです。それで米子乗員養成所に入りました。人の出会いとは面白いものだと今でも思っています。一緒に名古屋予備航空団にはいった友人はすべて死んでしまい、わたくし一人が生き残ったのです。


(司会)  フィリピンのダバオ救出作戦、台湾への緑十時飛行の話をお聞かせください

 レイテ海戦直前に、フィリピン南端のミンダナオ島にあるダバオ海軍航空基地に孤立している海軍の航空機搭乗員や大日本航空の社員、合計45~46名の救出に二式飛行艇(通称:二式大艇)で飛びました。米軍に見つからないように、椰子の木が揺れるくらい低い高度で飛びました。民間機による救出にたいして海軍から感謝状をもらいました。

 また、緑十字飛行で終戦直後の台湾での経済混乱をさけるため、銀行券を台湾に日本から輸送しました。20年9月になって急に日本銀行が保障するお金を運ぶことになったのです。台湾の銀行で、とりつけ騒ぎの混乱を防ぐため米軍が許可してくれたようです。

 ただし、現地での身分の保証・食べ物の保障はできないとのことでした。同様の事情で機がソウルにお金を運んだとき、一歩も機外へ出られなかったことを聞いていたので、非常糧食のカンパンを積み、悲壮な思いで根岸湾を離水しました。

 厚木の上15マイル以内に近づいてはいけない、さらに沖縄の50マイル以内に入った場合は、打ち落とされるといわれて緊張しました。

 高度をとるために横須賀へ旋回し、反転して江ノ島にもどりましたが、厚木基地に近づいたものだから、チョット覗いてやろうと思って、機首を右に振ったら、戦闘機が2機、スクランブル(緊急発進)してきてビックリしましたね。パイロットの顔がみわけられる距離でした。整備士の人に窓から顔を出して謝ってもらいましたが、パイロットの笑っている顔がみえ、分かったという表情でユーターンしていったのです。

 地文航法で沖縄の地形がよく見えましたが、爆撃で山がなくなり平らになっていたのにはビックリしました。これも50マイル以内にチョット入ったら、すかさず偵察機が2機飛んできましたね。台湾の淡水飛行場におりるまで、ずーと追跡されました。

 台湾では経済の復興のためによくきてくれたと大歓迎され、三日三晩の大宴会を開いてくれ、帰りは食料を山ほどおみやげをくれました。米軍の通関がどうなるのかひやひやでしたがスンナリ通過が許され、海洋部の人たちに配りました。




塩野入健二氏  (古河航空機乗員養成所本科6期)

(司会) 昭和19年4月、戦争末期のたいへんな時期に養成所にお入りになったのですが、どのような動機でしたか

 昭和19年になると東京は食料・衣料をはじめ何でも配給となっていました。小学校から上にあがるときに、中学を受けないで高等科にいくつもりでいましたが、先生が無料でパイロットになれる航空機乗員養成所のことを教えてくれ、運よく合格したのです。

 茨城県の古河乗員養成所に入りました。古河には6同期生としては最大の247人がいて、1学年では予定通りの授業がおこなわれたのですが、2学年に入って間もなく本土が爆撃に晒されたので、日光湯元に疎開したりして、飛行訓練はできませんでした。1年4ヶ月で終戦になり、昭和20年12月20日、養成所の業務が打ち切られ、郷里の巣鴨へ帰ったのです。


(司会) 塩野入さんは、終戦時は14歳だったと思いますが、大変ご苦労なさったでしょうね

 養成所から帰郷した学生の学歴については、文部省との折衝がうまくいかなかったらしく、大半の者は運輸省管轄の鉄道教習所へ入って専門科目を学び、約2/3が国鉄関係の各分野に就職しました。私は途方にくれましたが、家が印刷屋でしたから、結局、鉄道教習所には行かず、航空関係の仕事にもつかずに家業を継ぎました。乗員養成所関係者とのつきあいは、いろいろな出版物を引き受けたり、6期の世話人などをやり、今も続いています。
 



平吹弥市氏  (仙台航空機乗員養成所11期)


(司会) まず養成所入所の動機をお聞かせください


 最初に飛行機に乗ったのは、小学校の6年のときに海軍の霞ヶ浦航空隊から私の郷里の米沢に飛行機が飛んできて、どういうわけかそのパイロットが私だけを飛行機に乗せてくれました。それが縁で、そのパイロットのおじさんとの文通がはじまりました。中学時代は名古屋にいましたが、兄が各務ヶ原の三菱重工に務めていて、よく面会に行き飛行機が大好きになったのです。

(司会) 普通、8ヶ月間のところ、平吹さんの期は乗員養成所に1年間おられた訳ですが、訓練内容についてお教えください(注:11期は昭和17年4月入所)

 われわれは入所3日目に飛行服一式を支給されて、非常にはやい段階から飛行訓練を受けました。期間が長くなったのは、航空局の方でより充実した内容が必要と判断したからでしょう。操縦訓練は合計2ヶ月ちょっとでしたが、飛行訓練時間も120時間と平均より多く飛びました。その他の科目としては体操、駆け足、鉄棒、フラフープ、剣道をおこないました。

(司会) 終戦直前は、京城で特攻要員の教官をしておられたとか

そうです。卒業後は米子養成所で助教をやっていたのですが、19年3月に応召、終戦のときは、陸軍大刀洗飛行隊に所属して京城に赴任、特幹(注:特別幹部候補生で、学徒出陣の産物)の特攻訓練に明け暮れました。わずか100時間少々の経験しかなく、編隊飛行がやっとの彼らの特攻訓練に、大きな疑問を感じていましたが終戦になったのです。


司会を務めた徳田忠成氏(中央)



座談会参加者全員

後列左から徳田忠成氏(司会)、板津忠正氏、越田俊成氏、塩野入健二氏
前列左から新井省吾氏、平吹弥市氏、神谷国夫氏
 

 

(財)日本航空協会 文化情報室 

         
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