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飛行艇パイロットの回想 -横浜から南太平洋へ-
(12)  地獄極楽、紙一重
  越田 利成
2010.07.15
   
   


1. 暁のサイパン脱出


 米軍はガタルカナルのあとソロモン群島を手中におさめ、ラバウルを巡る航空戦を展開したが、攻略は損害甚大と見て攻撃進路を変えた。昭和18年11月21日ギルバート諸島のタラワ環礁にあるペチオ島には海域最大の飛行場があり、これを米軍は占領して使用した。

 ギルバード諸島の哨戒飛行の任務を受けていたヤルート海軍航空隊の二式大艇は同年後半、米軍によって無限と思われるほど潤沢に投入された新兵器、膨大な物量が繰り出す大反撃にさらされていた。マーシャル群島のサイパン、硫黄島の攻撃を意図する米軍は連日のレダー網の警戒や哨戒飛行によって完璧なまでに制空権を確保し、ヤルート島から出動していった二式大艇の未帰還機が増え続けた。

 ついにこの年の11月20日には、発進寸前の二式大艇が空襲を受けて全滅してしまった。中部太平洋方面の米軍の侵攻は一段とピッチを早め、昭和19年2月17日、米機動部隊は延べ450機をもって第四艦隊基地のトラック島艦隊泊地を急襲、大損害を受けた同島基地は2日間でただの島と化してしまい、残念ながら日本海軍南方作戦は終わりを告げざるを得ない、悲惨的な大打撃を被った。
更に続いては米機動のサイパン島空襲の危機が迫っていた。

 サイパン基地には大日航の九七式大艇を真ん中に挟むようにして海軍九七式大艇2機の計3機が並び、南洋の空がまだ明けきらなぬ薄暗い早朝にわれわれは横浜行、海軍の2機はそれぞれ哨戒飛行とトラック島行の出発準備に大わらわだった。

 すると突然、空襲警戒警報が発令された。3機の飛行艇は一刻も早くサイパンを去るべく乗員は全員搭乗して配置につき、エンジンは始動され滑走台から海面に降ろされる順番をハラハラしながら待っていた。そこへ指揮官からの慌しい指令がはいった。「一番奥に駐機している海軍の飛行艇は敵機動部隊に一刻も早く接近させる哨戒機だから最優先として2番目に降ろす。大日航機は最後にしてほしい」

 たまらず私は「なにっ、そんな馬鹿なことがあるか。この一刻を争う時に入れ替えしている余裕なんかない。そんなことをしているうちに、入れ替え中の2機とも攻撃目標にされて、被害甚大になるおそれがある。入れ替えせずに順番に降ろしてくれっ。そうしたら最悪でも1機は被害に合わなくてすむんだっ!」大声をはりあげて抗議した。しかしその時には大日航機は動き出しその通りになり、大日航機は滑走台から降ろされようとしていた。さすがに5分前の5分前を実行している日本海軍である。戦闘時の動作は俊敏そのものであった。その鍛え抜かれた手際のよさに大いに感謝した。

 大きく手をふって水上滑走し始めたときには上空に味方の戦闘機が飛びはじめ、海岸に装備してある機関砲がグルグルと回りはじめていた。いま機銃掃射されたらひとたまりもない。必死に敵弾をくぐり抜ける思いで猛スピードで水上滑走し、離水地点で風に正対しながらエンジンを全開にした。

 離水中、前方から敵の戦闘機が超低空で来襲し「シューン、シューン」と水しぶきをあげて撃ってくる。出会いがしらに閃光弾が目の前をかすめるが、幸いに飛行艇をさけて左右に飛び散っている。「パッパッ」と地上砲火の炸裂する砲煙が眼前に立ちあがる。映画ではないが、まさに敵弾雨降るなかを離水し機首を引きあげて空中に浮かんだ瞬間、右下の海軍航空隊基地では滑走台の途中で既に黒煙高く炎上している最後に降ろされた哨戒任務の九七式大艇が目に映った。

 日の丸をつけた我が軍戦闘機と星印の敵戦闘機が飛び交い、乱舞する中を一刻も早く脱出すべくエンジンは全開、海上すれすれの超低空飛行で左旋回しながら北に変針、目の前の雲に突入すべく無我夢中だった。幸いにして敵の攻撃からかろうじて逃れた大艇は、海上100mの高度を猛スピードで飛行しながら前方の真っ黒な豪雨に飛び込んだ。

 <助かったっ!>、しかし一難去って、また一難。途端にジャージャーとバケツの水をぶっかけられたような物凄い豪雨が風防を叩き、途端に視界ゼロになってしまった。懸命になって操縦桿を握りしめていたが、極度の緊張と恐怖にさらされて爪先から膝の付根まで両足ががたがた震えて止まらなかった。しかし、このまま豪雨が続けば大空襲のサイパンから北へ北へと無事遠ざかることができるかも知れないと、まさに命がけだった。

 「よかったなぁ、悪天候は天佑だぞ」敵さんの攻撃が避けられそうだと、心配がようやく薄らいだときは安堵感がただよい皆が顔を見合わせてホッと一息ついた。冷や汗をぬぐって震えてる手先でタバコを引き出して口にくわえ、紫煙を大きく吸い込んだときには格別にうまかった。<よくも生きていたなぁ>と、一安心したころは足の武者震い?もピタリ止まって日ごろの落ち着きをとり戻していた。

 出発前の気象屋さんの予報では熱帯性低気圧がサイパン北部一帯に発生しているので要注意であると言われたが、珍しく大当たりとなりお蔭で命拾いしたようなものだった。それにしても、いつもなら真っ先に避ける豪雨の中に飛び込んで感謝した初めての経験だった。


2. あわや潜水艦に衝突

 そのまま超低空で北上を続け、視程はややあがり2km以上になってきたが相変わらず雨は降りつづいた。突如、眼前にうっすらと艦影が浮かびあがった。ギョッとして近づくと、浮上している潜水艦だ。
 「あっ、やっぱり敵さんの潜水艦がチャッカリと待ちうけているぞっ、この野郎め!撃たれてたまるものか」

 すでに避ける余裕がないほど近づいていた。「エーイ」、悲鳴と同時に操縦桿を引きあげ上空を飛び越えようとしたところ潜水艦のほうが慌てて潜航し始めた。上空をかすめようとしたとき、海面すれすれに沈まんとしているその甲板に日の丸が海水にゆれてハッキリと浮かんでいるではないか。

 <なんだぁ、味方だったのか。脅かしてご免、こちらも必死で雨の中を命からがら飛びつづけていたものだからね、潜水艦を攻撃しようなんてとんでもない勘違いだよ>と、心のなかで謝った。

 すると海軍出身で、潜水艦に搭載する水上機の整備員の経験があった機関士が面白い話を聞かせてくれた。「通常、潜水艦は雷の心配がなければ豪雨の中は敵の攻撃の心配がないので不足する水補給のチャンスというわけで浮上して雨のシャワーで体を洗ったり、洗濯したり、飲み水の補給をするのだよ。

 この雨じゃ敵機来襲の心配はないと思いこんで久しぶりにユックリとシャワーをとっていたのだろう。乗組員の連中は、多分緊急潜航で気の毒に泡だらけの裸のまま潜りこんだにちがいないなぁ。お互いに戦争は瞬時の争いだ。空も海も、どちらも下へ潜るのは辛いよなぁ、勘弁してくれよってところだ」「しかし、お互いに脅かしっこなしだねぇ、勘弁してくれ」



3. 恐怖のトルネード

 雲底は相変わらず低いが雨も小降りになり、視界も次第に回復してきた。一安心したのもつかの間、一難去って又一難。前方に海水が空に向かって吹き上げているかと錯覚するほどの物凄い大きなトルネード(竜巻)が進行方向の西側で暴れまわっているではないか。他にも小型のものが東方に向かって3ヶ所で暴れており、行き先を塞いでいる。こんなのに巻き込まれたが最後、木っ端微塵になって空高く巻き上げられることは間違いない。

 無気味な自然の脅威にただただ驚愕あるのみである。竜巻の真下は巻き込まれた海水が滝の逆で下から上へ空中に舞い上がっている。あれよ、あれよと見ている間に、西方から東方へとかなり早い速度で移動している。思いきって大きな間隔のあるトルネードの去ったあとを西側へ迂回し突っ切ることになり、絶対に近寄らない安全距離を保つことにした。少しでも揺れだしたら下降気流で海面に叩きつけられるおそれがある。できるだけ雲底すれすれまで高度をあげてエンジンの全開にも備えた。

 ガタガタと小刻みに機体が上下しただけで無事竜巻の脅威から逃れた途端、風向きが北西に変わって海面は白波が立ち、雲底もどんどん高くなり、しばらくして青空が顔をだし、太陽が微笑みかけてきてホッとした。

 早速、サイパンに出発報告と気象情報を送るべく打電してみたが不通。やはりまだ空襲中なのか、それとも通信所が被爆なのか、ガリッガリッという雑音ばかりだった。

 サイパンの被害を心配しながら今度は横浜を呼んでみたが、低空飛行で遠距離では、通信設定ができるはずがない。呼べども呼べども無言で難聴の飛行がしばらく続いた。巡航高度になって、ようやく横浜通信所にサイパン出発メッセージと到着予定時刻の打電に成功し、ブーン、ブーンと四発エンジンの調子のよい同調音を聞きながら巡航に移った。

 空襲下の修羅場をくぐり抜けて出発、滑走、離水と、危機一髪でサイパン脱出に成功、あわや潜水艦とニヤミス騒ぎ、初めて遭遇した強烈なトルネードの恐怖から逃れて通常の巡航飛行に移ったときの喜びはひとしおである。

 <どうだ、うまくやっただろう>と、難関突破後の緊張感がとけて自然と自慢顔になる。そのときの幸福感と満足感が体中にあふれた感動と安堵は、永久に忘れることができないヒコーキ野郎の一コマだった。

 この世はまさに『地獄と極楽は紙一重』だと思う。しかし、精一杯努力してこそチャンスが生まれ、極楽の世界が開けるのだ。<サイパンを簡単に陥とされてたまるものか>と、自分の幸運を体中に味わいながら無限に遠く感じた横浜の磯子海岸へと飛行を続けた。

4. 水陸両用機の前身 二式練習飛行艇

 飛行艇の回想に是非書き添えたいのは二式練習飛行艇である。本機二式大艇の訓練用に開発されたが、生産数が28機と限られ操縦体験のあるパイロットも極少数であった。正式採用になった飛行艇の最終機種となった二式練習飛行艇について述べておきたい。

戦後米軍により調査される 二式練習飛行艇

 昭和16年我々は九七式大艇の操縦訓練のため、佐世保海軍航空隊に充員応召を受けて入隊。日米は益々険悪な情勢になり遂に夜間、日本沿岸に米軍潜水艦の出没が報じられ、いよいよ哨戒飛行作戦の態勢となった。佐世保海軍航空隊では夜間、九州沿岸の哨戒飛行を実施することになり、予定外の夜間飛行の体験が多くなって昼夜兼行の飛行に忙殺された。

 12月に日米開戦となったが、国策の大日本航空に飛行艇を投入して南洋航空路開発が進行中であり、我々に要求された飛行艇操縦訓練量を満たすには先ず飛ぶことであった。一方、九七式大艇は主として夜間の哨戒飛行任務に移り、昼間の訓練飛行を補うために海軍の意向で、正式に海軍に投入されるまでテスト中であったこの二式練習飛行艇を我々専用の操縦訓練にテストを兼ねて飛行することになった。

 滑走台から自力で陸上と海上に出入りができ、効率よく便利であった。飛行艇の操縦感覚も十分体験できた。自動収納可能な水中舵と車輪を装備し、陸上ではタキシング/自走が許容されていた。水陸両用機が実用化する前の過渡的な機体であった。


 

越田 利成 ( こしだ としなり )
 元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

         
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