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飛行艇パイロットの回想 -横浜から南太平洋へ-
(18/最終回) 飛行艇からジャンボへの軌跡
  越田 利成
2011.05.31
   
   

 民間のパイロットに憧れた私は昭和14(1939)年に当時、民間航空の花形であった飛行艇乗員になり、九七式大艇を操縦して南海の空を駈け巡る幸運に恵まれた。陸上機と縁が切れて、初期練習機から水上機畑のみを辿る運命になった。一口で言えば船が空に飛び上がるのが飛行艇だ。

1.陸上機と飛行艇はどう違うのか?

 飛行艇と陸上機の最大の相違は水面を滑走するための艇体が存在していることだ。陸上機が車輪と脚を使って滑走するのに対し、飛行艇は艇体に耐波性があり、舟形となっている。胴体そのものが浮ぶ構造になって滑走するのが飛行艇である。

 飛行艇のメリットは滑走路で横風の影響などがほとんどないことである。常に風に正対して、滑走が可能というのは無限の長さの滑走路を持っていることになり、滑走距離を長くとれることは、それだけ機体の大型化が可能になる。それは洋上を飛行している場合の不時着水に有利であった。特に島国の日本では湾が多く、飛行艇には適していた。



2. 飛行艇は風の向きようで気が変る浮気者

 飛行艇の離水、着水は出来るだけ風に正対する。陸上機は滑走路の方向で多少横風でも、使用する滑走路が決まっているから進入方向は常に一定である。
ところが水上機では風に正対して離着水するので、毎回コースが変更される。


大日本航空横浜支所(根岸湾)周辺

 例えば、東風では杉田の方から降下し、南風の場合は岡村の上空をかすめるなどさまざまな進入で、停止地点は、滑走台の近くに定めて着水経路をその都度自由に選択して飛ぶ。まれに湾口から入る大波のうねりが風の方向と異なるので、大波を真横から受けながら、風に正対して着水をすることがある。

 また無風で水面が凪いでいる時は丁度鏡の上に着水するのと同じ様で、水面からの高度が判断できないため、ハードランデングの原因になる。勿論、電波高度計のない時代だから薄暮や夜間時の着水は、機首角度UP5°降下率3.5m/秒を維持してエンジンの推力を増減し、最終進入速度を保持した姿勢で何時着水してもよいような姿勢で進入を続ける。着水するとエンジンを絞り滑走する。

 陸上機では昼間と同じで、滑走路灯を目視して高さを判断して通常の着陸ですむ。戦後、ジャンボ機の操縦訓練をやったとき、着陸最終進入は概して飛行艇に近い姿勢だと思った。飛行艇の夜間着水の進入と似ており、昔の勘が戻ってきて、早く会得出来たのは、横浜で鍛えた飛行艇操作の賜物であった。


3. 九七式と二式大艇の違い

 昭和14年に大日本航空の南洋航路に使うために海軍の九七式大艇2機が輸送機型に改装されて海外空路開拓に投入された。インドネシアの東端のティモール島、その東半分を占める東ティモール共和国は当時ポルトガル領ティモールで西半分を領有するオランダと境界で争っていた。先ずその首都ディリに至る6,000kmに及ぶ空路を開設したが、日本としては空前の壮挙であった。その後大日本航空では同飛行艇を18機を就航させている。

 昭和18(1943)年の秋から後継の二式大艇が配備され、九七式大艇を見慣れたわれわれにはズングリ、ムックリした巨大な輸送艇で客席の胴体と翼の間隔がない肩翼式なので、エンジンのプロペラに波の飛沫が飛び込むのではないかと心配をした。

 空気抵抗を少なくする為に肩翼式を採用しているので、水面とプロペラとの間隔をある程度広くする為に艇体が高くなる。そうすると空気抵抗が大きくなり速度が落ちる。抵抗増加をおさえるためには艇体の幅を小さくしなければならなかった。

 プロペラと海水の飛沫の問題を解決するのが、艇底につけられた波押さえ装置である。これは縦方向につけられた堰(せき)のようなもので、前方と後方は低く、真ん中の部分を高くした形が似ているところから「かつおぶし」と呼んでいた。開発過程で艇底の形を何回も改修しながら「かつおぶし」で飛沫をおさえ、機首も水をかぶるのを防ぐ工夫がなされ、その為、鼻先が長く改良されたので、外観もスマートさを増した。

          
      艇底(かつおぶし)・ピトー管の横棒(かんざし)と呼ばれていた 

 飛行艇の胴体が陸上機と違うところは、陸上機は車輪のみが降着装置であるが飛行艇はその役目が胴体そのものであり、従って水面と接触する部分の形や水切り段差の位置と形が極めて重要となる。離水の際には水の抵抗が大きいと離水困難になり、波しぶきが多いとプロペラやフラップが破損することがある。



4. 二式大艇とポーポイジング

 離水直前や着水直後の速度が速いと水上滑走中に、飛行艇の機首角度と姿勢の不安定からポーポイジングを発生して、安全な離着水が出来なくなり機体を破壊する破目になる。まず飛行艇の特徴である欠点を九七式大艇は1年半もかかって完璧にまで艇底改修がなされたといえる。二式大艇の泣き所のポーポイジングについて説明を加えてみよう。

 既に述べたがポーポイズとは海豚(いるか)のことで、ポーポイジングは海豚が跳ね上がりながら泳ぐ様からきている。飛行艇が早い速度で水上を滑走中、即ち離水直前や着水直後に機首を持ち上げて跳ねるように飛び上がり、上がり切ったあたりから機首を下げて水面に落ちる様子が、海豚の泳ぐ姿に似ている。
  
         
                 二式大艇の離水
                     
 この運動を操縦桿で修正出来ればいいが、ほんの瞬時のことなので、この傾向を把握して初期段階で特殊な操縦操作をする以外、防止するのは不可能だった。酷くなると跳ね上がりの三回目位に機首から水面に突入し、機体と搭乗者諸共破壊され大事故となる。

 開発当初から模型で何回も実験したり実機でテストフライトを行ったが、その原因や理由が中々解明されず、従って改善方法もつかめなかった。結局、艇底の設計を順次変えていく方法で、九七式大艇の場合は実験に1年半もかかって、ようやく量産型の艇底に落ちついた程の困難な設計技術を要した。

 飛行艇や車輪の代りにフロート(浮き子)を装着する水上機の滑水面には、離水のときの水切りを良くするために切り欠き/段がある。水上機のフロートでは1段でよいが飛行艇では2段が多かった(最新の飛行艇US-2は1段)。機首の方から第一ステップ、続いて第二ステップと呼ぶ。両者の間隔の長短で離水時の性質が変わり、一般にロング・ステップの場合にはポーポイズが発生しやすいといわれている。

 二式大艇は実験の結果、第一ステップを後方へ30㎝ずらし、離着水時に機首角度を5°±1°を保てばポーポイズを防止出来る事が判った。そこで操縦席前方のピトー管用マストに、「かんざし」と俗称した横棒と水平線の間隔を操縦士の定められた目の高さから見て合致した位置を一定に保つと機首角度が+5°となるように操縦で調整が出来た。
 

5. 「かんざし」と機首角度の関係

 大日本航空は早速、飛行訓練に「かんざし」を使う要領を徹底させることで二式大艇のポーポイズ対策は一件落着となった。日本人が発見した「かんざし」の使用は飛行艇の搭載重量が増加でき、益々大型化するきっかけとなった。そして離着水時の危険性が激減し、訓練量も少なくなり、ポーポイズの初期に機首角度の修正を正確に操縦操作で保持ができ「かんざし」の功績は貴重なものである。然し飛行艇のポーポイズは100%防止出来るものではなく、諸条件によって発生し、海軍航空隊の二式大艇の事故は大半がポーポイズが原因であり、大日本航空横浜支所もボルネオのタラカンと、台湾の東港での着水時にポーポイズによって2機を失っていた。

        
             低空飛行でダバオに向かう二式大艇
       
 「ダバオ救出」で紹介した体験談を振りかえって見よう。制海権、制空権を完全に掌握され孤立状態になったダバオ海軍航空隊基地要員と大日航職員の救出は、数分を争う中での離水開始であった。マニラ・キャビテ海軍基地を出発時の予定より定員オーバーとなる43名の乗客を収容し、離水の中止とポーポイズは絶対許されない。

 「かんざし」を唯一の頼りに乗客5名の搭乗位置を前方に移し、重心位置が少し前にくるように「かんざし」で調整し離水した。すると案の定ポーポイズ初期症状である、機首が少しUPする。それを「かんざし」と水平線で判定し素早く操縦桿で機首を押さえ、直ぐ元にもどして+5°を保持出来たので、辛くも離水したのは大変際どい経験だった。「かんざし」が無かったらとても出来ない技だったと、今でも身震いがする恐ろしい思い出である。

 戦後、B-747ジャンボ機の訓練飛行では操縦士の目の高さを一定に設定し、水平線と機首角度を重視する超大型機の操縦操作を行った。二十数年前から既に日本では二式大艇で実施されていた事を思い出し、感動したのが「かんざし」の存在である。



6. 大日本航空横浜支所の誕生

 昭和12(1937)年、我が国は広大な南洋委任統治領を抱えていたが、群島間の移動には最も適した飛行艇空路を選定した。横浜航空隊/通称:浜空は日本で初めて編成された飛行艇専門の部隊で、その本部基地に横浜市富岡が選ばれた。
それには三つ理由があった。
 (1)波静かな根岸湾に面する。
 (2)横須賀に近い。
 (3)周囲が木立に覆われ航空隊の中が外部から見えない。これが航空隊基地   の第一条件であった。

 浜空が発足してから、間もなくの昭和13年、大日本航空海洋部が誕生した。当時、太平洋と大西洋の航空路は花盛りで、欧米各国は大型飛行艇を盛んに飛ばしていた。日本も遅ればせながら、前述のようにポルトガル領ティモールまでの海外航空路開拓を計画し、大日本航空の仮事務所が浜空の基地入口に設けられ、航空隊員の指導の下で飛行訓練が始まった。

 当時、飛行艇の通信士をされていた桑原通信士長が次のように回想している。
「飛行艇の航法はまだ幼稚な時代で、ジャイロコンパス(回転自立で一定の方向を指示する)と、羅針盤が頼りの推測航法と、天測航法(太陽や月、特定の星を観測して現在位置を求める航海術)で飛ぶが、最終的には途中の島を目視で確認しながら洋上飛行を続けた。目的地に向かう乗員の目だけが頼りだった。」勿論、乗員には経験と技量が必要であった。


7.九七式と二式大艇の安定度

 九七式大艇は総てが安定性に富んだ飛行艇だった。特に離着水では最高のバランスが取れた安定した操縦が出来、それまでの九一式飛行艇などは問題ではなかった。九七式大艇から二式大艇に移った時は、大きさと操縦のテクニックが大きく変っていて非常に緊張し、二式大艇は一瞬を争う操作が多かった。

 二式大艇はポーポイズが起りやすいので、重心位置には一段と注意をはらった。乗客と貨物の位置は慎重に検討されたが、九七式大艇は殆ど自由であった。しかし上空では二式大艇に格段の性能差があり操縦性も優れていた。

 戦後、DC-8ジェット機からB-747ジャンボ機に移行した際に私は大きな違和感がなく、規定の量で順調に訓練を終わった感じだった。ジャンボ機はかえって二式大艇に似ているなぁと、思う事が多かった。

 飛行艇から始まった私の乗員生活は、大型機で太平洋の孤島へのフライトが多く、その天然の美しさに、いつも接していた。これは一生忘れられない幸せに満ちていた人生だった。 


8.B-727の思い出

 昭和40(1965)年日航は国内線専用機にボーイングB-727を投入する準備として、既にジェット機ダグラスDC-8の資格を有し、国際線に従事していた乗員の中から査察乗員と教官要員を選抜して、機長、機関士数名をボーイング社の訓練コースに先発させた。私もその一員で、シアトルのボーイング社に出向いたが、全日空では既にB-727を導入していて次々と乗員の訓練を続けていた。

 グランドスクール/地上での講義が始まった。訓練開始に当たって訓示があり驚いた。我々はボーイングと聞いただけで戦中の爆撃機B-29を連想するが、やはり空軍仕様の軍隊式精神が残っていた。

 民間用の機体が主体のメーカーであるダグラス社の、民間的効率の良い米国式スマートな教育体制に日航の乗員達は馴れていた。ボーイング社の教室でなんでも質問しろと言われて、多少ジェット機の知識があった乗員達はDC-8ではこうだったと直ぐ能書きを言うと「this is ボーイング」と怒鳴られて大不満と戸惑いを感じた。

 真っ先にお節介気味に感じたのだが「全日空の乗員達は通訳を兼ねたヘルパーを雇いグランドスクールに入ったが、諸君達もヘルパーを手配するか」と聞かれ「そんな者は要らない。ダグラスでは我々だけで十分に学んだ」と断った。それが小生意気な日本人メという印象を与えてしまったようだった。

 しかも標準のB-727を購入するのでなく、あれこれとオプションで国内線専用として、簡素化して安く購入契約をしたのでボーイングは日航に対しては歓迎ムードではなかった。APU(自動発電、高圧空気を送る装置)、センタータンク、国際線用通信アンテナ、などを取り外した。

 自動車も同じであるが飛行機は標準型/スタンダードでメーカが保証する性能は100%が発揮される。最初はスタンダードを購入し、運航してみて不要であれば改修しても遅くない。整備側の技術的経費節減と運航側の飛ぶ者との考え方が相反する事がままある。

 訓練も無事終了しB-727の1番機は日本へ空輸されるが、同機は国内線専用だから、国際線の通信用アンテナが無い。航法で使用するロランについては簡易のアンテナを臨時に装着した。

 また大量に燃料を保有できる胴体タンク/センタータンクも無いので、ハワイからウエーキ島へ飛行する際、異常気象等で代替空港へ行くだけの燃料が不足する。そこで規定の2時間分の残量を捻出するため、飛行航路上平均40ノット以上の向かい風の日は残念ながら出発を見送り、西風が弱くなった翌日まで待たなければならなかった。


        
                JAL発注1番機のB-727


 ボーイングが誇るAPUも外されたが、そこで思い出すのが、「よど」号ハイジャック事件だ。APUはエンジンが始動しているときと同じ状態で、地上からわざわざグランドパワー(電源)や高圧空気を取り入れなくても、エンジンの始動や冷暖房が自力で自由に出来る便利な装置である。

 そのAPUがないので、「よど」号ハイジャック事件の最終場面、日本へ同機が帰還する際に北朝鮮の整備員は手造りした高圧空気を送るパイプを使用してエンジンスタートに成功した。これには「よど」号の石田機長は感心したと聞かされた。

 北朝鮮の技術者の中には、初めて見る機体でも簡単に性能を理解して整備も行う高レベルの者がいたのである。まだまだ彼等の技術レベルは幼稚だろうと考えていたことを反省し、将来は何処まで進むのか怖いような感じすらしたと同機長は語っていた。

 実は「よど」号事件が日本では初めてのハイジャックで、私はB-727の運航責任者の一人だったので、石田機長の身代わり要員として、ソウルまで飛び、毎日スタンバイしていた。

 管制塔から日航の松尾社長と運航本部長が犯人との交渉に当たり、「よど」号の乗員は休息も無く安全上の限界を過ぎているので、どうしても機長の交代は必要と攻め立てた。機長交代の条件で、交代する機長は真裸にしてなにも持たせないと、真剣に交渉するのが日航のディスパッチ・ルーム(乗員控え室)のスピーカから聞こえていた。

 同じ交代要員の益子機長と二人で、小さな声で囁いた。
 「これだけはご免だなぁ。」
テレビに自分のストリップがクローズアップされ、しかもグリコの看板のように両手を揚げて、犯人達に全裸を見せながら歩いて搭乗する哀れな姿を想像したのである。
 「孫子の代まで祟(たた)るぞ」と困惑していたら交渉決裂、突然「よど」号はエンジンを始動し、東に向かって離陸した。

        
               離陸するB-727

 石田機長の話では、東側から左旋回してピョンヤンに向かった頃にはすっかり暗い夜空が迫り、ピョンヤン市街に入った瞬間、あらゆる電灯が一斉に消され、飛行場らしき滑走路灯だけが点いているので不思議に思った。一周しながら飛行場を確認して着陸したが、滑走路はでこぼこで舗装は悪かった。後で判ったが軍用の飛行場に誘導され、着陸後の検査や調査ができるように準備をして待ち構えていたと言う。

 話をもどそう。いよいよB-727の1番機を東京へ空輸する段階になると、ボーイング社の技術者が一人同乗して飛行に必要なアドバイスをするのが、全日空はじめ東南アジア方面の航空会社が1番機空輸の仕来りだと申し入れがあった。  

 我々は、DC-8で既に太平洋の路線資格もあり、サンフランシスコ、ハワイ、ウエーキ経由東京へ、DC-8の定期便が雁行して通信を中継し、上空の気象状況をキャッチしながら飛行するのでヘルプは要らないと、これもはっきり断った。

 DC-8定期便はハワイから羽田へ直行だが、ややウエーキ島寄りの航路で飛行してもらい、無線の中継と上空の気象情報を受けながら飛行した。それを参考に偏流、実速を推測航法で使用したオタマジャクシと呼んでいた測定定規を使用し、レーダーとウエーキ島のDME(自動方向指示と距離の指示計器)が受信可能になったところで、DC-8に通報して別かれ、定期便は羽田へ、1番機は同島に向かった。


         
               空の貴婦人と呼ばれたDC-8型と雁行

 DMEは150マイル(240㎞)位の距離に入ると正確に働きだし、1番機は無事にウエーキ島へ着陸して、ルーティング整備(通常運航前の整備)と給油のため1泊した。翌日は、DC-8の定期便がハワイを出発した時点から計算して離陸、空中で会合し雁行して羽田に向かった。

 このような体制でボーイングから引き渡された日航のB-727は順次にシアトルからフェリーフライト(旅客なしの飛行)され、支障なく全機収納された。その上、ウエーキ経由の最後のB-727の機長をも担当したが、昭和17(1942)年に飛行艇でウエーキ島に一番乗りをしたことが回想され、同島へ飛んだ日本機の最初と最後のチャンスに恵まれた幸運に感無量だった。
  
 推測航法から始まった飛行艇時代から戦後のプロペラ機を経てジェット機へ私は移行してきた。文明の利器と人間の勘とを上手くマッチして、安全を保ちつつ進歩して行く航空技術だが、基礎が出来て無くては、飛行性能を発揮する事はできないだろうと、その間に体感した。「お釜でご飯を炊けるようになって、電気釜を使う」の例えから、経験があれば常に応用操作が安心してできる。万一、非常事態が起きても十分対処できる心構えが必要であろう。



9.これからの飛行艇

 戦後、飛行艇が急速に姿を消した理由は、陸上機の高性能化と信頼性の向上である。飛行艇のメリットは洋上に不時着した場合に、構造的にも救助される可能性が高い点であったが、航空機の信頼性向上でメリットが消え去った。
 又、ジェット化により高速時代に入ると、空気抵抗の大きい飛行艇の胴体形状はあまりにも不利である。

 それでもジェット機時代を迎え、新しくマーチンPM-6のようなジェット飛行艇が作られたが、海水の飛沫が飛び込み海水によってエンジン寿命が大幅に短くなる現象などがあだになり、わずか10機で生産が停止された。

 こうして飛行艇時代は終わったかにみえたが、戦後日本は対潜哨戒の飛行艇PS-1を開発した。独自の波消し装置により、海面の波高が3mでも離着水が可能になり、日本海の荒天でも運用が可能になった。これは洋上救難に最適であり、更に救難を目的に発展させた飛行艇US-2がUS-1を経て開発された。


    
          US-2救難飛行艇/海自ホームページより

 US-2とUS-1は降着装置をつけて陸上飛行場に短距離離着陸/STOL性能を実現した水陸両用型の救難飛行艇で、離島からの病人の緊急輸送、遭難漁船員等の救出などに多くの人命を救って活躍している。

 US-2は現時点では世界最高の飛行艇であろう。九七式、二式、US-1、US-2と続いた飛行艇の系譜は、飛行艇メーカーである川西から新明和へと継がれた技術に支えられている。その技術は今後も生き続けて、夢とロマンに満ちた飛行艇の歴史を継ぎ、海上救難を使命に国内外に対して日本がこの分野でトップランナーでこれからも活動を続けられるように国を挙げて応援し、飛行艇の歴史を大切に維持していきたい一念である。



            
           昭和57(1982)年10月ラスト・フライトはジャンボ機で

  長い間ご愛読ありがとうございました。

 

越田 利成 (こしだ としなり)
 元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

         
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