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歴史に見る模型飛行機の顔さまざま
(13) 技術進歩と公害(1935年頃~)
 
大村 和敏
2011.08.15
   
   
   
ヘリコプター競技の騒音測定
エンジン付き模型航空競技の騒音は規定により音量を制限されている。
競技に先立ち、測定が行われる。
(上:競技場全景。左端に測定機器、下:測定機器詳細:マイクと騒音計)

   

1、はじめに

 何にでも善悪の両面があります。模型飛行機の飛行は3次元空間を運動するダイナミックな活動ですから、それだけの自由度を楽しむ代償として危険性を持ち、事故を起こして第三者に損害を与えることが有り得ます
 扱う対象が、大きく、速く、強力ならば、それだけ迫力があり、より面白く感じますが、危険性も大きくなります。進歩の筋書きとしては、「大きく、速く、強く」ということの追求が常道ですから、ひとたび制御を失えば事故や被害は拡大し、その件数が多ければ「公害」とさえ言われるのです。

技術が急速に進歩して、量的にも急速に拡大したとき、それを制御する方法が追いつかないので暴走することがあります。模型飛行機も例外ではなく、そのような苦い経験が過去に何回かありました。

 最初の例は、エンジン機の普及によるものでした。1930年代に小型のガソリンエンジンが急速に進歩して、一般モデラーが扱えるようになったからです。
 「国際競技種目(第4回)」で記したように、1928年に制定されたウエークフィールド杯競技規定では、仕様制限が無いに等しいエンジン機の出場を容認しましたが、それでもゴム動力機より飛ばなくて自然消滅に至っています。この時代の「小型」エンジンは30ccくらいでしたが、大きくて扱いにくく、限られた熟練研究家による「記録飛行」しか行なわれていません。

 その環境が続く中で、アメリカの「ブラウン・ジュニア」をはじめとする10 cc以下(.60立方インチ以下)のガソリンエンジンが開発されました。新開発の小型エンジンは経験の浅いモデラーでも使いこなすことが出来て、多数のエンジン機を飛行させることが可能になり、安全管理面が後手になりました。
 経験の浅い多数のモデラーがエンジンを回し、それを搭載した模型飛行機を飛ばした結果、騒音問題や墜落事故が多発したといいます。この時期には、アメリカ政府が本気になって、エンジン付模型飛行機の飛行を法律で禁止しようと考えたようです。
 幸いにして当時の指導的な立場の先人の努力と、「技術進歩の芽を摘むべきではない」という正論のおかげで、エンジン機は禁止を免れ、自主規制の下に現在の盛況に至っています。

 同じような状況が、コントロールライン(Uコン)やラジオコントロールの初期にも生じています。安全に飛行させるためのシステムやノーハウが無い状態で、新しいハードウエアだけが先行し、経験の浅い層まで拡散したためです。
 このような状況が起こると、一時的には一般の人々に対して迷惑や損害を与える結果となります。そして、模型飛行機全般に逆風が吹き、問題機種と関係のない安全な分野まで活動しにくくなりました。


2、草創期のエンジン機

 エンジン機の元祖は第1回で取り上げたストリングフェローの蒸気エンジン機(1848)で、単葉・双プロペラ・スパン3 m・重量4 kgという仕様です。この機体は、スパンと同じくらいの距離しか飛ばず、飛行時間も1秒以下でした。飛ばした場所も工場の建屋内ですから、安全面は全く問題がありません。
 その後、記録に残っているエンジン機の自由飛行はスタンガー(1914),ボーデン(1932)だけです。この間20年近く滞空時間の記録更新はありません。つまり、第1次大戦の空白期間(1914-8)があったとしても、長期間にわたってエンジン機の目立った活動の記録が無いわけです。この当時のエンジン機の飛行は、一般の模型ファンが簡単に繰り返すことができる活動では無かったのです。

 たとえば、スタンガー機(1914)は、
  エンテ式の複葉機
  スパン 約2.1 m
  全長 約1.3 m
  重量 約5 kg
  エンジン V型2気筒 約1.2 kg
  プロペラ直径 約560 ㎜

 ボーデン機(1932年、28 ccエンジン)は
  「ゴム紐で組み立てられ、自動車で運べるようになった。」
と特記されたように、以前の機体は実機並みに格納庫に置かなければならない構造、大きさの代物であったようです。この時代のエンジン付き模型飛行機は、競技を楽しむ対象ではなく、大がかりな実験・研究の用具であったといえるでしょう。

 ちなみに、1928年に制定されたウエークフィールド杯競技規定(第4回参照)では、全重量上限が約5 kgという仕様がほとんど無制限なエンジン機の参加を許していますが、当時のゴム動力機に歯が立たず、1934年の規定改正によって競技から除外されています。当競技の優勝記録(ゴム動力)は1930年が155秒、1934年が164秒でしたから、当時の巨大なエンジン機の滞空性能はエンジンを終始回し続けてもそれ以下であったわけです。
 後世のエンジン機の滞空競技では、エンジンの強力な出力による急上昇の高度獲得を制限する目的で、エンジンの運転時間を短時間に限定しています。1930年代では30秒以下であった制限が、20秒、15秒、10秒と切り下げられ、現在では5秒で余裕を持って3分間の滞空が出来るようになりました。これを見ても当時のエンジンが非力で不安定であったことが解ります。
 繰り返しますが、1932年のボーデン機の世界記録でも71秒だったのです。


ブラウン・ジュニア・エンジンを搭載した模型飛行機
翼巾2 m、重量2~3 kgと思われる。スパーク・イグニッションのため、点火用の電池を搭載している。もちろん、フリーフライト式。

3、アメリカ1930年代のエンジン機の普及

 1934年にアメリカのジュニア・モーターズ・コーポレーションのウイリアム・ブラウンが、排気量9ccの「ブラウン・ジュニア」を発売し、大成功しました。スタンガーやボーデンのエンジンに比べると、排気量も1/3くらいで、軽く、扱いやすく、搭載する機体の大きさも手ごろになったからです。誰でもエンジン機を長時間飛ばせるようになりました。
 エンジンの出力は0.1~0.2馬力で、ゴム動力の10倍以上です。機体は大型で、飛行範囲は広くなり、墜落の衝撃も大きくなりました。
 
 1936年にはマクスエル・バセット(米)は、ブラウン・ジュニア・エンジンをつけたスパン8フィート(2.4 m)の機体に500 ccのガソリンを積み、ニュージャージーのカムデン空港からデルウェアのミッドタウンまで、滞空時間2時間半、距離70マイル、高度8000フィートの飛行を行っています。
 同年に、ネイザン・ポルクがエンジン機の競技会を開催しています。つまり、一定以上の飛行が出来るモデラーが、競い合うくらいの数だけ居たわけです。
 また、チャールズ H.グラント(モデル・エアプレーン・ニュースの編集長)がインターナショナル・ガスモデル・アソシエーションを結成し、同誌のコラム「ガス・ライン」を通じてエンジン機の普及に努めました。1937年には会員数が3000名に達し、フィラデルフィア、ボストン、南カリフォルニア、イリノイのロックフォートなどに支部も出来ました。
 
 ブラウン・ジュニア・エンジンの成功を追って、ベビー・サイクロン(排気量6 ㏄)、エルフ(排気量2.3 ㏄:カナダ製)なども発売され、多数が売れました。


4、多数のエンジン付模型飛行機が社会に与えた迷惑行為(アメリカ)

 小型エンジンの急速な普及に伴って、エンジン付模型機を飛ばすモデラー人口は大幅に増加しました。公園・庭園・校庭など、あらゆる広場で、数千人のエンジン機参入者が、所嫌わずエンジンを回したといわれます。高速回転するエンジン音が一般住民の顰蹙を買ったのは当然です。さらに、エンジンを搭載した機体は、2mを越す大型のフリーフライト機で、予期しない場所に着陸・墜落し、運が悪ければ損害を与えます。
 この事態は公害問題とさえ言われ、当局(商務省)による禁止が検討されるまでになります。現実に、コネチカット州、マサチューセッツ州では、エンジン付模型飛行機は実機の飛行や一般家庭に有害であるということで、非合法化されてしまいました。

 エンジン機問題は、アメリカの模型航空界の主導権争いとも絡まり、マスコミや官界を巻き込んだ全国的な騒ぎに発展したようです。
 当時のアメリカでは、ハースト新聞社がスポンサーになった「ジュニア・バードメン・オブ・アメリカ」が支配的な模型飛行機の全国組織でした。1937年には会員数46万7852人で、新聞社の組織力を使って全国競技会・地方競技会が開催され、豊富な賞品が提供されていました。但し、この組織はエンジン機に対して保守的であり、技術進歩に逆らってゴム動力への回帰を露骨に主張したといわれます。

 これに対立したのが、エンジン機容認派で新たに組織された、チャールズ H.グラントの所属するアカデミー・オブ・モデル・エアロノーチックス(AMA:現在の統括団体)でした。AMAはNAA(アメリカ航空協会)の協力を得た官界活動によって商務省を翻意させ、エンジン付模型飛行機の存続が決まりました。各種エンジン機が戦後に急速に発展した条件が整ったといえます。
 エンジン機が社会に容認された理由は
  「技術革新の芽を摘んではいけない」
という正論と、模型飛行機の団体とモデラー自身のさまざまな自主規制にありました。
 このときの具体的な安全確保策は不詳ですが、後述する現在のAMAの安全対策は模範的であり、万が一の事故に対応する損害保険制度は戦前から導入されていました。


5、現在のAMAの安全対策

 前項の苦い経験によって、現在のAMAは厳格な安全対策や騒音対策を採っています。
 AMAは、「AMAカブ」という名前のバルサ製の簡単なライトプレーン型ゴム動力機の製作・飛行講習会を開き、新入会員の募集を行なっています。そのときに配布・使用されるAMAカブの材料キットの中には、工作図と工作・飛行の手順説明書が含まれて居ますが、同じ紙にAMAの入会申込書と損害保険契約書が付属しています。
 ちなみに、AMAの会費の中には団体損害保険料が含まれています。日本模型航空連盟(JMA)も戦後にこの保険システムを導入して、会員の模型機による事故は損害保険でカバーされます。
 
 AMAの入会希望者は、上記の書式を記入し、署名することによって会員になるわけですが、同じ紙に印刷されている飛行の手順説明には基本的な安全対策が、「私は・・・・のような危険な飛行は行なわない」という一人称の誓約形で何箇条か記載されています。
 これに違反すると保険金の支払い拒否が行なわれるかどうか、法律的にはわかりませんが、署名した入会者が精神的に束縛されることは確かです。
 
 競技規則にも、各級の機体の仕様や採点法に加えて、飛行中の破損による事故を防ぐための強度や構造の規定が、相当量含まれて居ます。だから、競技参加に当たって安全確保を目的とした機体検査が行なわれ、それに合格しなければ競技に出場できない仕組みになっています。
 さらに、飛行操作における危険行為に付いては、競技の失格から永久追放に至る厳しい罰則があります。
 
 他方、公式競技種目以外の機種では、競技規定による制限の範囲外ですから、上記の安全対策に包含されず、個別に対処されているようです。
 たとえば、出力が数10馬力に相当する推力のジェットエンジンが市販されていて、それを搭載した「模型飛行機」も飛んでいるわけです。ハードウエア的にはかなり危険な状況ですが、厳しい規制と関係者の知識や常識によって、幸いなことに事故の情報はありません。
 ジェット模型飛行機は、厳しく難しい水準の認証を受けたパイロットと整備調整担当が、ごく少数の空軍基地でのみ飛行が許されています。つまり熟練したモデラーだけによって、一般人が近寄れない飛行場所でだけ、飛行させられる仕組みです。
 
 


 模型飛行機用エンジン各種
上段:むかしのスパーク・イグニッション・エンジン
中断:現在のグロー式エンジン(大型)
下段:現在のグロー式とディーゼル式エンジン(小型)

 ブラウン・ジュニア エンジン
(1938頃、スパーク・イグニッションのガソリンエンジン)


6、日本のエンジン機事情

 1930年代末の日本は、エンジン付模型機の飛行という点では、アメリカなどに追随していました。米・独などの模型エンジンは輸入されていました。現在のOSを初めとした国産メーカーも数社ありました。
 但し、当時の購買力を家電品や自家用自動車の普及状況から考えると、数量的にはアメリカよりも何桁か少なかったと思います。エンジン機の飛行が、少数のエリートモデラーによるものであり、このような人たちは知識と節度を備えていたでしょうから、アメリカのように模型飛行機公害を起こす状況には無かったと思います。
 
 第2次世界大戦よる模型航空休止期間中に、コントロールライン機(Uコン:後述)、グロープラグ、ディーゼルエンジンの発明・実用化が進み、戦後の模型航空界復興の大きな支えになりました。RC(ラジコン)は戦前に実用化され、アメリカでは全国大会の競技種目に含まれています。模型飛行機を操縦が出来るということは一つの革命でした。
 
 グロープラグ、ディーゼルは、従来のスパーク点火式ガソリンエンジン(自動車、オートバイと同じ形式)のように、電池と点火装置を機体に積む必要がなかったので、機体の軽量化と取り扱いが容易になり、出力も向上しました。
 戦前の「ブラウン・ジュニア」時代は、10 ccエンジンで1/5馬力くらいと言われていますから、排気量1リットル当たりの出力は20馬力程度です。
 戦後初期、1950年ころのグローの29エンジン(5 cc)の出力は0.4馬力位、国際級用の15エンジン(2.5 cc)も0.2馬力強で、排気量1リットル当たりの出力は80馬力位でした。


コントロール・ライン(Uコンなど)の操縦系統のプルテスト
競技に先立ち、通常かかる遠心力の2倍以上の力で引っ張りテストを行う。
種目によって異なるが、機体重量の20倍くらいの力をバネ秤で加える。
(上:スピード機の操縦ハンドル側、下:スタント機の機体側)


7、日本に強力化されたUコンがはいってきた
 
 操縦型の模型飛行機は第2次世界大戦の前にアメリカで発明され、戦中も熟成・強力化されていました。戦後の日本には発達したレベルで入ってきて急速に拡散しましたから、初心者が進化した強力版の設計の機体を飛ばすことになったわけです。優秀なモデラーはそれを消化して早く上達しますが、一般レベルでは安全面に不足があったと思われます。
 コントロールライン機は、操縦用の鋼索につながれて円周飛行を行ないます。速度が大きくなると強い遠心力がかかり、索や、索と機体の継ぎ目が破断して、機体が飛び去る可能性があります。これを予防するために、予想される最大遠心力(飛行速度)の何倍もの張力テストを行い、パスしないと競技に出られない規定にしてあります。
 
 敗戦後、一時的に航空活動を禁止され、模型飛行機もその余波で飛ばせなかった期間が3年くらいありました。それが解禁され、新登場のUコン機などの飛行が再開された場所は、実に皇居前広場でした。爆音は銀座でも聞こえたと言われます。
 さすがに、この場所は短期間で使われなくなりましたが、その次のモデラーたちの集合所は現在の駒沢オリンピック公園でした。戦中はイモ畑で食料増産に貢献していましたが、1950年代になると後の東京オリンピック(1964)を目指して整備が始まっていました。モデラーが使った場所は、駒沢通りの都心に向かって右側の部分で、現在の屋内球技場あたりにUコンのサークルがありました。
 フリーフライト機も多数集まり、現在のF1C級に相当する国際級の大型エンジン機も飛ばしていました。当時の飛行場所を地図で確認すると300 m四方くらいで、現在、小型ゴム動力機に使われている武蔵野中央公園と大差ありません。駒沢には子供連れの公園客こそいませんでしたが、外側は住宅地で、今考えれば潜在的な危険性はかなりありました。
 同時期のUコン飛行場としては、校庭が多く使用され、細切れに完成して自動車が通れなかった、後の環状7号線も飛ばせたと言います。
 いずれにしても住宅などに隣接していますから、今日的に考えると騒音問題があり、操縦索が切れれば事故になっただろうと思います。
 
 1950年代中ごろ、模型小売商組合主催のUコン競技会の機体検査でJMA派遣の役員が厳密な張力テスト行なったところ、破断して飛ばせなくなった不合格機がかなり出ました。機体を壊された選手はまことにお気の毒ではありましたが、以降は機体の強度への関心が高まり、一罰百戒の効果があったようです。
 索切れのほかにも競技飛行中に起こった事故に対する罰則は重く、失格・出場停止など厳しく規定されています。選手が自主的に丈夫で安全な模型機を作らないと、競技成績の上でも不利になるようなシステムなのです。
 
 半世紀以上前のことなので詳細は不詳ですが、人身事故があったことは確かで、前述のJMA役員による指導的な引っ張りテストの実施も、その事例に対処したものと思われます。
 Uコンの本家のアメリカでも、苦い経験はいくつかあったようで、最近の資料によると本稿末尾の<参考>に列挙したような、具体的な防止策の地道な積み上げが行われています。
 幸いなことに半世紀の経済成長の結果、日本も豊かになり、Uコン少年たちも大人になりました。飛行場のコストを負担できるようになったため、遠隔地の河川敷などに自前の飛行サークルを確保して、自動車で飛ばしにいけるようにはなりました。
 飛行場を隔離した結果、モデラー以外の一般の人たちに対する加害の心配はなくなりましたが、副作用として活動状況が一般に見られなくなり、新規参入者を誘導することができなくなりました。理想的には、騒音や危険などを排除しながら、一般の人たちの目の前で飛ばせる環境が望ましいのです。
 
 
8、RC機の高性能化と急速な普及
 
 1960年代にRC種目がFAIに採用されて世界選手権が行なわれ、以降RC機は急速に高性能化し、普及しました。
 重い真空管がトランジスタに代替され、電子装置が軽量・確実化したことも大きな理由でしたが、エンジンの出力向上や、機体設計の進化など、総合的な飛躍があったといえます。機体の外形も高翼が低翼に移行し、安定の良い軽飛行機的な形が運動性の良い戦闘機・曲技機的なものになりました。運動性・曲技能力を追求したために、安定性は低下しました。
 RC機は、Uコンに比べると飛行範囲が広く、操縦システムは不確実です。従って潜在的な危険性は、より高かったと考えられます。
 高性能化と、普及・モデラー人口増加が並行したならば、墜落事故は増えて当然です。飛行場外に墜落するケースも増えますから、第三者に対する加害事故も生じます。加えて、高度成長で空き地が住宅化した時代ですから、飛行場周辺に事故の相手が増えます。
 このようなさまざまな要因が集中し、重大事故も発生したので、模型飛行機が社会的に悪役にされかねない時期がありました。その余波かもしれませんが、後年にレーガン大統領が来日したとき、模型飛行機によるテロ攻撃まで想定していたようで、筆者の模型機飛行の活動状態の調査に警官が来訪したこともありました。
 1960年前後の模型飛行機への逆風は、後年から見れば理由や筋書きがわかりますが、当時の関係者にとっては進行中だけにそれが見えにくく、対処に大変苦労されたと思います。
 
 RC模型飛行機が事故を多発して、社会的に悪役にされてしまうと、関係先に異なった影響を与え、その受け取り方も様ざまです。
 模型飛行機の統括団体である日本模型航空連盟(JMA)では、模型飛行機全般に対する逆風・偏見になります。世間一般は模型飛行機の中の分類まで関知しませんから、1 gの機体が歩く速度で飛行する室内機まで危険視してしまいます。
 RC通信機・関連機器や模型エンジンの業界も、逆風・偏見に曝され、業績に影響が出ます。但し、これらの業界が影響される範囲は、模型「飛行機」という括りではなく、「RC並びにエンジンを装備した模型」という括りになり、自動車やモーターボートも含みます。
 
 現在時点から後世の目で当時を振り返ると、先人はそれぞれの団体が立場や対象に応じて対処・規制を行って世間の逆風に立ち向かい、結果として全FAI種目を自由に飛ばせる現在に至ったと言えそうです。モデラー自身も、飛ばしに行くために長距離ドライブを強いられ、飛行空間を確保するために地権者に対して相応の代償を支払うなど、応分の負担を行なわざるを得ない状況になりました。


9、模型航空界の自浄活動
 
 従来、模型飛行機を飛ばすという活動は、飛行空間の使用コストはゼロであるという「隙間活動」でした。観光では「景色と空気はタダである」と言いますが、これは物理的に占有しない場合であって、模型飛行機にまで拡大は出来ないようです。
 成熟したホビー/スポーツ活動としての模型航空としては、正当・応分の空間使用コストを含んだ活動として参入者が受容し、それを公平に負担するシステムが働くことを前提として、誰でも自由に行える環境を模索すべきと考えます。
 
 幸いにして、先人は多少の不便と引き換えに世間に対処する知恵を出し、模型界に自浄作用を機能させました。しかしながら人口集中によって飛ばす場所が減り、一般人の権利意識の向上などにより、「迷惑を与えずに飛ばす」条件は年々厳しくなっています。
 
 過去のトラブル例を参考に、周囲に対する悪影響や損害を事前に予測して、風評被害も受けないように対策することがベストなのです。
 戦前のアメリカに起こった、エンジン機草創期のトラブルを知っていれば、戦後日本のUコンやRC機の問題を予防し、あるいはスマートに処理できたかも知れません。
 但し、社会一般の例を見て先手の対策は容易ではないようで、事後に安全管理の啓蒙組織を立ち上げ、競技規則などにも必要な安全規定を織り込むなど、後知恵になることが多いのです。まして当時は日米間が険悪になりつつあった時期で、情報が入りにくく、冷静に判断できにくかった事情もあったと思います。
 
 受身の対策として、損害保険制度の拡充も行なわれました。AMA(アメリカ模型飛行機協会)、JMA(日本模型航空連盟)に入会すると、自動的に模型飛行機の飛行の損害保険に加入になり、会費には保険料が含まれているシステムがとられています。また、多くの競技会で上記あるいは個人単位の損害保険に入っていることを参加条件としています。
 楽しくすばらしい模型飛行機を将来も続けるためには、周辺社会とうまく折り合っていくことが必要で、知恵を出し続け、そのためのコストを払い続けることが必要なのです。


<参考1>
アメリカの安全対策(コントロール・ライン)

1、円周を飛び出させない
中心の操縦位置の小円と飛行円周を地面に白線などで明示。パイロットがその中に居て、誰かが飛行円周に入らない限り、機体が人にぶつかることは無い。
安全バンドでパイロットの手首と操縦ハンドルを結ぶ。ハンドルを離しても、機体が飛行サークルを飛びさない。
2、操縦システム破断防止対策
  操縦ライン、操縦ハンドル、機体側の操縦システムは、飛行の前に「引っ張りテスト」を行う。機体重量2 kgのスタント機ならば、その10倍(10 G)の20 kgの張力。張力は通常5 kgくらいであるので、2本の操縦ラインの1本が切れても、2倍の余裕がある。加える荷重は当該種目の飛行速度に応じて計算した通常の遠心力を基準として、その4倍程度の余裕を見込んでいる。
3、操縦システム破断時の安全対策
  コンバット競技では、操縦ラインが切れた場合にエンジンが停止する装置の取り付けを義務付けている。遠心力がかかっているときだけ、燃料が流れる仕組みで、操縦ラインが切れるとエンジンは停止する。 さらに、エンジンとベルクランクをケーブルで結んでおくことを義務付けている。これは空中衝突の結果、機体からエンジンだけが外れて観客のほうに飛んでくることを防ぐ。
4、電線接触による感電事故防止
  コントロールライン機や操縦ラインが電線に触れるか、高圧線に接近した場合、生命に関わる事故となる。。。電線の下の飛行は、絶対に避けなければならない。
5、助手を使うこと。無人発進装置を使った単独飛行は避ける
  機体を地面に固定しておく「無人発進装置」は、故障や事故などで、パイロットがハンドルを手にする前に機体を発進させてしまう危険性を持ち、パイロットに怪我をさせることもありうる。この場合、ほかに人が居ないから対処することができない。



<参考2>
日本模型航空連盟からのお願い
 近年模型航空機の大型化に伴い、実機飛行場及び飛行航路などの航空法上、明らかに飛行が規制されている場所での、実機航空機との接触、ニアミスが増大しております。
 模型航空機を実機空港の滑走路延長上の地域で飛行させる場合でも、一定の高度制限を超える飛行は、事前に国土交通省への通達や許可を得る必要が発生いたします。実物航空機の飛行に影響を及ぼす恐れのある場所では、その飛行にあたって事前に最寄の空港事務所等に確認を必ずお願いします。
 また、エンジン付きパラグライダーなどのスカイ・スポーツを目的とした航空機と模型航空機と実物航空機の飛行空域は比較的隣接する場合が多く、これらスカイ・スポーツ専用飛行場付近での飛行に当たっても、十分な注意と確認が必要です。模型航空機の飛行中、付近に実機航空機が飛行している地域では、模型航空機は航空法上の飛行規制の対象になる場合が多く、安全に十分注意して頂くようお願いします。

模型飛行機の安全に関する詳細につきましては「日本科学模型安全委員会」のホームページ等をご参照ください。


<参考3>財団法人日本ラジコン電波安全協会」のホームページ
当協会は、日本エンジン模型工業会、日本科学模型安全委員会など関係団体が集まり、1975年に設立。当ホームページの「安全運用」ページに電波混信対策、飛行運用の注意点など詳細に記載されている。

 

   

大村 和敏 (おおむら かずとし)
日本模型航空連盟

編集人より
大村和敏氏は元模型航空競技・ウェークフィールド級日本選手権者であり、模型航空専門誌にも寄稿されています。

 
   
         
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