一般財団法人 日本航空協会

   


   
孤高の翼、火星の空へ。*

宇宙航空研究開発機構
跡部 隆

*本記事は『航空と文化』(No.104) 2012年新春号からの転載です。
2012. 11. 15
   
   
1.謎に満ちた火星

 夏日星と呼ばれ、古くより日本人から慕われてきた火星(図1)。妖しく赤く光るこの星は、日本人だけではなく世界中の多くの人々を魅了してきました。私たち地球人は畏怖とともに様々な想いを抱きつつ、漆黒の夜空に浮かぶ赤い星を見つめ続けてきました。
 
   
   
図1 火星(©NASA)
   
   
 一方少し前のSFに登場する宇宙人といえば、多くの場合火星を舞台としたものでした。火星は宇宙人の存在を期待させる、魅惑的な星でもありました。そして18世紀以降の科学的観測は、これらの期待をより強力なものにしました。例えば火星の表面に見えた無数の幾何学的な「直線」。その長さからいって自然に発生した構造とは考えづらく、人工的な「運河」であるとする推察もありました。これらの観測により、火星人への期待は膨らんでいきました。しかし近年のより高精度な観測は「運河」の存在を否定します。ただ一方では水やメタンの存在が確認され(図2)、地球外生命の可能性はむしろ高まっているのかもしれません。ただしこのメタンがどのようにして生成されたのかはわかっていません。本当に生物起源なのか、または火山活動によるものなのかは現時点で断定できず、様々な観点から議論が続けられています。
 
   
   
図2 地表近くの氷(©NASA)

   
    火星の平均気温は表1に示すとおりであり、地球に比べるとかなり寒冷です。このような環境では当然水は氷として存在するのであり、たとえ水があったとしても生命の発生に繋がる可能性はかなり低くなります。しかしNASAのローバー型探査機「オポチュニティ」は赤鉄鉱を発見しました(図3)。これは、その生成過程から考えると液体の水の存在を強く示唆するもので、過去のある期間、火星にも水が液体として存在したものと考えられています。つまり少なくとも生命が誕生しうる環境があったかもしれない、ということになります。

   
   
  半径
(km)
重力
(kg m/s
表面温度
(C°)
気圧
(103 hPa) 
大気密度
(kg/m
気体構成
(%)
地球 6,378 9.8 15 1.01 1.23  78
 21
火星 3,396 3.7 -60 0.006 0.0155 CO 95
 2.7
表1 地球と火星の主な特性(地表付近)

   
   
図3 赤鉄鉱(ヘタマイト)(©NASA)

   
     地球外生命の存在は非常に興味深い問題ですが、これ以外にも火星にはわからないことがたくさんあります。例えば火星の地形。図4が示すように火星は北半球に比較的なだらかな平原が広がる一方、南半球は起伏に富んだ複雑な地形をもちます。その標高差も大きく、オリンポス山と呼ばれる火山の標高が27kmであるのに対し、マリネリス峡谷(図5)は深さ7kmです。火星の直径が地球と比べて約半分しかないことから考えても、その標高差の大きいことがわかるかと思います。また火星には地球のように南北を指し示す地磁気がほとんど観測されません。その代わり、磁気の反転を繰り返しながら約1000kmにわたって広がるバンド状の局所領域が発見されています。これら火星の生い立ちを語る貴重なデータは火星の周回軌道を回る衛星によって得られました。このように近年の科学観測は、これまでよくわからなかった火星の素顔を少しずつ明らかにしています。

   
   
図4 火星の地形(©NASA)


図5 マリネリス峡谷(©NASA)
 
   
    2.飛翔型探査機のメリット

 火星の調査・観測の方法は大きく三つに分類されます。一つは従来より行われてきた地球からの観測です。この手法でも様々な情報を得ることは可能ですが、やはり解像度に劣るという大きな欠点があります。二つめは火星の周回軌道に乗せた探査衛星による観測です。これは火星の全体像の取得や磁場、地形の計測等に優れますが、特定の領域を詳細に観察することは苦手です。そして三つめは地表を自由に動き回るローバーによる観測です。ローバーは風況などの局所的な観測に適しているだけでなく、岩石や砂の直接的な分析も行うことができます。ただローバーは移動距離が小さいとともに、大小の岩が散在する荒れた大地の観測にはむきません。
 このように探査機にはそれぞれの特徴があり、各々の長所を組み合わせることによって必要な探査を効率的に実施してきました。ただそれでも満足のいく情報が得られない場合があります。例えばグランドキャニオンを想像してください。幾重にも連なる地層は美しいだけでなく、当時の情報をそのままの形で残している貴重なデータです。しかしそのデータは真上から観測する周回衛星では観測することが難しく、ローバーではアクセスすること自体が危険で困難を極めます。また磁化バンドのような数百kmにおよぶ構造に対しては、やはり周回衛星やローバーは十分なツールとは言えません。
 このような状況下において期待されるのが飛行機型の探査機です。両者を補間するだけでなく、その特徴を最大限活かした手法によりこれまでに得ることのできなかった様々な情報を入手することが可能になります。火星の空を飛ぶ探査機ができれば、多くの謎が明らかになるかもしれません。しかしこれまで飛行機型の探査機は実現していません。実は火星大気中を飛行することはそれほど簡単なことではないのです。

   
    3.飛行を阻む火星大気

 そもそも飛行機はどのようにして飛ぶのでしょうか。たとえば「ジャンボジェット」としてお馴染みのボーイングB747は重量が約400トンもあります。これほどの物体が浮くためには、それと同じだけの力が重力に逆らって上向きに働く必要があります。この力は「揚力」と呼ばれ、高速の空気の流れを翼にあてることで発生します。ジャンボジェットは時速数百kmで飛びますが、このとき翼の周りを通り過ぎる空気によって400トン分の揚力が発生し、浮くことができるのです。
 しかしこの揚力は大気密度に比例するため、大気が薄くなればなるほど発生する力は小さくなるという性質があります。簡単に言えば大気密度が2倍になれば揚力も2倍。半分になれば揚力も半分になるのです。表1に地球と火星の主な特性を比較しました。この表からわかるとおり、火星の大気密度は地球の80分の1程度しかありません。ジャンボジェットがもし火星で同じように飛んだとしても、揚力は80分の1、つまり5トン分しか得られないことになります。これでは到底浮かんでいることはできません。もちろん火星では重力が地球の3分の1程度なのでその分は小さくてすみますが、それでも大気密度の減少分を挽回するには遠くおよびません。重力を考慮してもなお27倍の開きがあります。
 では揚力を大きくするためには他に方法はないのでしょうか。実は次の3つの方法が考えられます。
 (1)27倍の揚力が生まれるように翼の形を工夫する。
 (2)翼の面積を27倍にする。
 (3)約5倍(27の平方根)速く飛ぶ。
 *揚力は翼の面積に比例し、速度の2乗に比例します。
 現在の飛行機の翼は、機体メーカーがこれまで相当な研究を重ねた結果たどり着いた形であり、ほとんど最適な形になっています。一生懸命努力して翼の形を工夫しても、揚力はおそらく2倍にするのも難しいと考えられます。また翼の面積を27倍にするというのも、構造的に大きな負担がかかり現実的ではありません。特に火星に飛行機を持っていく場合、あまり大きくすることができないうえ、折りたたんだ状態でロケットに載せるので全体的にコンパクトでなければなりません。そうなると5倍速く飛べばいいように思えます。しかし速く飛ぶと、今度は「音速」の問題がでてきます。
 地球の地表付近の音速は毎秒340mほどです。これは密度や大気組成、温度などで決まります。物体の速さがこの音速を超えると「衝撃波」と呼ばれる波が発生します。翼の上の流れが音速を超えるとやはり衝撃波が発生します。この衝撃波は前に進もうとするものに対して大きな抵抗になりますが、翼の上にこれが発生すると抵抗が大きくなることに加え、揚力の低下を引き起こす場合があります。通常の飛行機も、抵抗と揚力のことを考え、衝撃波が発生しないようになるべく音速を超えないように飛んでいます。やみくもに速く飛びさえすればよい、ということではないのです。実際火星では音速が地球の約3分の2になってしまいます。つまり火星ではより低速で音速を超えてしまうのです。したがって、揚力を稼ぐために約5倍速く飛ぶ、という方法もかなり難しいことがわかるかと思います。
 結局、火星で飛行機を飛ばすためには先に挙げた3つの改善策を上手に組み合わせ、最適解を見つける他ありません。しかし筆者らのシミュレーションによると、火星大気の組成に起因した、新たな問題が発生しうることがわかりました。火星環境を模擬した数値実験を実施したところ、場合によっては揚力が大きく時間変動することがわかったのです(図6)。この図は揚力の時間変化を示すものですが、飛行速度などの条件によっては揚力の変動が非常に大きくなることが明らかになりました(実線)。もし私たちの乗る旅客機でこんなことが起これば、機体が浮いたり沈んだりを繰り返し、とても乗っていることはできません。これは図7が示すような「剥離」という現象と関係があるようです。図ではある翼の断面を通り過ぎる流れのパターンを可視化したものですが、左から流入する流れが翼の先端で剥がれてしまっていることがわかります。この「失速」と呼ばれる状況になると揚力は著しく低下し、最悪の場合、機体は墜落します。火星大気環境では、わずかな条件の違いでこの剥離が発生する可能性のあることがわかりました。したがって探査機の機体や飛行プロファイルを設計する場合は、十分な注意が必要になりそうです。
   
   
図6 揚力の時間変動の様子*


図7 剥離流れの例*

   
    4.JAXA「火星探査ワーキンググループ」

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)では現在、2020年頃の打上げを目指すMELOSと呼ばれる火星探査ミッションが活動しています。ここでは気象観測や地質観測により未解明な課題に取り組むとともに、小型火星航空機等による観測など、技術実証もそのターゲットに据えています(図8)。これに伴い、JAXA宇宙科学研究所(ISAS)を中心に複数の大学を交えた「火星探査ワーキンググループ」を結成し、実現に向けた努力を重ねています。筆者もその一員として主に空気力学的課題について研究活動に携わっています。したがいまして本原稿は空力的観点に立ち、特に筆者らの研究結果に基づきその課題等について紹介いたしましたが、当然火星航空機を実現させるためには構造、誘導、推進などあらゆる問題を解決しなければなりません。この火星探査ワーキンググループではそうした広範にわたる問題について各分野毎に、あるいは連携しながら活動を行っています。活動全体の詳細等につきましては参考文献[1]、[2]をご参照ください。
   
   

図8 計画中の火星複合探査(©A. Ikeshita/JAXA)
   
    5.おわりに

 バイキング1号が送信してきた赤褐色の荒れた大地の風景。当時小学生だった筆者も大きな衝撃を受けるとともに、希望で胸がいっぱいになった記憶があります。そしていま、砂塵が吹きあれる荒涼とした空を翼が独り飛翔する姿を想像するとき、未来に向かって真摯に努力を重ね、挑戦し続けることの大切さを強く感じています。

参考文献
[1]: 大山聖ら、「火星探査航空機のミッション・設計検討」、第49回飛行機シンポジウム、3F1、2011. 
[2]: 火星探査航空機ワーキンググループ、http://flab.eng.isas.jaxa.jp/meav/

*図6、7はJAXA研究開発本部池田友明博士によるものです。
   
     (おわり)
   
   


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跡部 隆

 

   
         
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