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ボーイング737空輸物語

航空ジャーナリスト協会

瀬田 幸由

2013. 10.10
 
     
  1.はじめに 2013年4月5日、34年ぶりに再訪したシアトル・エバレットにて

 陽光輝くペインフィールド(注1)に真っ白な機体にLOTのロゴ(ポーランド航空のロゴ)も鮮やかなB787が滑り込んできた(写真1)。バッテリートラブルで運航停止中のB787に設計変更を施し、改善新バッテリーを載せ、3月下旬から続けられてきた試験飛行の最後の着陸を目撃することができた。収集データに基づいてFAA(Federal Aviation Administration=アメリカ連邦航空局)は運航再開を決定し、B787就航の日も近いと思われた。(4月19日FAAはバッテリー改善策を承認、4月26日国交省運航停止命令解除、6月1日全日空、日航定期便の運航再開)今後B787の空輸も順調に行われる事になると安堵した。この情景を見て、私は34年前の、今では旧式となってしまったが当時の最新鋭機B737-200 ADV17(注2)の評価試験、フェリーフライトを担当した往事を回想してしまった。高性能のB787では9時間弱(飛行時間)で日本への直行飛行が十分可能であるが、B737では1泊2日12時間弱(飛行時間)が必要だった。この機会にアナログB737のフェリーフライトを紹介したいと思う。
 (注1ボーイング・エバレット工場に隣接する飛行場)
 (注2:ADV17は装備するエンジンの型式を表す)
 
 
写真1 ポーランド航空のB787。2013年4月5日ペインフィールドにて。
 
 
2.B737について

 B737は1966年ローカル線のJET化を目指して開発が始められた。ANAは120席クラスのB737-200型を導入した。当時の地方空港の未整備な状態に対応可能で高性能な機体であった。又斬新なモヒカンルックを採用しミニミニジャンボの愛称で1969年6月20日、羽田-伊丹、伊丹-福岡便に就航した。ANAグループのANK(エアーニッポン(株))は1995年にエンジンを強力かつ経済性の高いCFM56に換装しコックピットを大幅に近代化した-500と2000年には-400を導入した。現在ボーイングではB737NG(NGは New Generation の略)と呼ばれ一層近代化した-600、-700、-800、-900が製造されており、ANAでは-500、-700、-800を計53機導入している。B737-200 ADV17(以降B737と呼ぶ)はB737ファミリーでは第1世代にあたる機体と言えよう。

3.フェリーフライト体験記

3-1.領収検査
 1977年増え続ける旅客需要に対応するべくANAは126人乗りのB737を6機(JA8452~8457)の導入を決めた。1979年7月、私は4号機(JA8455)の領収空輸の運航技術員としてワシントン州シアトルのボーイング社に派遣された。新造機の領収及び空輸の運航業務を行うのが仕事である。
 ボーイング社は当時本社及び製造拠点をシアトルに置き、レントン工場で単通路機(B727、B737)、エバレット工場ではワイドボディ機を製造し、ボーイングフィールドではテスト及びデリバリーフライトを行っていた。領収検査とはメーカーから領収に当たって新造機が保証の性能を満たしているか否かを確認する重要な仕事だ。私はJA8455、8456の領収検査を行ったが、両機とも所定の性能を満たしており特別な問題もなく、無事完了した。(写真2
 
 
写真2 ボーイングフィールドに並ぶJA8455とJA8456(右端はアメリカのピードモント航空機)
 
  3-2.ボーイングフィールドの名機達
 領収検査は共にボーイングフィールドで実施されたが、ここは又珍しい飛行機の宝庫であった。出合った幾つかを紹介しよう。
 F-86:ボーイング社のチェース機として、新型機に随伴して活躍しているF-86(実はカナダ製セイバー)。テールNoがN8686Fとなっているのは興味深い(写真3)。なお、B787のチェース機にはT-33が使用されている。
 B-17:新造機の隣に駐機したB-17。エア・フェアーの為飛来してきた。ARIZONA CAF(当時はConfederate Air Force、現在はCommemorative Air Force)所属機(写真4)。
 P-12:同様に新造機の近くに駐機していた。ボーイングのベストセラー複葉戦闘機だった(写真5)。
コンベア540:FAA所属のコンベア540フライトチェック機(写真6)。
 又空軍のエリアには当時最新鋭のAWACS・E-3Aを始め、AMST・YC-14等が駐機しているのが望めた(写真7)。飛行機好きにはこたえられない場所であった。
 
 
 
写真3 ボーイング社のチェース機として活躍しているF-86


写真4 ARIZONA CAFのB-17


写真5 ボーイングのベストセラー複葉戦闘機だったP-12


写真6 FAA所属のコンベア540フライトチェック機


写真7 遠くに駐機していたE-3とYC-14
 
  3-3.フェリーフライトについて
①ルート
 デリバリーされた旅客機をどのように日本に運ぶのかご存じだろうか。B747、B777、B787、B767といった大型及び中型クラスの機体だと航路距離が長いので、シアトルから日本へ直接フェリーフライトを行えば完了である。ところがB737クラスの小型機では航続距離が短いので数箇所でテクニカル・ランディングをしながらフェリーフライトを行わねばならない。コースとしてアンカレッジ又はコールドベイ経由と南回りのホノルル、マジュロ、グアム経由のルートが考えられる。今回は夏場の安定した季節であり、コールドベイ経由の北回りのルートが選定された。ボーイングフィールド-モーゼスレーク-コールドベイ-エイダック-伊丹のルートを1泊2日で飛行する(図1)。伊丹はANAのB737の拠点空港で大阪整備工場がある為だ。
 
 
 
図1 飛行ルート。KBFI=ボーイングフィールド、KMWH=モーゼスレーク、PACD=コールドベイ、PADK=エイダック、RJOO=大阪。
 
 
②装備
 長距離飛行用に客室内に強化ゴムタンクを装備し、15,000ポンドの燃料搭載量を増加させ、通常の2倍8時間余りの飛行を可能とした(写真8)。航法機器としてPINS(portable inertial navigation system)を2基増設してコールドベイ-エイダック-伊丹間の自蔵航法に対応し、長距離通信用としてHF通信機を装備した。当時の米国の燃料事情でボーイングフィールドではフルに搭載できず、同地の170 nm(注3)にあるモーゼスレークにテクニカル・ランディングをすることになった。
(注3:nm=nautical mile:海里、1nm = 1,852 m)
 
 
写真8 長距離飛行用に客室内に強化ゴムタンクを装備した。
 
 
3-4.フェリーフライト出発
①第1レグ:ボーイングフィールド-モーゼスレーク
 距離 169 nm (313 km) 飛行時間 0+25(注4
 7月28日ボーイングトレーニングセンター内の運航管理室で成田ディスパッチャー(=運航管理者)からの①飛行計画書、② WXホルダー(気象データのセット)、③ NOTAMを確認し、①ナビゲーションログの作成、② WEIGHT & BALANCE、③ T/O DATA、④発着報の打電の調整、⑤ATS (Air Traffic Service) FLIGHT PLAN、⑥ RANGE CONTROL CHART 等の作成を行った。乗員はT及びM機長、オブザーブのT副操縦士、整備士2名、コーディネーター1名、私の計7名が乗り込んでボーイングフィールドを離陸しモーゼスレークへ東進した。
(注4:0時間25分をこのように表記。以下同様。)

②第2レグ:モーゼスレーク-コールドベイ
 距離 1,377 nm (3,210 km) 飛行時間 4+10
 モーゼスレークは10,000フィート以上の滑走路2本を有する大空港である。がらんとした広大なエプロンに駐機した。インターバルが短い為、直ちにFAA事務所へフライトプラン、発着報の依頼に赴いた。
 モーゼスレークは長い滑走路といっても、夏場の高温と標高の高さ(1,200フィート)から言って、増設ゴムタンクを加えて満タン近くまで積み込んだB737にとって離陸は厳しいものであった。
 機はアラスカ西端のコールドベイを目指して、一路飛行を続けた。160°WをHFにてアンカレッジレディオに位置通報しコールドベイレディオに降下のクリアランスを求める。新型のカラーウェザーレーダーには山々が少々不気味に見える赤い色で写されている。RWY 14に着陸、エプロンにはリーブ・アリューシャン航空(Reeve Aleutian Airways=RAA)のYS-11が駐機していて、大変懐かしく、さながら見知らぬ土地で友人に出会った気持であった。外に小型機が一機係留されているだけの荒涼とした風景であった。

③コールドベイ
 コールドベイはRAAの定期便、フライングタイガーの燃料補給のほかは狩猟客の飛行機しか来ない、人口200人程度の小さな島である。しかし空港の整備は10,415フィートの滑走路、ILSも設置され、他にも立派なNAV AIDsも設けられた設備の整った大空港である(写真9)。海岸近くにあり、周囲は高い山に囲まれている。海岸から滑走路までの平地には無人のカマボコ兵舎が数十棟あった。これらは第2次世界大戦で使用され、以降は放置されていた。又このエリアは第2次大戦国定歴史地域に指定されており、米国に脅威を与えた零戦の秘密を知るきっかけとなった、零戦の不時着したアクタン島は隣接した小島である。空港の近くにはまばらな家々の並んだ集落、その向こうには小さな港が見える。ここに10,000フィート以上の滑走路を有する大空港がポツンとある。これがアラスカ半島いわば米大陸の突端、アジアとアメリカを結ぶ交通の要といわれる場所だ。滑走路、航法援助施設の立派さに比べてRAAのPAXターミナル(旅客ターミナル)は簡素につきると言える。PAXターミナルといえるものではなく、カマボコ形の倉庫の一部を板で仕切っただけのものであった。また管制塔は2階建の家といったもので、日本のローカル空港と比較してもはるかに簡素といえた。
 小雨の降る飛行場は海霧に包まれ始め、B737はモヒカンルックの青色を実に鮮やかに浮かび上がらせ、又赤のヤキトリマーク(ANAの社章)もひときわ立派に見えて静かに駐機していた。宿は1泊30ドルのアークティック・タイガー・イン。山小屋に近いものであった(現地ではビルディングと呼んでいた。現在でも依然として使用されていて BEAR FOOT INN と呼ばれている)。壁には熊の爪あとが残り、共同シャワー、扉なしのトイレといったホテルであった。今でもゴミあさりの熊が窓ガラスをノックする事もあるとの事。夜8時過ぎに外に出てみたが高緯度地帯の為外はまだ明るく、人っ子一人歩いていない草原に、むくむくの子犬がこちらを見ていただけであった。素朴なコールドベイ・チャペルと子犬の写真を撮って、早々にホテルに戻った(写真10、11)。いよいよ明日は日本だと思い直してゆっくりと休むことにした。(RAAは2000年12月日本の会社更生法に該当するチャプター11の申請を行い、事実上倒産した。)
 
 
写真9 コールドベイの管制塔


写真10 コールドベイ・チャペル


写真11 コールドベイの子犬
 
  ④ソ連機の迎撃に備えて
 現地時間6時に起床、深く眠れて疲れもとれた。さあ今日は日本に帰れるぞ!と気合を入れて身支度を整えた。北緯55°の朝の外気は夏とは言え冷たく一気に眠気を取り去る良薬といえた。卵料理の朝食で力をつけ、ソビエトの空域すれすれを飛ぶという難事(当時は冷戦の真っ最中)が始まる。本部より渡された資料にはソ連機に迎撃された場合の対処方法まで含まれており、緊張した。4年後にはほぼ同一経路でKAL007撃墜事件が発生しており、又11年前には米民間チャーター便(シーボードエア)のDC-8がエトロフに強制着陸させられた事件があり、いやがうえにも緊張する。

⑤第3レグ:コールドベイ-エイダック
 距離 598 nm(1,107 km) 飛行時間 1+41
 11時(現地時間)出発、あいにく地上は低層雲に覆われて、アリューシャン列島の景色を楽しむ余裕はなかったが途中低層雲の上に頭だけ出している黒いトンガリ帽子の山々の頂(いただき)はまるでケーキの上に載っているチョコレートの様で、何となくユーモラスであった(写真12)。エイダックのアプローチコントロールの女性管制官の指示でRWY 23に無事着陸した。エイダックは米海軍の飛行場で約5,000人の兵士が常駐し、アリューシャン列島で最大の人口を有する島である。空港に沿って兵舎が並び、駐機場には多数のP-3Cオライオンが並んでいる。ソ連潜水艦の監視の施設があり、空軍のシェミア基地とともに米ソ情報戦の最前線の場所で緊張をみなぎらせているのを強く感じた。
 PAXターミナル内でRAA職員からケアを受けたあと、軍のBOP(ベースオペレーション)へ連れていってもらい、FLIGHT PLANのファイル、気象DATEの入手、NOTAMの確認を行った。最終目的地の伊丹は快晴、代替空港の名古屋も同様、これからこのフェリー最長の2,419 nmの飛行を行うのだ。キャビン内のゴムタンクは燃料を満載してパンパンに膨らんでいる。途中20分に1回程度の割合で人力でタンクを締め上げなければならない(写真13)。なかなかの重労働である。その他タンク使用時制約事項を列記してみると
制約1 コックピット、客室内禁煙(当時は分煙)
制約2 HF通信機関連を除き
   トイレのFLASHING 禁止
   ギャレーヒーター 禁止
   全ライトを不作動とする
等の厳しいものであった。
 ボーイングの仕様に基づいてフェリーフライト用タンクを装備したので、上記の各種プロシジャー、制限が付加されたが耐空性基準を満たしていた。現在同種の事を行うとなると厳しい装備と設計が必要とされよう。
 エイダック離陸前の発見:さあ出発、機長を先頭にターミナルを出て驚いた。ターミナルの壁に何気なく立てかけてあるのが、なんとウォーバードの翼で星のマークがうっすらと残っている。現地スタッフに尋ねたところ米海軍機SBDドーントレスの翼だった。未だこの地は第2次大戦の名残を強く留めていたのだ(写真14)。
 
 
写真12 雲海の上に顔を出したアリューシャン列島の島のひとつ


写真13 20分に1回程度の割合で人力でタンクを締め上げた。


写真14 ターミナルの壁に何気なく立てかけてあったウォーバードの翼。
 
  ⑥第4レグ:エイダック-伊丹
 距離 2,419 nm(4,480 km) 4+45
 いよいよ最後のレグ、NOPAC2(飛行ルートの名称)。ソ連の空域に最も接近したルートを通るフライトだ。位置の確認に十分注意してゆこうと気を引き締めた。千島列島は低い雲に覆われていた。最新のカラーウェザーレーダーには明瞭に列島が赤く表示されてきた(写真15)。何となく緊張する。
 MiGを見ることもなく、その頃から、カンパニーレディオに全日空北海道が入り始め釧路便のボイスも入ってきた。程なく日本の空域に入ると一同ホット一安心した。その後、磐城VOR-熊谷NDBを経由し名古屋を通って無事伊丹に着陸した。運航技術部長を始め多数の出迎えが待ち受けて、無事にスポットインした。キャビンに設置した命の綱の燃料タンクはペッタンコになっている(写真16)。こうして新車の陸送ならぬ新造機のフェリーフライトは無事に終了した(写真17)。
 
 
写真15 ウェザーレーダーに千島列島


写真16 ペッタンコなった燃料タンク


写真17 無事、大阪に到着。左端が筆者。
 
  4.終わりに

 フェリーフライト終了後、羽田の私の元にフェリーフライト責任者のM機長が六つ切のセピア色の写真を届けてくれた。写真は第2次大戦当時のエイダック基地に駐機する、有名なアリューシャン・タイガー所属のカーチスP-40であった。B737/JA8457の空輸の際、RAAの職員から記念として贈られたものであった。(写真18
 B737-200 ADV17はB737の乗員の間では上昇性能がよく余力があり舵の利きも良好でまるでスポーツカーみたいだ!と大変好評であった。グルービングRWYを始めとしたローカル空港の充実化に合せて1,500 m滑走路でのオペレーション可能ジェット機として、初の旧広島空港への乗り入れ、宇部、山形、米子空港等への乗り入れも行われ、ローカル空港のジェット化に大活躍した。

 
 
写真18 記念にもらったアリューシャン・タイガー所属のカーチスP-40の写真


写真19 ボーイング社でもらったステッカー
 
 

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瀬田 幸由(せた ゆきよし)

 
 
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