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航空黎明期を駆け抜けた
民間飛行家、武石浩玻

財団法人 日本航空協会
航空遺産継承基金事務局
2012. 6. 15
   
   
〔1.はじめに〕

 日本航空協会が航空に関する歴史的な資料、いわゆる航空遺産の収集・調査・保存・公開に本格的に取り組むために航空遺産継承基金を立ち上げてから7年が経過した。散逸の恐れのある資料を後世に遺すことを目的としたこともあり、当初は実績のない中で活動の核となる資料を寄贈いただけるかが最大の懸案であった。しかしながら、幸いなことに基金立ち上げ後の比較的早い時期に新聞・テレビ等で紹介されたこともあり、多くの資料を寄贈いただけるようになった。寄贈を受けた資料の一部は展示会や出版物、ホームページ等で紹介している。多くの資料を一堂に紹介する展示会などとは異なり、本稿では個々の資料に焦点を合わせて、収集の経緯、実施した修復保存処置などもご紹介したい。今回は28歳にして墜落死した民間飛行家、武石浩玻(コウハ)の遺した原稿およびネガフィルムの修復保存作業が終了したのを機会に、これらの資料を浩玻本人とともにご紹介したい。

   
   
【都市間連絡飛行の際の武石浩玻】
   
   
〔2.民間飛行家、武石浩玻〕
 
〔2-1. 飛行家を目指して〕


 平木国夫氏の著書「鳥人(イカロス)たちの夜明け」によれば、1884(明治17)年生まれの浩玻は水戸中学校の上級生になると「新文壇」や「ホトトギス」に短歌や俳句などを投稿するようになる。その後、郵船の上海航路にボーイとして乗り込んだ後に欧州航路に転船し帰国、1903(明治36)年に代議士の紹介状を得て渡米、サンフランシスコの日本人福音会に身を寄せ、1908(明治41)年、エール大学教授の家に雇われていた時、ユタ州ソルトレークシティの邦字新聞「絡機(ロッキー)時報」の主筆として招かれた。渡米の当初の目的は文学者になることにあったが、アメリカで飛行機を身近に見て飛行機熱を高めた浩玻は、カリフォルニア州サンディエゴのカーチス飛行学校に1912(明治45)年2月入学し5月に飛行機の操縦資格を取得する。1910(明治43)年12月に日野・徳川両大尉が日本で飛行機による最初の飛行に成功してから約1年半後のことであり、日本の飛行家の草分けであった。

 〔2-2. 都市間連絡飛行での墜落〕

 浩玻は操縦資格取得の翌1913(大正2)年4月7日にアメリカから飛行機を携えて日本に帰国し、ほどなくして朝日新聞と組んで京阪神間の都市間連絡飛行の計画を発表する。都市間連絡飛行を実施した5月4日は雲ひとつない晴天であった。午前10時22分、鳴尾競馬場(神戸)を出発した浩玻は大阪城東練兵場に10時40分に到着。12時31分に京都深草練兵場を目指して出発した。京都深草練兵場で到着を待ちわびていた観客が浩玻の姿を認め帽子や手を振っている中の12時55分30秒過ぎに飛行機は突然に急角度で墜落し、運び込まれた病院で死亡が確認された。飛行家としての日本での活動はわずかに1ヶ月に満たないものであった。朝日新聞が「新帰朝の第一人者を迎えて、わが国未曽有の都市連絡大飛行」と賞金1万円をかけた京阪訪問大飛行の日程を書きたてたこともあり、多くの人の関心が航空に向いている中での出来事であった。着陸地には陸軍第三十八連隊長でもあった久邇宮殿下を初めとする要人が列席しており、浩玻の死後には天皇・皇后両陛下の御詞が下され、久邇宮殿下は生前の約束であった浩玻の飛行機への命名「白鳩」号を行い弔慰金を下賜している。朝日新聞により行われた葬儀には多くの人々が列席し、与謝野鉄幹も浩玻の死を悼んで浩玻の兄に書簡を送っている。後に全日本空輸の初代社長となる美土路昌一は当時朝日新聞にあって、飛行前に京阪神間の地勢を浩玻とともに視察し、浩玻の死後には武石家において朝日新聞代表として弔辞を読んでいる。当時、日本では飛行機はまだ海のものとも山のものともつかない存在であり、都市間連絡飛行と銘うって実用の第1歩を目指した浩玻の試みは残念ながら失敗に終わった。しかしながらその悲劇は、多くの人に影響を与えることになる。すなわち、事故をきっかけに未知の空飛ぶ機器に怖気づくのではなく、飛行機に命を懸けた浩玻の意思に感動した多くの若者が飛行家を志すことになる。

   
       
   
【浩玻の棺の葬送を見守る沿道の人々】
   
   
〔3.寄贈資料〕
 〔3-1. 寄贈の経緯〕


 今回ご紹介する資料は、浩玻の著書「飛行機全書」の直筆原稿と、浩玻が滞米中に撮影したと思われるネガフィルム25枚である。寄贈していただくことになったきっかけは所沢航空発祥記念館の近藤亮学芸員に、浩玻の兄の武石如洋の孫である尭(トオル)氏が浩玻の資料を大切に保管されていることを教えていただいたことに始まる。尭氏に電話で航空遺産継承活動などについてお話したところ資料を見せていただけることになり、2009年8月に航空遺産継承基金事務局員が茨城県の自宅をたずねた。医者であった如洋が大正7年に建てた家の縁側で、浩玻が帰国時に荷物をつめて帰ったトランクや書簡、都市間飛行の際に撮られた写真などを拝見するとともに武石家に伝わる浩玻の話などをうかがった。これまで紹介されたことのない、如洋が在米時代の浩玻を援助していたらしいことや、浩玻自身も日本の版画のようなものを行商し生活の糧にしていたと思われることなど、の話もお聞きすることが出来た。

〔3-2. 「飛行機全書」の原稿〕

 「飛行機全書」執筆の経緯は小説家、稲垣足穂の著書「ライト兄弟に始まる」(徳間書店、1970(昭和45)年)に詳しい。同書には「武石浩玻在米日記」と題した浩玻の渡米後1909(明治42)年から飛行学校入学直前の1912(明治44)年までの浩玻の日記の抜粋が収録されている。アメリカで飛行機に目覚めた浩玻は、飛行機に関する複数の雑誌を定期購読し始めるとともに飛行会にも出かけ、最新情報を得てよりいっそう飛行機への思いを高めていく。一方で、諸外国における飛行機の迅速な進歩に遅れをとる日本の前途を憂い、アメリカやフランスなど航空先進国の現状や航空機の発達史、当時の代表的な飛行機などを紹介することにより、日本での航空機の発達を訴える書物の執筆を思い立つ。1910(明治43)年4月15日に稿を起こし翌1911(明治44)年5月15日に執筆を終える。同日の日記では「もう少し丁寧に読み直ほすのが順序ではあるがかまはず大急ぎに二冊に原稿をとぢた。総紙数三百枚以上なので一冊にすることができなかった」とされ、翌16日に「郵便本局へ行つて原稿を大塚氏に送付す」とある。同年9月28日の日記に「大塚氏の手紙落手。予の原稿は落手したが未だ出版の運びに至らざる由。まづ駄目だ」とある様に、生前には浩玻の夢はかなわず出版されることはなかった。しかしながら、浩玻の事故の反響の大きさゆえか、墜落から僅かに2ヶ月程後に、都市間連絡飛行および墜落の様子、また事故原因の推測や追悼文などを加えた形で出版された。

   
   
【浩玻の死後出版された「飛行機全書」(正教社、1913(大正2)年)】
   
   
 〔3-3. 原稿の保存処置〕

 寄贈いただいた原稿は164頁と156頁の2分冊からなり、どちらも糸を使って綴じられている。サイズは168×280mmで表紙には藍色の厚紙が使用されている。国立文化財機構東京文化財研究所の紙の専門家・加藤雅人主任研究員に保存の仕方のついて相談したところ、当時一般的に使用されていた用紙およびインクは長期保存するためには処置が必要とのアドバイスをいただき、この方面で実績のある㈱資料保存器材に依頼した。調査の結果、紙は機械パルプ紙で文字の書き込みに使われたインクは没食子インクが用いられていることが解った。没食子インクとはタンニンと硫酸鉄水溶液などから作られたインクのことで、インクに含まれる硫酸と鉄イオンが紙を劣化させる原因となる。全体的に紙自体の状態は悪くなく酸化・酸性劣化による変色の程度は小さいが、一部の頁については周縁に破れや欠損が見られた。これらの調査を受けて先ずは紙自体の酸性化を抑える処置を行うこととなり、周縁の破れを極薄の和紙をデンプン糊で接着して補強した後に、Bookkeeper法と呼ばれる脱酸性化処置を行った。その結果、処置前のphが4.6で酸性域だったのに対し、処置後phは9.5とアルカリ域まで上がった。Bookkeeper法とは、紙資料を対象とした中和・保存処置で、酸化マグネシウムの超微粒子からなるアルカリ緩衝剤を紙の中に残留させ酸性化している紙を中和する手法であり、没食子インクによる紙劣化の防止にも有効とされている。
 処置後の原稿の1枚1枚をスキャナーでデジタル化した後に、原稿を長期保存に適した無酸・弱アルカリの専用紙を用いた保存容器に収納した。

   
   
【2分冊からなる原稿】

   
   
【長期保存のための処置を終えた直筆原稿】

   
    〔3-4. 浩玻のネガフィルム〕

 浩玻の撮影によると思われるサイズ9×15cmの25枚のネガフィルムは、撮影から100年程の時間を経ているものの銀浮きも少なく良い状態を保っていたが、表面に汚れが付着していた。こちらも東京文化財研究所に相談の上、㈱リボテックにクリーニングおよび焼付けを依頼した。古写真の修復等で経験の深い同社の村林氏から、ネガフィルムのサイズからコダック社の初期のものと思われることや、現像時の水洗用の水の温度域が狭いため水温管理が大変難しいことから、当時、撮影者の多くは撮影済みフィルムをコダック社に送り現像・焼付けを依頼していたことなどを聞いた。尭氏の記憶でも浩玻がアメリカから持ち帰った荷物の中に、かつてコダック社のカメラがあったとのことである。現像・焼付けは当時ロサンゼルス周辺に住む日本人の知人に依頼したという記述が日記にある。今に残るネガの状態が銀浮きもなく大変よいことから、水洗等の現像もきちんと行われていたと考えられ、同地に住む日本人が現像を行っていたとすれば高い技術を持っていたといえる。写真の多くは、浩玻がたびたび訪れた飛行会のものだが、畑仕事の情報を交換したり夕食や映画鑑賞を共にしたりしたと日記にある浩玻の相談相手であったと思われる日本人たちや、遠く離れた異国の地で亡くなった日本人の墓の写真なども含まれている。ちなみに帰国時に携えた飛行機は、交流のあったロサンゼルス近郊のスメルザの日本人農園主が発起人となり、同地に住む在留邦人がお金を出して作ったスメルザ飛行機会社の資金により購入したものであった。
   
   

【アメリカで開催されていた飛行会の様子】


【ロサンゼルス周辺に住む日本人と思われる】

   
    〔4. おわりに〕

 航空の年表の中で「日本国内における民間航空界初の犠牲者」と記載される武石浩玻の死から98年が経過した。浩玻が航空に携わった期間は大変短いものではあったが、その行為は当時の日本人に空を目指す気持ちを植え付け飛行家になる若者を生み出すなど、その後の民間航空の発展の礎となった。浩玻が厳しい畑仕事の合間に書き進めた直筆原稿を見ていると、書き損じや訂正の少ないことに驚かされる。水戸中学校時代から文章の才能に恵まれ、アメリカでも邦字新聞に主筆として迎え入れられたことの一端が、この原稿からうかがい知れる。また、諸外国の航空の迅速な進歩に日本が遅れることのないようにとの思いで一刻も早く出版するために、読み直しの時間を惜しんだことも結果として訂正箇所が少ないことにつながったのかもしれない。いずれにせよ、出版された「飛行機全書」からはうかがい知ることのできない情報を、直筆原稿は有している。銀塩フィルムでは、光がカメラに入りフィルム上の銀塩に化学変化を起こすことにより映像が記録される。浩玻が撮影したと思われる写真ネガフィルムには、まさしく浩玻自身がアメリカで見て飛行家を目指すきっかけとなった飛行機や飛行会の光景そのものが当地で化学反応を起こして保存されていて、印画紙に焼き付けられた写真や印刷された写真よりも、浩玻の存在により近いものと言えよう。
 日本航空協会では前身となる帝国飛行協会の発足から100年を迎える2013(平成25)年に、寄せられた資料を初めとして航空に関する歴史資料を紹介する展示会の開催を予定している。武石浩玻を初めとして航空に賭けた先人の足跡をご覧いただき、先人の空に懸けた夢や思いを感じていただけたら幸いだ。
   
     (おわり)
   
    *本記事は「航空と文化」(No.103) 2011年夏季号からの転載です。    
   


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