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逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(21)
- 乗員養成所卒業生の特攻 -
  徳田 忠成
2008.09.15
   
   
乗員養成所卒業生の特攻

1. 特別攻撃隊作戦の始動

 昭和19年夏、インド進攻のためのインパール作戦が悲劇に終わり、サイパン、テニアン、グァムの玉砕、政局は東条内閣総辞職に次ぐ小磯内閣の樹立と慌ただしく代わり、戦局は日に日に悪化の一途をたどっていた。ついに大本営は、死中に活を求めて、フィリピンを中心とする捷一号作戦を立案、10月からレイテ湾沖合で展開されたレイテ海戦に全力を傾注、米機動部隊と対峙した。世界最大の海戦に投入された彼我戦力は、艦船260隻、航空機2,000機といわれる。

 10月25日、ルソン島マバラカット基地から出撃した関行男海軍大尉(海兵70期)率いる6名の神風特別攻撃隊・敷島隊は、ゼロ戦に250キロ爆弾を抱いて出撃、レイテ湾に停泊している米機動部隊を目指した。目標を捕捉し、超低空飛行で接近した関隊長は、まっさきに敵空母セント・ローに突入、多大の戦果をあげた。

 海軍から遅れること2週間後の11月7日、陸軍特攻が始動した。第4航空軍隷下の「富嶽隊」、隊長は西尾常太郎少佐である。以来、陸海軍共に、なし崩し的に特攻が戦術の主流になっていっていき、多くの有為の若者が南瞑の空に消え、終戦までつづいた。

 特攻による戦死者と機体の損壊は、陸軍1,844名と1,094機、海軍が2,535名と2,367機である。しかし、これはあくまで概数でしかない。米軍の防禦体制は強固で、仏資料によると特攻による命中率は、平均18.6%(米資料では14.8%)と低く、敗戦へ近づくにしたがって、特攻隊員の技量と機体の性能劣化により、さらに低くなっている。


2. 乗員養成所卒業生の特攻


 将来の民間航空パイロットを夢見て、いずれは世界に雄飛する自らの姿を思い描いた養成所卒業生が、特攻へ赴いた事実を知る人は少ない。この時期の若者の「鬼畜米英を打つ」国防の意気は、天を突くものがある。あるいは憂国の発露で国の盾となり、親兄弟を守る信念に燃えて、特攻に殉じた者もいたであろう。しかし、事実は半強制的に上司の命令により、自暴自棄で出撃していった若者も少なくない。

 雪上浩信(仙台11期)は、熊本にある大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊で教官をしていた。19年10月中旬、飛行演習終了後の夕方、隊長室前に将校下士官全員が集合を命じられた。寺崎隊長は戦局の厳しさを説明し、「体当たり戦闘部隊要員」の募集を口にして、志願票が配布された。

 志望はあくまで個人の自由意志であり、明朝までに隊長室へ提出するように言い渡された。志願票には「熱望」「希望」「不希望」を選択するようになっていたが、「熱望」以外に書きようがないことは、皆が承知していた。その夜の寝室には重い空気がただよった。

 11月に入って遂に第1陣、12月には第2陣の特攻編成命令が舞い込んだ。第2陣の中には同期の加藤俊二(古河航養)と百瀬恒男(々)の名があった。雪上は当時の模様をハッキリ覚えている。自分も近いうちに特攻に編成されることは分かっていたが、彼らを慰める言葉がない。加藤が特攻に指名された夜は、決して酔うことはなかったし、百瀬は兵舎の片隅で涙を流していた。二人とも、数ヵ月後に沖縄へ出撃して散華したのである。

 本科2期生は全員、古河高等航養所を卒業したが、卒業目前の20年6月、航空本部から参謀がやってきて、卒業後の希望を書かされている。彼は特攻として国に殉じる道を滔々と説き、全員が特攻を希望するまで何回も書きなおされた。生徒たちは半ばヤケクソになって「特攻熱望」としたという。

乗員養成所卒業生特攻出撃者概数
  操  縦  生 本科 その他
 2  5  7  8  9 10 11 12 13 14  1    
陸軍系  1 3 2 5 3 10 8 15 7 62 3 2 121
海軍系               11 12 14     37
1 3 2 5 3 10 8 26 19 76 3 2 158
注:「その他」は、天虎飛行研究所および大日本青年航空団各1名


3. 乗員養成所操縦生特攻の先駆け

 石渡俊行軍曹(仙台9期)が、陸軍初の特攻・万朶(まんだ)隊に選ばれたときは、鉾田陸軍教導飛行師団で、99式双発軽爆撃機の第一次補充要員として、艦船攻撃の猛訓練中であった。この中には、彼と共に万朶隊員になった鵜沢邦夫軍曹(仙台9期)、奥原英孝伍長(仙台10期)、近藤行雄伍長(仙台10期)、佐々木知治伍長(仙台11期)が含まれていた。

 乗員養成所卒業生として特攻の先駆けとなり、19年11月15日に散華した石渡軍曹は、千葉県君津郡木更津出身で、まだ20歳であった。この日午前4時、万朶隊の99双軽4機と直掩する一式戦「隼」8機は、マニラ市北辺のカロヤン飛行場を、つぎつぎに離陸していった。目標は、マニラ東方200浬付近を遊弋している米空母郡である。99双軽4機の搭乗員は、鵜沢軍曹以外の前掲の4名であった。

 この日、曇天払暁の空中集合、しかし暗夜と雲にさえぎられて編隊を組むことができなかった。近藤機はマニラ近郊のニルソン飛行場で自爆、他の飛行機も帰還したが、石渡軍曹だけは、雲中飛行をしながら目標へ向かって航進したものと推定される。石渡にとっては2度目の出撃である。責任感の強い彼は、現世との絆を絶つべく、単機、決然として敵陣へ突進していったと思われる。
 

4. 本科生特攻第一号

 長浜清伍長(印旛本1期)は、鉾田陸軍教導飛行師団隷下の戦隊に所属しており、99式襲撃機の第2次補充要員として訓練中、第5次八紘隊・鉄心隊に選ばれた。そして12月5日昼過ぎに出撃、スルアン島付近の艦船に突っ込んだ。千葉県印旛郡本埜村出身の19歳であり、本科生の先駆けとなった。

 第26錬成飛行隊助教をしており、フィリピンへの空輸作戦を実施中、台湾の屏東で長浜伍長を見送った斉藤清伍長(印旛12期)は、当時の模様を次のように語っている。
 
 午前中、最終的な整備と機材の積み込みが終わり、午後は束の間の休養ということで、仲間3人で雑談中、地元の婦人会や女学生が、何組も隊列を組んでいるのが目に止まり、鉄心隊が出撃するところだった。その中に長浜らしい顔があった。

 「あれは本科の1期だ」「長浜って言わなかったかなぁ」「間違ってもいいじゃないか」「長浜」「長浜ッ」と、2、3回怒鳴った。身がぞくぞくっとするような緊張を覚えた。隊列の中にいる彼は、驚いたようにチラッとこちらを向いて、ニコッとした笑顔が今でも脳裏を離れないという。

 その直後、小事故で2時間ほど離陸がのびたが、はからずも3人は彼と話すことができた。すでに達観した心境なのか、彼は晴れやかな顔をしていた。彼はとても喜んで、いろいろな事を話してくれた。「・・・愛国心や軍人精神は現役軍人と変わらないことを示したかった」「そのために、真っ先に血書で特攻を志願した」等々、淡々と話してくれた。 

 2時間はまたたく間にすぎた。まだ童顔の残る顔に笑みさえ浮かべながら、戸惑うことなく立ち上がった彼は、われわれと固い握手をかわして愛機へ駆けより、轟音を残しながら消えていった。

 本科1期生の特攻出撃者は、表にあるように3人であり、他の2人の田川唯雄と塚田方也は一式戦「隼」を駆って、知覧から出撃していった。

 

とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト

逓信省航空局 航空機乗員養成所物語リンク
(1) シリーズ開始にあたって
(2) 民間パイロット養成の萌芽
(3) 陸海軍委託によるパイロット養成制度 
(4) 航空輸送会社の誕生  
(5) 民間パイロットの活躍
(6) 草創期の運航要領
(7) 航空機乗員養成所の設立(その1)
(8) 航空機乗員養成所の設立(その2)
(9) 航空機乗員養成所の訓練概要
(10) 天虎飛行研究所の実状
(11) 中央航空機乗員養成所の設立
(12) 予備役下士官の評価と制度の変遷
(13) 地方航空機乗員養成所本科生制度
(14) 戦時下の本科生の動向
(15) 大日本航空の組織改編
(16) 海軍徴用輸送機隊の編成
(17) 陸軍直轄の航空輸送部隊
(18) 航空機乗員養成所卒業生の葛藤
(19) 予備役下士官パイロットの戦場
(20) 乗員養成所第14期操縦生の青春
参照 航空機乗員養成所年表
         
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