2025年5月 航空遺産写真 今月の1枚
F-5号飛行艇
航空遺産継承基金事務局で所有している写真を毎月1枚ピックアップしてご紹介します。
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今月は、5月ということで、当協会の所蔵する海軍のF-5号飛行艇(注1)の写真をご紹介します。
F-5号飛行艇は、大正十(1921)年以降、日本海軍がイギリスから輸入し、国内生産した飛行艇です。日本海軍初の実用飛行艇であり、初の制式飛行艇(参考12)でした。また、日本の飛行艇製作の嚆矢(参考25)であり、日本における大型飛行艇や木製機の製作技術に与えた影響が大きく(参考9、25、26)、海軍の大型飛行艇運用の基礎を築いた(参考9、22)と評価されています。
なお、日本最初の双発機といわれることもありますが(参考27)、海軍最初の双発機としては、大正九(1920)年7月20日のテリエBM飛行艇の飛行が先行しています(参考8)。また、陸軍は双発爆撃機の丁式一型(ファルマンF-50)を大正九(1920)年に輸入して使用しているため(参考20、23)、日本で最初に飛んだ双発機は、テリエBM飛行艇か丁式一型(ファルマンF-50)と考えられます。 |

日本陸軍が大正九(1920)年に購入した双発重爆撃機、丁式一型(ファルマンF-50)
(日本航空協会公開、陸軍航空本部1933年発行『航空写真帖』p.85の9枚目) |
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冒頭の写真の機体は、尾翼に「Y8」とあることから、大正十(1921)年から大正十五(1926)年頃の写真と思われます(注2)。「Y」は、横須賀航空隊所属という意味です。写真はもともと、航空ジャーナリストであった野沢正氏が所蔵していた資料です(参考21)。 |
F-5号飛行艇のノックダウン生産――諸文献の矛盾
F-5号飛行艇は、もともとイギリスのショート社が生産していました。日本海軍は大正十(1921)年にショート社から21名の技術指導員を招き、横須賀造兵部飛行機工廠でF-5号飛行艇の製作法講習会を実施しました(参考22、24)。このとき、イギリスのショート社から提供を受けた機体は12機とも、6機とも言われています(注3)。また、輸入した部品を日本で組み立てたとされる機体は、6機とも、9機とも言われています。
最初に日本に到着して組み立てられた輸入1号機は、製造番号S.547の機体です(参考1、12)。その後、5機分の部品が到着し、横須賀では引き続きショート社からの指導を受けながら、合計6機が組み立てられました(参考9)。 |

ショート社から21名の技術指導員を招き、横須賀海軍工廠造兵部で組み立てられた輸入1号機とされる写真。(日本航空協会所蔵)
背景から、長浦湾岸、現在の船越町付近で撮影と推定できる。後景の高台は、現在の横須賀市立田浦中学校の位置となる(注4)。
野沢正氏が所蔵していた写真で、同氏の『日本航空機辞典』(参考25)にもトリミングされて使われている。
また、『イラストで見る日本陸・海軍機大図鑑 零戦と黎明期の日本海軍機編』(参考12)p.136にも同じ写真が掲載されている。 |
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その後、F-5号飛行艇の生産は、横須賀から呉に移りました(参考24)。呉では、残りの輸入機(製造番号S.546を含む)の組立てと、国産機1機の製造が行われました(参考1、24)。
輸入機の特徴
こうした輸入機と国産機の違いとして、輸入機は胴体尾部にショート社の社名の表示がある(参考23)、「艇体後部に数字が書かれている」(参考9、10)といった特徴が指摘されています。こうした特徴を持った輸入機と思われるF-5号飛行艇の写真を調査したところ、輸入1号機の他に6機、合わせて7機分の写真が見つかりました。下に挙げる「2」「4」「6」「7」「8」号機の写真は、日本航空協会が所蔵するものです。また、『日本航空機総集 第六巻 輸入機編』(参考23)には3号機、『イラストで見る日本陸・海軍機大図鑑 零戦と黎明期の日本海軍機編』(参考12)には7号機の写真が掲載されていました。
以上より、大正十(1921)年に輸入したF-5号飛行艇は少なくとも8号機まであり、うち7機の存在が写真で確認できます。したがって、輸入機の機数については前述の通り6機説、9機説、12機説がありますが、6機説は棄却できます。輸入機の数は9機説か12機説に絞れます。 |
日本航空協会の所蔵するF-5号飛行艇輸入機の写真 |
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以上をふまえ、輸入機と思われる機体の特徴をまとめると、以下の様な表となります。 |
号機 |
艇体後部の番号 |
胴体尾部側面の製造番号 |
出典 |
1号機 |
なし |
S.547 |
日本航空協会所蔵写真(野沢正氏旧蔵資料)および参考12 |
2号機 |
2 |
不明(写真が不鮮明のため) |
日本航空協会所蔵写真(宮原旭氏旧蔵資料) |
3号機 |
3 |
不明(写真が不鮮明のため) |
『日本航空機総集 第六巻 輸入機編』(参考23)口絵 |
4号機 |
4 |
S.550 |
日本航空協会所蔵写真(宮原旭氏旧蔵資料) |
5号機 |
5(未確認) |
未確認 |
資料なし |
6号機 |
6 |
不明(写真が不鮮明のため) |
日本航空協会所蔵写真(宮原旭氏旧蔵資料、「宮原アルバム」の一葉として公開済) |
7号機 |
7 |
S.553 |
日本航空協会所蔵写真(宮原旭氏旧蔵資料)および参考12 |
8号機 |
8 |
S.554 |
日本航空協会所蔵写真 (野沢正氏旧蔵写真) |
9号機以降 |
9〜(未確認) |
未確認 |
資料なし |
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上の表から、判明した輸入機の艇体後部の番号と、製造番号の順番は一致しているため、製造番号が不明の機体についても、推定が可能です。例えば、1号機の製造番号はS.547で、4号機の製造番号はS.550なので、その間の2号機の製造番号はS.548と推測できます。同様に、6号機の製造番号はS.552でしょう。今後の新たな写真の発見が待たれます。
以上の大正十(1921)年に輸入された機体は、いずれもロールス・ロイス製のイーグルエンジンを装備していました。1922年には、ネイピア製のライオンエンジンを装備した機体を3機輸入し、呉で組み立てたとの説があります(参考1)。ただ、資料は少なく(参考1: p.153-155、p.504)、日本の主な文献には記述がないことから、詳細は不明です。
F-5号飛行艇の映像
また、調査を進める過程で、国立映画アーカイブがF-5号飛行艇の映像を所蔵していることが分かりました。映像の7分14秒から9分20秒まで、F-5号飛行艇の飛行準備や、飛行する様子を視聴できます。
山階宮御所藏映画 大正十二年五月 | フィルムは記録する - 国立映画アーカイブ歴史映像ポータル -(参考19)
この映像の収録と同時に撮影されたと思われる写真を、当協会は所蔵しています。
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F-5号飛行艇の飛行準備作業中、機体と山階宮ら海軍士官を収めた一葉。
映像の7分55秒〜8分22秒を参照。
(宮原旭氏旧蔵、『男爵の愛した翼たち(下)』(参考22)既出写真) |
F-5号飛行艇に搭乗した山階宮。
映像の8分44秒〜8分49秒を参照。
(宮原旭氏旧蔵) |
映像と写真を見ると、機体は、胴体尾部にショート社の社名があることから、輸入機です。艇体後部に番号が無いことから、輸入1号機か、他の写真が確認されていない輸入機の可能性があります。また、山階宮の他にも様々な海軍人が映りこんでいますが、誰が居るか詳しくは不明です。しかし、左上の一枚で並んでいる海軍将校の中央、サングラスをかけた士官に着目してみると、飾緒を身に着けていることが分かります。飾緒を着用するのは将官、参謀、副官、皇族附武官(参考5)なので、この場合は山階宮附の武官と考えるのが自然です。映画の1923年5月時点で、山階宮附の武官を務めていたのは、横須賀海軍航空隊附の海軍中佐、平田昇です(注5)。
このように、日本航空協会所蔵資料と、国立映画アーカイブ所蔵資料を照合すると、同じ事柄に関する資料が見つかることはたびたびあります。2024年11月の今月の一枚「100年前、摂政宮の霞ヶ浦海軍航空隊行啓」も併せてご覧ください。
F-5号飛行艇の国産化・改造型試作
以上の様に、ショート社からの部品供給と製作指導を受けてF-5号飛行艇の製作を続け、生産技術を習得した日本海軍は、広島県呉に大正十(1921)年十月に新設した呉の広海軍工廠航空機部と、愛知時計電機株式会社(後の愛知航空機)において、本格的な国産化に乗り出し、最終的に輸入機と合わせて約60機を生産しました(参考1、11、24、25)。
この国産化の傍らで、改造型の試作も行われました。野沢正氏は、この改造型について、以下のように述べています。
広廠発動機工場では、大正13年8月にロレーン400HPの国産化に成功したが、翌14年にこの発動機を装備した改造型を製作し、あらためてF-1号と称し、さらにロレーン450HPに換装した試作型をF-2号と称して、制式化を予定したが、すでに旧式になったため、実験だけで量産には至らなかった。
ほかにイーグル直結型360HP×2で、発動機まわりをナセルで近代化整形し、2翅プロペラ、ランブラン式冷却器とした改造型、その他、機体の一部を改修したものも試作されたが、実施部隊に配置されたいわゆる生産型は、舶着のF-5号をほとんどそのまま国産化した同型で、一般にF-5号または単にF飛行艇とよばれた。 |
野沢正編著、1982、「海軍F-5号飛行艇」『日本航空機総集 第三巻 川西・広廠編』(参考24):p.171-172 |
また、野沢氏は、後年この『総集』シリーズをもとに編集した『日本航空機辞典』(参考25)でも、以上の説明を踏襲した解説を付しています。他にも、こういったF-5号飛行艇の艇体にロレーンエンジンを搭載した、とする文献はあります。『日本の名機百選』(参考9)は、横須賀で撮影された「ロレーヌ450馬力エンジンを装備」したF-5号飛行艇とされる写真を掲載しています。ただし、F-2号については言及していません。
このように、F-5号飛行艇は国産化され、様々な改造型が製作された、とされています。
F-5号飛行艇改造型:イーグル直結
こうした改造型のうち、野沢氏の述べる「イーグル直結型360HP×2で、発動機まわりをナセルで近代化整形し、2翅プロペラ、ランブラン式冷却器とした改造型」については、写真で存在が確認されています。オリジナルは4枚プロペラでしたが、この改造型では、エンジンからプロペラへの減速ギア機構を取り外し、直結した結果、プロペラの回転速度が大きくなったことに合わせてプロペラの枚数が2枚に減っていると考えられます。

F-5号飛行艇改造型(小森郁雄氏旧蔵、日本航空協会所蔵写真) |

F-5号飛行艇改造型(小森郁雄氏旧蔵、日本航空協会所蔵写真) |
F-1号、F-2号:野沢氏の提唱する通説と、実態
F-1号、F-2号について、前述の通り、野沢氏はそれぞれF-5号飛行艇にロレーン400馬力とロレーン450馬力を搭載した改造型とし、制式化には至らなかった、としています。ロレーン400馬力というのは、フランスのロレーヌ・ディートリッヒ社の開発したロレーヌ12D型エンジン(V型12気筒400馬力)で、ロレーン450馬力というのは、同じくロレーヌ・ディートリッヒ社のロレーヌ12E型エンジン(W型12気筒450馬力)のことです(参考11)。日本海軍ではそれぞれ「ローレン400馬力」および「ローレン450馬力」と呼ばれました。しかし、この野沢氏によるF-1号とF-2号の記述に対しては、近年、史料で確認できなかったり、矛盾があることから、疑問符が付いています(注6)。
そもそも、F-5号飛行艇の搭載していたエンジンは本来、ロールス・ロイス製のイーグル(V型12気筒360馬力)でした(参考9、10、23、24、25)。イギリスのネイピア社製のライオン(W型12気筒500馬力)搭載機も輸入されたとする文献もあります(参考1)が、詳細は不明です。
ここで、戦後の文献から当時の資料に立ち返りましょう。海軍の史料を参照します。海軍は、大正十二(1923)年十一月二十二日に「エフ」五飛行艇を兵器に採用しました(参考2)。また、海軍が定めた「航空機の名称」をもとに整理した、大正十一年から昭和七年までの各時期におけるF-5号、F-1号、F-2号飛行艇の特徴は、下の表の通りです。
航空機名称制定年月日 |
名称 |
兵器採用年月 |
記事 |
大正十一年一月二十一日(達九) |
「エフ」五飛行艇 |
記載なし |
「ローレン」四百馬力又は「ロールスロイス」三百五十馬力発動機二基装備 |
大正十三年四月二十一日(内令兵七) |
「エフ」五飛行艇 |
記載なし |
「ロールスロイス」三百五十馬力発動機二基装備 |
昭和二年五月十二日(内令兵一九) |
「エフ」一号飛行艇
「エフ」二号飛行艇 |
大正十二年十一月
大正十二年十一月 |
「ロールスロイス」三百六十馬力発動機二基装備
「ローレン」四百馬力発動機二基装備 |
昭和三年八月十七日(内令兵二四) |
「エフ」一号飛行艇
「エフ」二号飛行艇 |
大正十二年十一月
大正十二年十一月 |
「ロールスロイス」三百六十馬力発動機二基装備
「ローレン」四百馬力発動機二基装備 |
昭和四年四月十二日(内令兵一七) |
「エフ」一号飛行艇
「エフ」二号飛行艇 |
大正十二年十一月
大正十二年十一月 |
「ロールスロイス」三百六十馬力発動機二基装備
「ローレン」四百馬力発動機二基装備 |
昭和六年四月十七日(内令兵八) |
「エフ」一号飛行艇 |
大正十二年十一月 |
「ロールスロイス」三百六十馬力発動機二基装備 |
昭和七年八月二十五日(内令兵四二) |
「エフ」一号飛行艇 |
大正十二年十一月 |
「ロールスロイス」三百六十馬力発動機二基装備 |
(『海軍制度沿革』九巻(参考3)p.780-786(418〜421コマ目)より抜粋して作成)
上の表より、様々なことが読み取れます。まず航空機名称の経年変化を見ると、「エフ」五飛行艇の名称は大正十三(1924)年まで確認できるものの、昭和二(1927)年以降は無く、代わりに同じエンジンを持つ「エフ」一号がリストアップされています。次に、表の「エフ」五飛行艇に着目すると、大正十一(1922)年時点では「ローレン」四百馬力または「ロールスロイス」三百五十馬力装備となっているのに対し、大正十三年時点では「ロールスロイス」三百五十馬力を装備した機のみとなっています。また、表の「エフ」一号飛行艇と「エフ」二号飛行艇の採用年月は大正十二(1923)年十一月となっています。これは、「エフ」五飛行艇が採用された年月と一致しています。加えてエンジンに着目すると、「ロールスロイス」はずっと存在していますが、昭和二(1927)年から三百五十馬力から三百六十馬力に変わっています。「ローレン」四百馬力は、大正十一(1922)年には既に登場していますが、大正十三(1924)年に表から姿を消し、昭和二(1927)年に再登場、その後昭和六(1931)年にはまた表に記載されなくなっています。
以上より、次の仮説が浮上します。
すなわち、F-5号飛行艇は、イーグル(V型12気筒360馬力)を搭載した型と、ロレーヌ12D(V型12気筒400馬力)を搭載した型の二種類が制式機として運用されることになりました。その異なるエンジンを搭載したバリエーションを区別するため、F-5の「5」を省略し、前者をF-1号、後者をF-2号と改称した、ということです。
以上の仮説は、海軍の史料だけでなく、『昭和五年 航空年鑑』(参考13)、『有終』18巻11号(参考6)、および『我らの空軍』(参考14)といった当時一般に刊行された書籍や、現存するF-5号飛行艇とF-1号のプロペラへの刻印(参考12)といった実物資料によっても裏付けられます。
また、F-5号飛行艇の艇体にローレン450馬力(W型12気筒ロレーヌ12E)を搭載した機体は、『日本の名機百選』(参考9)に記述があり、野沢氏の説によるとF-2号とされていますが、写真が残っておらず、存在が確認できません。イーグルやロレーヌ12DはV型12気筒、ロレーヌ12EはW型12気筒のエンジンです。イーグルはシリンダーが2列、ロレーンはシリンダーが3列に並んでいるため、マフラーもイーグルは2本、ロレーンは3本となるのが自然です。F-5号飛行艇の写真は確認できる限り全て、1つのエンジンからマフラーが左右に2本出ており、マフラーが3本出ているF-5号飛行艇の写真はありません。『日本の名機百選』(参考9)で紹介されている、「ロレーヌ450馬力エンジンを装備した」とされる写真も、他のV型12気筒エンジン搭載のF-5号飛行艇に見られる、2本のマフラーがエンジンの左右両側から始まり、エンジンマウントを避けるように外側に湾曲しながら上翼上面で合流するかのように伸びている特徴的なシルエットを確認できます。ロレーヌ12E(W型12気筒450馬力)搭載機の写真ではないと考えるのが自然です。
冒頭の「Y8」の写真の特徴
ここで、冒頭に紹介した、ラダーに「Y8」と書かれた写真を見ると、他の機体に無い特徴が分かります。それは、垂直尾翼にモザイク模様があることです。この「Y8」の写真は他にもあり、全てにモザイク模様があります。
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F-5号飛行艇「Y8」の写真(宮原旭氏旧蔵、日本航空協会所蔵) |
F-5号飛行艇「Y8」の写真(宮原旭氏旧蔵、日本航空協会所蔵) |
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上の写真の拡大。「SHORT BROS」のように読める。 |
上の写真の拡大。「SHORT BROS」と読める。
製造番号も、「S.55」まで読める。 |
上の写真を見ると、不鮮明ながらも後部胴体側面に「SHORT BROS」と読める表示があることから、「Y8」は輸入機の可能性が高いのですが、輸入機の組立てられた順番に記入されたという胴体側面の番号はありません。垂直尾翼のモザイク模様の理由は不明で、謎が残る写真です。 |
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今回、F-5号飛行艇の写真の紹介と併せて、現在詳細が分かっていないF-1号、F-2号についても考察しました。 |
航空遺産継承基金では、今後も引き続き所蔵資料の保存・調査・公開に取り組んで参ります。 |
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注
注1) |
F-5号飛行艇は、他に「フェリックストウF.5」「F.5号型大型飛行艇」「F-5号大飛行艇」「ショートF.5型」「F.5型飛行艇」「F.5号飛行艇」「F.5飛行艇」「エフ五飛行艇」「F五飛行艇」「F5飛行艇」「F5号艇」「F5艇」「エフ五号」「エフ号飛行艇」などと呼ばれるが、ここでは、『日本航空機辞典〔上巻〕』(参考25)に従い、「F-5号飛行艇」で統一した。 |
注2) |
海軍機の尾翼に書かれた「呼称番号」は、大正十一(1922)年以降、アルファベットとアラビア数字で記入する様に海軍省から達が出ていたが、大正十五(1926)年に達が改正され、カタカナとアラビア数字の組み合わせとなった。(参考4、12) |
注3) |
日本の主な文献は、ショート社から「6機分の材料」の供給を受けた、としている(参考9、12、24、25、26)。
なお、『日本の名機百選』(参考9)および『日本の名機100選』(参考10)は、前述のとおり合計6機分の機材提供を受けた、とする一方、輸入したのは9機で、それぞれ胴体後部に1〜9の番号が書かれたとする立場に立っており、一見整合性が取れない記述となっている。
一方、藤田俊夫(参考22)は、「英国資料では計12機(イーグル付きS.546〜554、ネピア・ライオンエンジン付S.555〜557)を日本に輸出」した、とする。この「英国資料」は、参考文献に挙げられており、同様の記述があるShort Aircraft since 1900 (参考1)と思われる。 |
注4) |
背景を見ると、宮原旭氏の所蔵していた写真アルバムに収められた海防義会KB試作飛行艇の写真(下写真)と撮影地が同じである。F-5号飛行艇輸入1号機の写真は、組立てが行われた1922年撮影であろう。一方、海防義会KB試作飛行艇の写真は、同機の横須賀海軍工廠造兵部での組立てが始まった1924年7月(参考25)以降の撮影であり、2年ほどの時期のずれがある。この間に後景の高台の建物が無くなり、クレーンが建て替わっている。2年という短期間にこうした風景の変化が起きた理由は不明だが、1923年に起きた関東大震災の影響も考えられる。
また、この宮原旭氏アルバムに写っているクレーンや、クレーンの右側に見える小屋が写った写真は、当協会で複数枚所蔵している。小森郁雄氏、野沢正氏、宮原旭氏が所蔵していた写真である。下は、小森郁雄氏の所蔵していたアルバムに貼られた、海防義会KB試作飛行艇の写真である。
右側の2枚は、宮原旭氏アルバムの写真と同じクレーンが写っている。
また、右下の1枚は、クレーンの右下の小屋や、岸壁の形も一致している。背景が白いのは、おそらく海軍の検閲で塗りつぶされたためであろう。水平線が不自然である。 |
注5) |
1922年12月付で、海軍中佐の平田昇、鳥居村治、緒方末記の3名が、武彦王の皇族附武官兼横須賀海軍航空隊附となっている(参考15)。その後、鳥居村治と緒方末記は、1923年3月末付けで職を免ぜられ待命となったため、映像が撮影されたとされる1923年5月時点での山階宮武彦王附武官は、平田昇海軍中佐のみとなる(参考16)。平田の名は、映像の他のシーン(9分38秒)にも「平田御附武官」として登場している。
なお、山階宮武彦王と平田昇は、その後1924年4月付で、ともに横須賀海軍航空隊附の職を免ぜられ、戦艦日向へと配置換えとなっている(参考17)。1924年11月付で、平田昇は皇族附武官兼日向乗組の職を免ぜられ、第一遣外艦隊参謀となっている(参考18)。 |
注6) |
『イラストで見る日本陸・海軍機大図鑑 零戦と黎明期の日本海軍機編』(参考12)p.135は、野沢氏の記述(F-1号のエンジンはローレン400馬力)と、現存するF-1号のプロペラの刻印(ロールスロイス360馬力とある)との矛盾を指摘している。 |
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参考資料リスト
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一般財団法人 日本航空協会
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