News Release 一般財団法人 日本航空協会
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重要航空遺産
九一式戦闘機(埼玉県所蔵)について

所 在 地 所沢航空発祥記念館
解説  日本の航空産業は欧米諸国の航空機の模倣やライセンス生産などを通して、設計生産の初歩を学んだ。その後、外国から招いた技術者の指導の下開発を進め、日本人技術者を養成すると共に、ライセンス生産により生産のノウハウや生産設備を整え自立に至った。
 九一式戦闘機は中島飛行機製作所(1931年に中島飛行機(株)に変更)が1927年、フランスから招いた技師の指導の下、日本人技術者も協力し設計開発を進めた機体で、1931年に日本陸軍に制式採用された。それまでの経験豊富な複葉形態から、軍の要望により新たな単葉パラソル形態を採ったこともあり開発は困難を極め長期間を要した。しかしながら、試作原型機の設計だけでなく、試作機による飛行試験結果などを反映する改修改良などを通じて、日本人技術者は、後に純国産機を生む基礎となる設計開発の手法の多くを学んだ。その知見を元に中島飛行機が後に開発したのが一式戦闘機「隼」に代表される第2次世界大戦で日本陸軍が使用した主力戦闘機群である。また、戦後初の国産輸送機となったYS-11の開発にも、この間に経験をつんだ中島飛行機の技術者が参加した。
 九一式戦闘機は最大速度が300km/hを超えるなど、国産戦闘機が欧米航空先進国の水準に近づいた初めての機体であり、胴体はアルミニウム合金の金属製応力外皮構造、主翼は高張力薄鋼板の骨格に木製部品、羽布張りという木金混製構造の高翼単葉形態である。同機には主に搭載するエンジンの違いから一型および二型があるが、全生産機数は450機程とされている。

 所沢航空発祥記念館に展示される九一式戦闘機は、第2次世界大戦後まもなく宮城県在住者が購入したものであり、翼やエンジンは残念ながらその時点で既に失われていた。現存するものは垂直安定板を含む胴体および主脚柱であり、それらに残る番号および銘板から、「九一式戦闘機(二型)」、製造番号「第237号」、製造年月が「昭和8年1月」、組立検査・飛行検査が「昭和8年2月」と判明している。また、胴体にいわゆる「日の丸」がないことから、1937年2月1日に通牒された「陸軍軍用航空機標識規定改正の件」を反映していることが判り、それ以降も現役として飛行していたと思われる。

 同機は、胴体内外部等の状態や現在も残る塗装およびその上に書かれた情報などから、戦前の使用当時の状態を保っていることが判っている。そのため機体固有の情報に加え、機体を製造するために必要とされた技術や材料、工作方法など1930年代の日本の航空産業の技術水準や当時の工員の工作水準、また、この機体を製作し使用した人々が関った痕跡など多くの情報を現在に残している。長期間屋内に保管されていたため金属材料の劣化も比較的進行せず保存状態も良好で、一部腐食している箇所もあるが、展示場所の温湿度環境や機体の状態を常に記録監視するなどして、貴重な航空遺産を将来に遺すための処置が施されている。

 埼玉県が所有する九一式戦闘機は、航空技術史の上からも日本の航空産業が海外の追従から自立に移る転換期の設計生産の状況を示すと共に、当時の国産技術の独立政策を物語る代表的な航空機といえる。また、400機以上生産された中で現在に残る唯一のものであり、さらには1930年代にわが国で生産された航空機で、現在にまで当時の状態を保っている数少ない例として、きわめて貴重である。
重要航空遺産 九一式戦闘機

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2008.3.28から設置