シンガポール今昔とエアショー

英国王立航空協会との共同講演会

 2008年2月19~22日、シンガポール・エアショーの開催期間(2月19日~24日)にあわせ、日本航空協会を代表してシンガポールへ出張しました。出張目的は、シンガポール・エアショーの取材もさることながら、2月20日に催された現地の英国高等弁務官主催のレセプションに出席し、参加者の英国の王立航空協会会長との打ち合わせをおこなうことでした。

 王立航空協会(Royal Aeronautical Society)は1866年に発足した伝統ある非営利団体であり、日本航空協会と同様に、航空宇宙関連の進歩発展のため、セミナーや無料講演会の開催、航空宇宙関連図書館の運営をはじめ様々な活動をしています。

 今年(2008年)は日英外交関係開設(日英修好通商条約締結)150年であり、英国大使館をはじめ、各界が協力して大型交流事業“UK-JAPAN2008”が開催される予定です。英国大使館を通じて、王立航空協会から当協会へ日本での共同講演会の開催について打診をうけ、その打合せを、シンガポールでの英国高等弁務官主催レセプションの場を借りておこなうことになったのです。

 高等弁務官というのはどんな存在で何をしているのか全く知りませんでした。今回のシンガポールへの渡航で、高等弁務官というのは、英国連邦の国々では大使のかわりに英国連邦内の国々に派遣される存在であることを知るにいたりました。つまり、シンガポールでは英国大使や、マレーシア大使、オーストラリア大使は存在せず、かわりに高等弁務官が存在するわけです。

 Paul Madden高等弁務官の夫人が私を王立航空協会のDavid Marshall会長に引き合わせて下さいました。王立航空協会事務局長にも挨拶することができました。そして、日本航空協会と王立航空協会は今年(2008年)10月もしくは11月の夕刻、日本航空協会の建物、新橋の航空会館7階の大ホールでの共同講演会の実現に向けて、今後、密に連絡をとっていくことを確認しました。

1973年、初めてのシンガポール

 振り返ってみると、1973年3月、初めて踏んだ外国の土がシンガポールでした。当時、大学生だった私は、東南アジア6ヶ国を一緒に旅行する予定だったタイ国からの留学生が突然、病死し(解剖の結果、急性心不全とされました)、彼女の日本での生活をバンコクに住む彼女の母親に報告する必要もあり、旅行をキャンセルすることなく、東南アジア各国を40日間一人旅することになりました。そして、最初の訪問国、シンガポールに降り立ったのでした。

 日本のYWCAで事前に予約したフォート・カニングの丘のYWCAに宿泊し、そこで知り合ったオーストラリアからの旅行者と一緒に市内観光ツアーに参加したり、シンガポールの対岸にあるマレーシアのジョホール・バルへの日帰りバス旅行もしました。今でもはっきりと記憶しているのは、観光バスの20台前半の男性ガイドが「我々の行政府は腐敗と無縁であり、役人はとても有能である」と誇らしく語った様子でした。

 シンガポールは、1965年8月9日にマレーシア連邦から分離独立しています。私がシンガポールに最初に足を踏み入れた1973年は、分離独立からわずか8年後のことになります。今日、シンガポール航空をはじめ、様々な分野でのシンガポールの繁栄を見聞きするとき、独立8年後に遭遇したシンガポールを誇らしげに語る年若き観光ガイドの発言にみられるように、当時のシンガポールの人々の「新興の意気に燃える」思いが今日の繁栄の原動力になったのだと思いました。

 市街の一等地にある戦争記念公園の「日本占領時期死難人民記念碑」は日本軍の犠牲となった中国人、マレー人、インド人、ユーラシアン(欧亜混血)を表す4本の柱が寄り添い、空に向かって伸びている記念碑で、1967年に日本とシンガポール両政府により建立されました。1973年に観光バスから降りて見学した、広大な敷地にそそり建っていた68メートルの慰霊碑が、今回、目立たなくなっていることに気づきました。公園のまわりに高層ビルが迫り、慰霊碑がかってよりも、はるかに小さく見えたことに驚きました。35年の月日の経過を感じました。

シンガポールの分離独立は追放に等しかった

 2001年、シンガポールを再訪した際に現地の博物館に立ち寄りました。そこで、1965年のマレーシア連邦からの分離独立の際の初代シンガポール首相、リー・クアンユーの涙に気づきました。それは博物館の天井近くに設置されたビデオでたえず放映されていた分離独立当日の彼の姿でした。沈痛な面持ちでうつむき、目に涙を浮かべているのです。

 リー・クアンユーの涙が何を意味していたのかは、その時はよくわかりませんでしたが、すぐに理解するにいたりました。つまり、華人が大多数をしめるシンガポールが望んでマレーシア連邦から分離独立したのではなく、イギリスからの独立を一緒に戦った盟友アブドゥル・ラーマン(マレーシア連邦の初代首相)が華人中心のシンガポールを嫌い、いわば、一方的に切り捨てた結果の分離独立だったのです。

 淡路島や東京23区と同じくらいの大きさしかなく、食料はもとより、水すら自給できないシンガポール。そのリーダーであったリー・クアンユーの涙をうかべた苦渋にみちた表情は、彼の絶望の大きさを示していました。しかし、シンガポールは災いを福となし、今日の繁栄を築きました。今回見学したアジア最大のエア・ショーを滞りなく実施しているその姿には敬意さえ覚えました。

Fine country....

 シンガポールが罰金主義の国であることは良く知られています。シンガポールの繁栄が語られる際に、しばしば指摘されるのが、シンガポールでの生活の隅々にいきわたる政府の強いコントロールです。管理主義・厳罰主義のシンガポールの息苦しさを嫌う優秀な若いシンガポール人が海外へ流出することも多いと聞いています。

 今回の出張で、たまたま乗ったタクシーの運転手との会話から、シンガポール政府の強い管理の一面をうかがい知ることができました。タクシーのラジオから流れてくる歌を聞いて、私が「この歌は中国のどこの地方の方言で歌われているの?福建語?潮州語?」と質問したところ、「マンダリン(中国の普通語)ですよ。中国語の方言は放送禁止言語なんですよ」との答えでした。驚いた私が「それは良くないですよ。自国の文化の多様性や豊かさを自ら否定しているのと同じです」と言うと「そのとおりなんだ」と運転手がぼやきました。

 シンガポール政府が国民の英語力向上に力をそそぎ、英語を自由に使いこなす優れた労働力がシンガポールの経済発展を支えたと言われていますが、中国の経済発展にともない、中国語(普通語)の習得も政府が強く推進していることがタクシー運転手との会話でわかりました。

 現地で、シンガポール人の古くからの友人2人と食事したときにも、政府のコントロールについて、思いをはせる瞬間がありました。丁度、ユース・オリンピックの最初の開催国がシンガポールに決定し、国民が喜びに沸き立った直後でもあり、話題がこの誘致成功に及びました。私が「東京都の石原知事が2016年のオリンピック誘致にやっきになっているけれど、都民のなかには反対している人も少なくない」と言ったところ、友人の一人が「我々は政府のすることには素直に従い、反対はしないのよ」となかば自嘲的に語り、別の友人もコックリうなずき同意を示したのでした。冗談めかした発言のなかに、シンガポールの現実が見え隠れしているように思いました。

ビジット・ジャパン・キャンペーンの浸透

 宿泊ホテルで、現地のテレビを見ていて、かなり頻繁にビジット・ジャパーン・キャンペーンの広告が放映されていることに気づきました。雪が降り積もる温泉の風景、紅葉の京都、僧侶と寺、近代的な秋葉原、現地の方が一度は行ってみたいなと思わせるような良くできた映像でした。インパクトのある映像に、制作費を惜しまずに制作されたことをうかがい知ることができました。

 街で立ち寄った複数の店で、私が日本から来たとわかると、ごくごく普通の中年男性や若者の店員が、目を輝かせ「日本は物価が高いけれど、良い国だ。今度、旅行に行くんだ」「東京と大阪ではどっちがいいか? 食べ物はどっちが美味しいか? 買い物はどっちが安いのか?」など、答えにくい質問を次々と投げかけられました。ビジット・ジャパーン・キャンペーンがシンガポールの庶民レベルまで広がり、浸透していることを実感しました。

シンガポール・エアショー

 従来、アジアン・エアロスペースという名称で隔年、シンガポールで開催されていた航空ショーが、今年から運営主体の変更により名称が変わり第一回シンガポール・エアショーとして開催されました。世界有数の規模でありアジア最大の航空ショーです。2月19~22日が航空宇宙防衛産業等の関係者のみを対象とし、23~24日は一般に公開されました。出展企業・団体は827、参加国は41ヵ国、業界関係者の入場者は約3万5千人、総入場者は約9万人でした。

 開幕式典で挨拶に立ったリー・シェンロン首相(リー・クワンユー顧問相の長男)は、「シンガポール・エアショーは、航空宇宙産業に対する我が国のメッセージ。このイベントが、同産業の活性化に大いに貢献するものと確信している」「シンガポールの航空宇宙産業は昨年10.4%の成長をとげた」「原油価格の高騰と米国経済成長の減速という問題はあっても、長期的視点に立てば、新航空路線の増大と廉価航空運賃の登場で、旅客機の利用者は増え続け、世界とシンガポールの航空宇宙産業は大いに発展するであろう」と述べました。

 国を挙げての一大イベントとして、連日テレビでも報道されていました。特にシンガポール空軍のエアロバティック・チームBlack Knightsの人気はたいへんなもので、英雄扱いでした。会場では連日、Black Knightsメンバーのサイン会がおこなわれ、テレビの女性アナウンサーがメンバー6人全員のサインをTシャツに書いてもらい、はしゃいでいたのが印象的でした。

 会場を歩きまわり目にしたアジアの参加国のなかで、大いに存在感を示していた国について述べたいと思いす。トップは地元シンガポール。その代表的な会社である“ST Engineering”は会場で最も広いスペースを占め、航空宇宙防衛関連のグローバル企業として圧倒的な存在を誇示していました。

 中国もCATIC(中国国家航空技術輸出入公司)が広いスペースを占め、Ameco Beijingなどの展示も目立ちました。トータル20企業が出展しましが、2008年中の初飛行そして2009年中の営業飛行実現への期待が高まっている中国自主開発のコミューター旅客機「ARJ-21」の開発母体である中航商用飛機有限公司(ACAC)は参加していませんでした。

 韓国はKorea Aerospace Industries(KAI)が、Lockheed Martin社と共同で開発した超音速練習機のT-50 Golden Eagleの売込みのため、広いブースでアピールしていました。対抗機種はイタリアのAlenia Aeromacchi社のM-346です。両者ともに展示飛行(Flying Display)をおこないました。

展示飛行の詳細は以下のとおり。(2月20日と21日の場合)

12:15-12:35 シンガポール空軍 Black Knights(F-16 D+) Team Aerobatics
12:35-12:45 アメリカ空軍(F/A-18 ) Solo Aerobatics
12:45-12:55 Alenia Aermacchi(M-346) Solo Aerobatics
12:55-13:05 Korea Aerospace Industries(T-50) Solo Aerobatics
13:05-13:25 アメリカ空軍(F-16 Fighting Faslcon) Solo Aerobatics
13:25-13:33 Airbus(A380) Solo Flight
13:33-13:45 オーストラリア空軍 Roulettes(Pilatus PC-9) Team Aerobatics

 その他の屋内展示ですが、インドも、ロシアとの合弁で巡航ミサイル製造しているブラモス(BrahMos)、兵器開発の国防研究開発機構(DRDO)、Society of Indian Aerospace Technologies and Industries (SIATI)をはじめとした13企業が、広いスペースを確保して航空宇宙防衛関連の展示をおこないました。近い将来、中国とともに世界経済の牽引車となるインドの存在の大きさを感じました。

 欧米、アジア以外ではオーストラリアとイスラエルの展示が目立ち、特にオーストラリアは46社もの企業が参加しました。

 一方、日本関係の出展は2ヵ所しか確認できませんでした。使用ブースも小さく、その何倍もの広さの展示で存在を誇示する上述の国々とは対照的でした。防衛産業の武器輸出に制約がある日本の状況が反映されているのでしょうか? 

 屋外で航空機展示(Static Display)をおこなったのは、欧米・イスラエル以外では韓国のKAI(T-50)とインドネシアのIndonesian Aerospace、現地名PT Dirgantara Indonesia (PT DI)のみでした。PT DIが製造したインドネシア空軍の洋上哨戒機(CN 235-220)が展示されていました。以下、屋外会場で撮影した写真をご紹介します

執筆

横山 英利子

メール:sample@sample.com

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