逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(4)
– 航空輸送会社の誕生 –

欧米での航空輸送会社設立の動き

 第一次大戦中に製造された航空機は総計約17万機といわれる。終戦後はパイロットと飛行機があふれた。英国だけでも航空機約2万機が野ざらしになり、ほぼ同数のパイロットが糊口を凌いでいた。当然、その有効利用対策が政治問題になったが、巷は戦禍によって破壊され、鉄道網や幹線道路も寸断し、復旧への大きな障害になっていた。

 国内交通網の整備に限らず、英仏海峡の輸送手段や、遠く離れた植民地への輸送業務は急務であり、各国行政はいち早く航空輸送会社設立を模索していった。莫大な補助金を出す国の手厚い保護奨励政策が功を奏し、欧州各国で航空会社が乱立した。戦後一年間で、欧州で20に余る会社が興り、イギリスやフランス、オランダといった列強は、アフリカや中東、アジアの植民地への足として活用したのである。

 ベルサイユ条約によって軍用機の製造を禁止された敗戦国ドイツでは、その活路を民間航空に求めた。1919年2月にDLR(ドイツ空輸会社)が設立され、ベルリン・ワイマール間に航空路を開いた。次いでKLMオランダ航空が同年10月に設立された。後にKLM社長になるプレスマン退役中尉は、国際航空交通協会(International Air Traffic Association:IATA)を立ち上げ、欧州各国国際間の制度や法体系の相違から生ずる障壁の解消を試みた。これは現在、国際航空運送協会(International Air Transport Association:IATA)となって存続している。

 現在の英国航空の前身インペリアル航空は1924年設立、ドイツは1926年に18社が統合してルフトハンザ航空、やや後発の老舗である米国パンナムが、有名なホアン・トリップによって設立されたのが1927年だった。彼は30年間、社長として君臨した。エール・フランスも5社が統合して1933年に設立されている。

わが国航空輸送会社の萌芽

 わが国の民間航空輸送構想は、大正10年(1921)ごろから航空局への出願が絶えなかった。前掲の尾崎行輝は、伊勢神宮へ参拝する人々を対象とした、いわゆる参宮航空路計画を航空局へ申請したり、ツエッペリン飛行船に刺激されて、中国大陸での航空路計画等のアイデアをもっていたが、残念ながら実行されなかった。

 第一次大戦にフランス陸軍航空隊パイロットとして活躍したバロン滋野こと、滋野清武も、帰国後の大正10年(1921)5月に「航空路開拓計画案」を、誕生したばかりの陸軍省航空局へ提出したが、結局、却下されている。

 小資本の日本航空輸送研究所が、徳島県出身の井上長一によって堺市の大浜海岸に誕生したのは、その翌年6月であった。水上飛行場で、軍払い下げのファルマン式水上機(横廠式)や、イスパノスイザ式150馬力の伊藤式飛行艇を郵便機として改造し、大浜海岸から和歌の浦、徳島、そして高松へ郵便物を輸送するものだった。

 パイロットは海軍現役の西村英雄一等航空兵曹が、予備役教官として移籍、久保田二等操縦士などがいたが、異色なのは、ソウル出身の張徳昌である。張は伊藤飛行機研究所第1期生の人材で、のちに井上の娘・順子と結婚、大日本航空の機長として活躍、大戦を生き抜き、戦後は韓国空軍中将、空軍参謀総長まで栄進した。

 これに刺激される形で翌大正12年(1923)1月に朝日新聞社による東西定期航空会、次いで4月に川西資本による日本航空㈱が誕生した。

 東西定期航空会は、白戸飛行場と伊藤飛行場から機体と操縦者を提供してもらい、毎週一便で、浜松の三方が原を中継基地とし、東京(州崎埋立地第1号地)と大阪(城東練兵場)間の郵便飛行を開始した。距離約400キロ、飛行時間約4時間という時代だった。次第に便数も増えていったが、昭和3年(1928)秋からは、旅客輸送も開始された。

 操縦士の顔ぶれは一等操縦士が高橋信夫、島田武男、安岡駒好といった当代のトップ・クラスであった。二等が乗池判冶、小出菊政、杉本信三、謝文達、大蔵清三、片岡文三郎、大場藤次郎の10名だった。このうち、高橋、島田、杉本、小出は、若くして事故死している。この時代のパイロットは、明日をも知れぬ冒険野郎が活躍した時代である。

 日本航空は、東西定期航空会設立の3ヶ月後の大正12年(1923)4月に、関西財界のドン・川西清兵衛の肝いりで設立された。息子の竜三が社長、坂東舜一支配人の顔ぶれである。操縦士はリーダー格の後藤勇吉をはじめ、阿部勉、湯谷新、米沢峰蔵、信田五平治、諏訪宇一らの若手が顔をそろえた。同社は、大阪の木津川尻飛行場を基地として、水上機による別府、福岡への瀬戸内海定期航空を開始した。

大日本航空㈱設立の背景

 第一次大戦後、列強の国内外への航空路網拡大に、関心をよせていた航空局長官星野三郎陸軍予備役中将は、日本の植民地である朝鮮、満州、台湾への航空路網整備の必要性を痛感していた。これが契機となって昭和4年(1929)春に設立されたのが、国策会社の日本航空輸送㈱であった。

 この設立によって、東西定期航空会は、東京・大阪間の路線権を放棄させられ、逐次、他の路線も無償で日本航空輸送に提供する形になり、昭和10年(1935)には姿を消した。同時に日本航空も同じ運命をたどり、大阪・福岡路線をはじめ、順次、既成路線など、航空業務一切を無償で日本航空輸送へ提供することになった。

 哀れだったのは、これら民間航空で働いていた従業員で、彼らは職を失って路頭に迷った。それでも東西定期航空会は、朝日新聞社内に航空部を新設し、操縦士や従業員の生活を救済したが、日本航空の従業員約92名は路頭にまよった。ただ一人、海江田信武(海委3期)は、昭和3年(1928)11月に設立された川西航空機㈱に残って活躍した。

 日本航空輸送の操縦士の大半は陸海軍委託生出身で、小川寛爾、藤本照男(海委1期)、豊田晃(陸委4期)、加賀要助(海委2期)、森田勝人(海委3期)、安部藤平(海委5期)、機関士は吉田光雄(委託機関生1期)、高橋正(委託機関生2期)、鈴木米太郎(委託機関生2期)らが活躍した。
 
 運航開始は昭和4年(1929)4月1日だった。使用機はサルムソン2A2型複座機で、陸軍が偵察用に使用していた18機が払い下げられた。運航ダイヤは、毎日、東京・大阪間2往復、大阪・福岡(太刀洗)間1往復、蔚山・京城・平壌・大連間3往復で、貨物と郵便輸送が開始された。

 7月からは待望の米国製スーパー・ユニバーサル旅客機も就航し、本格的な旅客輸送も開始された。この機体は、当時としては最も安全性が高く、かつ性能、運航コスト、整備の面からも折り紙つきで、導入以来、約10年間使用された。

 昭和6年(1931)9月18日、奉天(今の藩陽)郊外の柳条湖事件が引き金になって、満州事変が勃発した。仕掛け人は関東軍で、翌年3月、関東軍は中国東北部を占領、満州国を建国した。これによって、日本の約2倍もの広大な土地への人員、軍需物資などの迅速な移動、さらに前線への弾薬、食料などの兵站補給線確保のため、満州航空㈱が設立された。この年9月のことである。

 日本は昭和8年(1933)3月に国連を脱退し、ドイツ、イタリアと共に枢軸国の道を歩んでおり、欧米列強からの孤立を深めていた。この不穏な国際情勢を敏感に感じとった軍部は、昭和13年(1938)11月に大日本航空㈱を設立し、日本航空輸送㈱は発展的に解消、より強固な国策会社として、日本国内外の航空輸送業務の全てを引き受けたのである。

 昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋付近での一発の銃声によって、不気味な対立を続けていた日中関係の緊張が一気に高まり、ついに武力衝突へと発展していった。これを受けて、さらなる北辺の守りを固めるために生まれたのが、中華航空㈱である。関東軍が生みの親であり、設立は13年(1938)12月だった。

 以来、終戦までの約7年間、大日本航空、満州航空、中華航空の民間航空3社が、戦時における帝国陸海軍の主力輸送部隊として活躍するのである。昭和17年(1942)に、シンガポールに設立された南方航空輸送部については、後述する。

逓信省航空局 航空機乗員養成所物語リンク

執筆

徳田 忠成

航空ジャーナリスト

参照 「航空機乗員養成所年表

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