逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(6)
– 草創期の運航要領 –

地文航法主体の運航

 戦前の飛行は原則として地文航法である。つまり、地上援助施設などなく、今でいう有視界飛行がすべてであり、下界の地形が唯一の航法の手段だった。それでも一般に、陸上を飛行する陸軍パイロットは、夜間飛行ができなければ一人前ではなかったし、海軍パイロットは洋上飛行を得意としていた。

 いずれにしても、将来は輸送機パイロットを目指している乗員養成所操縦生は、野外航法訓練がことのほか厳しかった。彼らは航路上の市街地や河川、山岳や鉄道線路、道路や海岸線等々の特徴を勉強し、頭の中に叩きこんだ。

 長時間の洋上飛行を強いられる海軍の航法訓練は、波頭航法と呼ばれる推測航法で、海軍独特のものだった。必死になって波頭が砕ける白い波の方向や波高を判断し、偏流角度を測定し、あとは目の前のコンパスの指針を信じて飛行した。

 原則として日中の飛行だったが、大日本航空をはじめ、航空各社の運航乗務員は、出発に際し、気象状況をつぶさに検討して出ていった。といっても、気象データも通信設定も、情報や精度が格段に低い時代であり、目的地が雨の場合は原則として飛行は中止であり、現況と予報との差が大きかったから、後は運を天にまかせて離陸するしかない。

 大袈裟ではなく、まかり間違えば死が待っている時代で、機長の責任は重い。濃霧の太刀洗から朝鮮半島南端の釜山へ飛行するときなど、海面すれすれに1時間余も飛行するときなど、機体は浪の飛沫で、ペンキを塗ったように真っ白になることもあった。

 厳禁されている雲中飛行を余儀なくされ、機体全体が氷結し、「かまくら」の中に居るような状態になって、死を覚悟したとか、雲を避けて上昇しているうちに5000メートル以上も上昇し、酸欠で失神状態になることもあったという。

 それだけに出発の可否は、機長の胸三寸によっていた。機長には絶対の権限があり、「よし、出発するからお客を乗せろっ!」という時代だった。一応、定期運航なので、悪天候だからと簡単に出発を拒否すれば、臆病者呼ばわりされかねない。苦渋の決断をして出発し、事故に遭遇することもあった。

 当時の操縦適性は、このような時の判断も重要なファクターの一つであり、自然淘汰されて真に適性のある者のみが生き残る非情の世界だった。無事に目的地に着陸したときの安堵感は、今の比ではないから週末になると、行きつけの料理屋で、芸者をあげてドンチャン騒ぎをやって命の洗濯をしたという。

中国大陸での運航

 厳しい運航環境では、中国大陸の飛行も半端じゃない。誤記が多い不正確な航空地図、通信網などない貧弱な地上施設、天気予報などは経験を積むしかない、不毛の大地である。快晴の日は、大海原と見まごう、なだらかな起伏がどこまでもつづく大草原、パオ(遊牧民の住処)が点在し、牛馬や羊が群れをなしてノンビリと草を食んでいる風景は、平和の園そのものである。

 しかし、そんな日は数えるほどしかない。しかも満州航空が運航を開始したころは、飛行場以外はすべて敵地のようなものだったから、不時着は、即、死を意味していた。

 4月から5月にかけて北満、黒竜江一帯や渤海湾に吹き荒れる黄砂に泣かされ、春から夏にかけての、天を突く巨大な積雲と豪雨は、昨日の不時着場が一瞬にして湿地帯へ早変わりしてしまう。河川のカーブは変形し、熟練したパイロットでも、容易にロスト・ポジションしてしまうのだ。

 秋は野焼きのおびただしい煙で視界が妨げられるが、足早にやってくる冬将軍は、日本人の想像を絶した。零下3、40度での運航は、電熱線の入った防寒飛行服を着込んでも、体の芯まで冷えこむ。早朝、エンジンを始動するだけでも1時間はかかるから、機関士は身を切るような寒さのなかで、作業しなければならない。ようやく離陸、凍り付いてガリガリの飯、索敵、露営、そして帰着の毎日なのだ。パイロットというやくざな商売を選んだ自分自身を恨んだという。

 徒手空拳の仲間たちは、お互いに自分の経験のすべてを出し合って情報交換し、天候の特徴をつかみ、地形を判断し、独自の航空地図を製作して運航要領を覚え、血と汗のこもった貴重な飛行マニュアルをつくって、毎日の飛行に立ち向かったという。

ZZ着陸法

 昭和4、5年には、航空無線局の設置がはじまり、航空無線通信士という職種も誕生した。沖縄をはじめ、鹿児島、台湾の宜蘭や上海など、約10箇所にレンジ・ビーコン(AN式)が設置され、航法も効率化したが、その運用については、ある程度の練度を要する使用法や、電波障害や戦時の電波封鎖によって、充分に機能を発揮することはなかった。

 昭和15、6年には、中尾純利、松井勝吾両機長が教官になって、ドイツのルフトハンザ航空で学んだ盲目着陸(ZZ着陸法)が訓練された。これは方向探知機(DF)を利用したもので、滑走路端300メートルの位置に羅針所が設置され、滑走路へ近づいてくる飛行機の電波を受信し、適宜、適切な指向性電波方位を機上に与えるもので、針路を修正しながら滑走路へ接近する方法である。なかなか練度を要したが、習熟したあとは効果も相当にあったようである。

逓信省航空局 航空機乗員養成所物語リンク

執筆

徳田 忠成

航空ジャーナリスト

参照 「航空機乗員養成所年表

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