モンゴルの歴史(14)  - The Land of Nomads –

1. モンゴルの独立

 モンゴル人民共和国は1945年のル-ズべルト、チャ-チル、スタ-リンによるヤルタ協定で国際的に独立が認められた。スタ-リンは対日参戦条件として外モンゴルの現状維持、即ちモンゴルを独立国として認めるもののソ連の勢力範囲であるということを認めさせたのである。モンゴルに対する主権を主張していた蒋介石とソ連との間に覚書が結ばれ、モンゴルでどちらの国に付くかの国民投票が行われた。この結果はソ連側に付くということに全票賛成であったため中国国民党もやむなく正式にモンゴル独立を認めたのである。ソ連は内モンゴルの中国主権を認めた。

 この後、モンゴルは独立国ではあるがソ連邦に組みこまれて1990年まで社会主義国としての歴史を歩むことになる。私の友人の知識人にソ連邦時代の感想を聞いたことがあるが、ロシア人には3等国民として支配され、米国の黒人のような扱いを受けたという。しかし、中国に支配されるよりは良かったという意外な返事が返ってきて驚いたことがある。中国に支配されてきた長い歴史から、中国に対するモンゴル人の抜きがたい嫌悪感が伺われた。
 1950年代からソ連、東欧の援助により道路、集中暖房付きアパート群などが整備されていった。
1958年遊牧民の集団化が急速に進みコルホーズに組織化された。国営農場も各地に作られ農業生産は国内需要を満たすまでに増大した。
ちなみに現在は農業生産物の自給率は約50%にまで下がり、残りは殆ど中国からの輸入に頼っている。
1960年憲法に社会主義国家であると明記された。
1962年アジアで唯一コメコンに加盟。
1963年中ソ対立には中立的立場であったが、対立が激化するとソ連に従い中国と対立するようになる。
1964年中国人労働者が全員引き揚げた。
1966年モンゴル人民共和国として国連に加盟。
1972年日本と外交関係を樹立。なお、先進国で一番遅く国交を樹立したのは米国で1987年であった。
1977年

日本はノモンハン事件の賠償として50億円の無償援助を支払い、ウランバートルにカシミヤ工場を建設。このカシミヤ工場ゴビカシミヤは現在も稼動しておりモンゴルの貴重な外貨収入を得てきた。なお、ゴビカシミヤは2007年に民営化された。

但し、中国がカシミヤ製造に本格的に乗り出し原毛をモンゴルよりも高く買い取り始めたため、中国に原毛を直接輸出する遊牧民が増えてモンゴルのカシミヤ生産量は頭打ちになっているという。

1989年ソ連ぺレストロイカの影響で民主化が始まる。
1990年複数政党制採用。日本と友好相互援助条約を締結。初の自由選挙で連盟政権誕生。
1991年

ソ連邦が崩壊。IMF、世界銀行に加盟。日本の海部首相が西側首脳として初めて公式訪問。

JICA派遣取り決め締結。この年より日本のODAなどの援助が急速に増加し日本はモンゴル最大の援助国となり、その後も毎年、世銀との共同議長国としてモンゴル支援国会合を開催している。ちょっと古い資料だが2004年までの累計は無償援助協力が688億円、有償は361億円。

なお、2004年当時のモンゴルの実質GDPは14.5億ドルで国家予算の1/3が外国からの援助であった。

また、中国、韓国などの海外出稼ぎ労働者のモンゴル送金額はGDPの10%に達している。2007年に来蒙した韓国の盧武鉉大統領が毎年1万数千人の単純労働者受け入れを表明したことからこの割合は更に増えるものと思われる。

1992年

新憲法を採択して国名をモンゴル国に変更。 この後、社会主義国が常としてきた住民の移動制限が撤廃されたため、ウランバートルの人口は総人口の1/4から一挙に1/3になり現在は1/2に近づいている。

これらの移住者が市郊外に勝手にゲルやバラックを建てて住み始めたが職にありつけた者は極一部であったためスラム化し、犯罪が急増した。特に民主化後の悪影響として極一部の成功者との間の貧富の格差が広がり犯罪は増加の一途をたどり現在に至っている。これら貧困層のための住宅建設、水道、集中暖房、医療施設などは今も殆ど手付かずで深刻な問題となっている。また集中暖房がないために安い石炭を炊事、暖房用に燃やすため、特に冬季は石炭火力発電所の排煙と相まって大気汚染が著しく、幼児や高齢者の呼吸器系障害が増加している。

1994年日本との航空協定締結。モンゴル航空の日本乗り入れが始まった。
1997年WTOに加盟。
2003年ロシアと旧ソ連時代の債務の97.8%免除の合意が成立し、残高2億5千万ドルの支払い完了。
但し、この多くは国内債務に振り替えられたため現在も国内経済への影響が残っている。
2004年欧州復興開発銀行(EBRD)に加盟。

2.日本人捕虜

 最初の前書きで触れておいたが日本人捕虜の悲惨な歴史を書いておきたい。
 1945年8月10日、この直前の8日のソ連参戦に続いてモンゴルも対日参戦。スターリンは国際条約に違反して満州から50万の日本人捕虜をソ連に移送した上で強制労働に投じた。

 その内の1万2千人がモンゴルに連行されて1947年の引き上げまでの2年間、強制労働に従事させられ1,600人がモンゴルで死亡している。

 モンゴルはノモンハン事件(モンゴルではハルハ河戦争)の日本侵略の賠償と見なしてこれら捕虜を首都ウランバートルの整備に投じた。日本人捕虜が建設させられた建造物はスフバートル広場周辺の政府庁舎、国立オペラ劇場、中央図書館、外務省、首相官邸、国立大学などで、全て現在も健在で使用されている。
 これらの多数の捕虜に対する住居、食料などの生活物資の全てが不足していたため、栄養不足と厳寒に耐え切れず次々に死亡していったと伝えられている。

 国交樹立後に墓参が始まり、民主化後には遺骨収集も行われて何箇所かに分かれていた日本人墓地は墓地跡として整備されウランバートルの北部に慰霊碑が建てられている。

 その当時のウランバートルはというと、1912年にボグト・ハーン政権が樹立された時には建物と言えば現在のスフバートル広場付近に寺院がいくつかあっただけで、その周りは全てゲル集落が囲んでいた宗教都市であった。1925年にやっと人口が6万1千人になったが約30%は僧侶であった。

 その後の弾圧で1935年には人口が半減、1940年では人口3万で僧侶は1,600人であったという。 

 当時の絵や写真を見るとコンクリートの建物などは殆どなく、そこに1万2千人もの日本人捕虜が連れてこられたのであるから、その悲惨さは容易に想像できる。

 彼らが建てた壮大な`ロシア風コンクリート建造物は、ゲル集落の真ん中に突如として現れた近代都市という感じであったろうと思われる。

執筆

加戸 信之

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

LATEST

CATEGORY