空のシルクロード  - 初風号、東風号の冒険 -

   本年が航空の100年の歴史の中で、どの様な年になるのだろうか。航空界にどんな風が吹くのだろうか。

 “風”は空気の流れであり、地球の自転によって起こる大規模な大気の環流(偏西風や貿易風)や気圧の差によって生ずる空気の流れ(季節風や海陸風)などがある。

 当然、航空と風は切っても切れない関係が有り、飛行機の名前で“風”にちなんだ名が付いたものが注目され話題になった時期があった。

 大正の末から昭和の初めにかけて日本中を湧かせた「初風(はつかぜ)」号、「東風(こちかぜ)」号による訪欧大飛行、「神風(かみかぜ)」号による日欧最短飛行時間の樹立のことを何かで読まれたご記憶がおありと思う。

 我々の先輩達が、大空を舞台に「航空の世紀」をきり開いた、冒険とロマンの物語、80年前にタイムスリップして、その感動のドラマを再現してみたい。

 「ニュースは空をかけめぐる」と題された「朝日新聞航空80年展」が、昨年(2005年)7月9日~9月25日までの間、朝日新聞社と日本新聞博物館の主催、横浜市や神奈川新聞と共に、当日本航空協会も後援して、横浜市山下町の新聞博物館で開催された。

 大正から昭和の航空史を物語る実物資料が一堂に展示され、航空機と新聞ニュースの歴史が興味深くうかがわれる催しであった。

 その中に、1925年(大正14年)、朝日新聞社により、社運を賭け、又、国家的事業としての国民の期待を乗せて敢行された「初風(はつかぜ)」「東風(こちかぜ)」2機による、「訪欧大飛行」成功の展示に引きつけられた。

 時代背景は後で触れるが、あの大正末期、ライト兄弟が初飛行に成功してからわずか22年後、東京からピョンヤン、ハルピン経由、シベリアを横断してモスクワに至り、更にパリ、ロンドン、ローマと前人未踏のコースの大冒険飛行が、4人の日本人飛行士の手で行われ成功したのである。現在で云えば、米国のアポロ計画による月への有人宇宙飛行成功に匹敵する偉業であると云えるかも知れない。

 1925年(大正14年)7月25日の朝日新聞には次のように報ぜられている。『挙国の感激を乗せて訪欧機けさ出発す。歓呼とどろく代々木原頭、歴史的光景を残していざ航程2000里』

 1925年7月25日から10月27日までの95日間、飛行実日数28日間、総飛行距離1万7403キロ、総飛行時間116時間21分の大飛行の初日であった。

機材仏製ブレゲー19A2型機2機
飛行士初風操縦士―安部浩(全体のリーダー)
  機関士―篠原春一郎
 東風操縦士―河内一彦
  機関士―片桐庄平

 東京 代々木練兵場に集まった20万人の大歓呼に送られ、当時の日本統治下の朝鮮、満州を縦断し、未踏のシベリア圏に入り、シベリアの各地、バイカル、ウラルなどを経由して、外国機としてははじめてモスクワに到着して大歓迎を受けた。このあと、第一次世界大戦に敗北したドイツのベルリン、つづいて、当時世界でもっとも航空機産業が発展していたフランスのパリ、次いでロンドン、ブラッセルを経てローマへと至る、朝日新聞社が挙行した大飛行プロジェクトであった。

 その後にも、同じ朝日新聞が1937年(昭和12年)4月に敢行した国産機「神風」号による東京―ロンドン間の欧亜連絡記録飛行や毎日新聞社が敢行した1939年(昭和14年)8月の「ニッポン」号による世界一周飛行の偉業などが続いたが、「初風」「東風」による大正14年の訪欧大飛行は、まだ飛行機、特にエンジンの性能、信頼性も低く、事故が多かった時代、航行援助施設など無きに等しかった時代、世界で誰も飛んだ事の無い、厳しい条件下のシベリア横断に挑み、モスクワに乗り入れ、その後ヨーロッパの主要都市を訪問する長丁場を完全に成功させたこの大飛行は、その足跡を辿るだに大いなる感動を呼び起こされずにはおかないのである。

 展示物を見て行くうち、当時4人の飛行家が使い、それをたよりに飛んだシベリアの地図に目が釘付けになった。それは何枚にも分かれた200万分の1の地図である。勿論、ロシア語で表示された、かなり詳細なものである。広大なシベリアの大自然の上空を、厳しい気象条件も有ったであろう中を、この地図だけをたよりに2機の飛行士達は飛んだ。

 地図上に、飛びながら書入れたものであろう「工場有り、白煙を発す」「鉱山有り」などとある。現在の、人工衛星から撮った空中からの写真を見る様な錯覚に陥入る。必死の飛行をしながら、この様な情報をメモして行く。絶体に軍事目的の偵査飛行でないとは云え、情報価値からみると当時としては大変なものだったのかも知れないが、よくロシアが領土の上空飛行を許したものだな等の思いを馳せながら、飛行士達の目線が実感出来るような臨場感を感じたのである。

 なぜ、この様な訪欧大飛行が敢行されたのか、前間孝則著「朝日新聞訪欧大飛行(上)(下)(講談社 2004年8月発行)」に詳しく述べられている。以下、時代背景も含めて、主として同著の中から引用しつつ、ふれてみたい。

 大正から昭和初頭にかけ航空機は大変な進歩を遂げた。1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦により、兵器としての航空機が大いに開発され、進歩、改良がなされた時期であった。一方、大戦の終了後、この航空技術が民間に転用され、民間航空事業分野も大きな進展をみた。

 日本における民間航空事業は、新聞社の航空事業がこれを牽引してその発展に大きな役割を果した特異な歴史がある。

 明治末から大正の前半期までは、新聞社の宣伝販売促進の目玉として毎年のように日本人の手によって開かれる飛行大会があり、海外の有名な曲芸飛行団を招いてのサーカス飛行などもさかんに行われた。

 大正の後半になると、新聞社が自ら飛行機を所有して、ニュースの取材からスピーディーな輸送は勿論、荷物や旅客の定期航空輸送事業、郵便輸送事業にも進出して行った。

 朝日新聞と、毎日新聞が双壁で、発行部数を競う拡販競争が年を追うごとにエスカレートして行った。

 又、その頃、さかんに実施された世界各国による、いわゆる「空の大航海時代」がはじまった事も大きな引金となり、日本においても記録飛行や、日本一周飛行、国際親善を兼ねた海外へと向った長距離飛行、太平洋横断飛行など、新聞社が自ら社有機等を駆って挑戦している。

 「初風(はつかぜ)」「東風(こちかぜ)」訪欧飛行も、この様な時代背景と朝日新聞の力によって計画された。大正14年当時、この様なスケールの大きいチャレンジングな事業が、民間の新聞社の手で行われたわけであるが、内容はまさしく国家的事業であり、この冒険大飛行の成否が、日本の威信にもかかわるものであった。

 大正9年(1920年)5月のイタリア機を皮切りに、昭和12年(1937年)10月の英・米機まで、次々と日本への訪問飛行、あるいは世界一周の途次日本に寄る飛行計画が発表され、これらに刺激され、「もっと以前からかつ熱心に、日本の民間飛行をその先頭に立って推進して来た朝日新聞がやらずして誰がやるか」の思いから「日本の航空史上一時期を画する企てを我々の手で実施しようではないか」となり、計画部門でひそかに構想が練られていった。難事業であり、且つ多額の費用を必要とし、国家の面目にかかわる重大責任を伴うものである為、社長直轄のもと、ひそかに、計画部門だけで情報を集め、慎重な調査と研究が進められていった。……

 

問題は山のように有った。

(1)長距離飛行に耐え得る性能と信頼性の高い国産機がない。

(2)当時長距離飛行する欧米機のいづれもがインド経由の南廻りを選択していた。同じコースでは能が無く、読者がハラハラ、ドキドキするものに チャレンジすべしとの考えから、まだ誰も挑戦していない北廻りのシベリア経由モスクワに向い、さらに足を延ばしてベルリン、パリ、ロンドン、ローマに向うコースに挑戦したい。

 

シベリア経由の場合、以下のような問題があった。

(1)日露戦争(1904年~1905年)終結から18年半、1922年(大正11年)のシベリア出兵撤退から1年半しか経っておらず、日露間の国交はまだ回復していない時期である。

(2)シベリアにはまともな飛行場は無いと思われ、草原などで離着陸をせざるを得ないなど航行援助の施設や手法が極めて不備である。

(3)情報の欠如
地図をはじめ、シベリアに関する情報が皆無に等しい。

(4)ロシアの反日感情
日本軍は、連合国の軍事干渉に伴うシベリア出兵に応じ、7万5千人もの陸軍を送り込んだ。撤退後まだ1年半しか経っておらず、戦争の傷痕を引きずるロシアの真っ只中に飛び込んで行く訪欧機の搭乗員は住民の反日感情によって身に危害が及ぼされるかも知れない。

(5)搭乗員の確保の難しさ

 

 ざっと上げても、外交上、技術上、その他難問が山積だった。当時の日露外交上の状況からみても日本人によるシベリア上空飛行などはとんでもない話であった。しかし、様々な外交上の努力と紆余曲折をへて、「日露友好親善」に役立つとの名目を得、飛行実施の1ヶ月前にやっと正式にOKになった。それからの最終諸準備が大変であり、その様子は前間さんの著書に詳しい。

(1)航空機は前出の仏製ブルゲー19A2型機2機を発注済み

(2)搭乗員の選抜
当時の航空局や陸軍の尽力もあって、技倆、人格識見ともにふさわしい既述の4名が選抜された。

(3)シベリアの寄港地を中心とした、人を派遣しての現地調査、燃料の確保、整備や補給、運航上の諸問題等々、出発までの限られた日時で解決する必要があり、関係者の努力と奮闘は想像を絶するものが有った様である。

 当時のそのような状況下で、シベリアの地図も入手が極めて難しかったはずである。その「地図」が「朝日新聞航空80年展」の会場にさりげなく展示されていたのだ。「初風」「東風」の機体の一部でも展示されているのかと捜したがそれは無い。出発時の様子、寄港地でのスナップ、目的地各地での記念写真や当時の新聞記事や写真から当時がしのばれる。

 とりわけ、この「地図」の実物は、飛行中の苦労が凝縮されているようで、見る者に実に多くの事を物語ってくれる歴史そのものである。情報が極端に少ない当時、一枚の地図だけをたよりに厳しい自然環境の中、未踏のシベリア上空を、寄港地を捜し、ある時は不時着地を求めて、何回も何回も目をこらし、確認をくり返したであろう汗と血の軌跡そのものであり、感動を呼びさまされたのは私だけではないと思われる。80年前の一枚の地図、これは単なる紙きれの地図ではなく、関係者の魂が乗りうつった歴史の生き証人である。

 訪欧大飛行の件で当協会発行の「日本民間航空史話」をたどっていたら、リーダー格だったあの安部浩操縦士が、1963年に『初風、東風 訪欧の思い出』として寄稿された文章が出て来た。これが面白くかつ感動物であった。しかもこの安部飛行士の実の息子さんが、私が在籍したJALの大先輩(昨年亡くなられた)であり、かつてJALローマ支店長(訪欧大飛行の最終寄港地)をされていたあの安部敏典さんだったとわかり、この訪欧大飛行の偉業が一挙に身近に感じられた次第である。

 この「航空史話」の中で、安部浩飛行士は厳しく、つらい飛行の中でいくつかのエピソードを披露されているのでご紹介したい。

(1) 朝鮮、北満を過ぎ8月4日シベリアの第一着陸地点チタに到着し、盛大な歓迎を受けた。早速公園のレストランに案内され、友好的雰囲気のうちに昼食会が始まり大いに歓待された。ところがこの席で強烈なウォッカを飲まされたが、実はこの日の早朝ハルピンを出発し、9時間あまり飛行して相当疲労しており、かつ空腹のところであったので、私どもはひどく酔っぱらい、やっとホテルにたどりつき寝台の上に倒れたまま、4人とも動けなくなるという始末であった。ところが先方では、その夜12時から正式の歓迎宴を準備していたので、再三再四出席を促されたが、どうにも動けない。最後には委員長みずから催促に来たが、それでも如何ともできなかった。

 先方は労働者上りの頑丈な体格の持主で、私どもがウォッカを飲んで動けなくなるなど理解できなかったらしく、「面目をつぶした」として怒り、「これから先の飛行は許さない」などと言い出した。われわれとしては折角の好意に報いることができず、入ソ第一歩にこのような失態を演じたことは実に残念であった。

 それにしても、ロシアの風習である深夜の宴会、ウォッカの痛飲など、われわれの貧弱な身体ではとうてい堪え得るものではない。それに夜は夜で南京虫に責められるなど、日本出発前には夢想だにしなかったことに遭遇し、飛行の前途きわめて多難なものがあることを痛感せずにはおられなかった。

(2) ヤブロノイ山脈を越えたところで、河内機がエンジン故障で付近の草原に不時着した。ここは人跡全く絶え、万籟寂として声なしという境地で、その夜は飛行機の座席に寝て静寂なる夜を過し、連日の気苦労をいやすことができた。夕闇迫るころイルクーツクに着陸した。ここでも市長が夜12時から歓迎宴を開くと招待されたが、好意を謝して辞退した。

(3) イルクーツクを飛び立った翌日、クラスノヤルスクに飛び、その日はノボシビリスクに向ったのであるが途中雨のため引返し、アチンスクという小さな町に不時着した。早速市長さんや町の人がたくさんの食物を持って来てくれ、ご馳走になった。その日は出発ができず、町の人が町のホテルに泊るようすすめてくれたが、南京虫のことを考えるとホテルに泊る気になれず、飛行機の中に寝た。ところがこれが町の人に変に取られ、「ヤポンスキー・リョウチキ(日本の飛行家)は飛行機の中に女を連れているのだ」と勘違いされ、大笑いであった。

(4)  8月23日カザンを出発、赤軍飛行機に迎えられモスコウに到着。夕日に映えるクレムリン宮殿を右下に見て (中略) ソビエト官民多数の盛大な歓迎を受けた。

 モスコウを立ち、リトアニアの首都ゴヴノを過ぎ、東プロシアのケーニッヒベルヒに到着。約8千キロにわたるソ連領土上空の飛行を終えたのであるが、沿線各地でソ連人民から受けた熱誠かつ親切な歓迎は、私の終生忘れることのできないものであった。翌日ベルリンに到着、多数の在留邦人の出迎えがあり、まことに嬉しくかつ懐かしかった。

(5) 10月12日、パリのルブルジェ飛行場を出発しロンドンに向う。途中発動機が不調でドー バー海峡の南岸サンタングルヴェに不時着したが修理に手間どる。ドーバー海峡を越え英本土に入ったところで大へんな霧になり、 (中略) 恰好の畑地を見つけ夕闇の中に河内機と交互に突込み着陸を試みたが、河内機は2回目に着陸したものの倒立してしまった。

 そこで私はこの畑を断念し、ほかを探したところ近くに黒く見える広場を発見したので、これに突込み着陸したところ、夕闇をすかして遠くに格納庫の屋根が見えた。偶然にもここは英空軍の飛行場の一角であったのである。一方河内機は倒立したもののなんらの損傷もなく、両機とも事なきを得て、本飛行最大の危機を乗り切ることができたのは幸運の至りであった。

(6) ロンドンからブラッセルに飛び、10月26日リヨンに至り、翌27日ローマに飛んだ。 
(中略) 標高6千メートルといわれるアルプスを迂回し、リヨンからニースに至りゼノア湾を横断してピサに出て、斜塔の上を通り一路南下、ローマに到着した。

 かくてローマ到着をもってわれわれの訪問飛行は終ったのであるが、私はこのローマ到着の日を記念し、一生のハンドルの握りおさめとして飛行機から降りたのであった。

参考文献

(1)前間孝則 著 「朝日新聞訪欧大飛行」(上)(下)
講談社 2004年8月発行

(2)「日本民間航空史話」(財)日本航空協会 1966年6月発行

参考展示会

(1)「ニュースは空をかけめぐる」朝日新聞 航空80年展
2005年7月9日~9月25日   日本新聞博物館(横浜市中区)

(2)「航空遺産展示会」   (財)日本航空協会開催
2005年8月4日~10日     航空会館(港区新橋)

執筆

本橋 和彦

(財)日本航空協会 専務理事

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