航空学の祖  田中舘愛橘生誕150周年

愛橘と私

 私は国際的物理学者・田中舘愛橘(以下、愛橘と略記)の曾孫の松浦明と申します。私が生まれたの1937(昭和12)年ですが、そのときから愛橘が1952(昭和27)年にこの世を去るまで愛橘がふるさとですごした約1年間をのぞいておよそ14年間、生活を共にしました。現在、これだけ長く愛橘とすごした人間は私以外には1人もおりません。

 私が生まれてから小学校1年生までをすごしたのは、当時の東京市小石川区雑司ヶ谷の高台にある大きな屋敷でした。愛橘はそこに娘(私の祖母)、孫夫妻(私の母と父)とくらしていました。子どもの私にとってそれはとても大きな家に見え、そこで私は何不自由なくたのしい幼少期をすごしたのです。大きな変化がおとずれたのは、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月、類焼でその屋敷が焼けおち、家族一同愛橘のふるさと岩手県福岡町へ疎開したときです。まもなく戦争がおわり、私たちは世田谷区経堂にある家でくらすことになりました。若いころは家庭的にあまりめぐまれなかった愛橘の晩年は、5人の曾孫にかこまれながら、学会に顔を出したり弟子たちの訪問を受けるなど、しあわせそのものでした。臨終は大往生といってよい安らかな旅立ちでした。学士院葬は東大の安田講堂でおごそかにとり行われました。

愛橘の人柄

田中舘愛橘博士

田中舘愛橘博士

愛橘の性格をひとことでいうなら、温和でユーモア精神に富み、人にすかれるタイプでしたから人との交流が多かったのも当然といえます。私たち曾孫にとってはいわゆる好々爺で、心ゆくまで甘えられるやさしいおじいちゃんだったのです。荒々しいことばは一度として聞いたことがありません。

 愛橘が本当にしたしみやすい性格の人間であったことは、ふるさとの人たちとも気軽にことばを交わしその交わりを大切にしたことからもうかがえます。ズーズー弁を死ぬまで改めることなく、むしろそれを誇りにしているようにさえ思えました。ソコツ博士というあだ名は有名で身のまわりのものはよく置き忘れたりしましたが、本人はまったくそれを気にしていませんでした。愛橘には私利私欲がなかったといわれますが、「おじいちゃんはローマ字運動にもっているお金を全部はたいちゃったのよ」という母のことばはそれを裏付けるものと思います。戦後みかけた、当時としてはあたらしいPACHINKOという看板の意味を、愛用のオックスフォード辞典でしらべようとしたと家族から聞いたことがありますが、愛橘の旺盛な好奇心を示すよい例といってよいでしょう。

愛橘の略年譜

 以下に愛橘の略年譜を示します。愛橘の大きな特徴はさまざなま分野の国際的な学会や会議に68回も出席していることで、外国のある学者をして愛橘は第二の月(1年に1度地球をまわってやってくる意)といわしめたほどです。

西暦元号年  譜
1856安政3田中舘稲蔵、キセの長男として岩手県福岡(現・二戸市)に生まれる
1861文久元母キセから文字の手習い、伯父小保内定身より和漢の書を学ぶ
1864元治元実用流師範下斗米軍七の門に入門、書は欠端武薫から学ぶ
1869明治2盛岡藩校作人館修文所で和漢を学ぶ
1872明治5一家あげて東京に移る、慶応義塾へ入学して英語を学ぶ
1876明治9東京開成学校入学
1878明治11東京大学理学部入学
1880明治13メンデンホールの指導の下で、東京や富士山の重力測定
1882明治13東京大学理学部卒業、準助教授
理学部学生を率いて、鹿児島、沖縄の重力測定
1883明治13東京大学助教授
1888明治21英国グラスゴー大学留学
1890明治23ベルリン大学に転学
1891明治24帰朝、帝国大学理科大学教授、理学博士、濃尾大地震調査で梶尾谷大断層発見、この年より全国の地磁気測量(夏季4年間)
1898明治31万国測地学協会総会出席
1902明治35勲4等旭日小綬章受章
1904明治37日露戦争、陸軍の気球の研究に従事
1906明治39帝国学士院会員
1907明治40万国度量衡会議常置委員となり同総会出席
1909明治42臨時軍用気球研究会委員
1910明治43航空事業視察のため欧州へ出張、所沢飛行場建設
1914大正3文部省測地学委員会委員長
1915大正4貴族院有志に航空機の発達及び研究状況を講演『航空機講話』を発行
1916大正5在職25年祝賀会、同日辞表提出、勲1等瑞宝章受章
1917大正6依願免本官、東京帝国大学名誉教授、万国度量衡会議出席
1918大正7国際学術研究会議のため欧州各国へ出張
1919大正8国際学術研究会議、地磁気・空中電気国際会議出席、後者の会長となる
1920大正9東京帝国大学航空研究所嘱託、陸軍省航空機調査研究嘱託、外務省より航空条約事務嘱託、国際連盟協会会議、万国度量衡委員会議、万国学術研究会議出席
1921大正10小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会創立、欧米航空事業調査
1923大正12万国度量衡常置委員会議及び物理学会出席
1924大正13測地学・地球物理学国際会議出席
1925大正14文部省学術研究会議副議長、万国度量衡常置委員会出席、貴族院議員
1926大正15震災予防評議会評議員、太平洋学術会議副会長、国際航空委員会議、国際連盟知的協力委員会出席
1927昭和2国際航空委員会、測地学・地球物理学国際会議、度量衡会議総会出席
1928昭和3フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られる、国際連盟知的協力委員会出席
1929昭和4万国度量衡会議、国際航空連盟会議、国際気象学会出席
1930昭和5国際連盟知的協力委員会、測地学・地球物理学国際会議出席、ローマ字調査会委員
1931昭和6万国度量衡常置委員を辞し同名誉委員となる、言語学国際会議出席
1932昭和7貴族院議員再選、国際連盟知的協力委員会、国際航空委員会、音声学会出席
1933昭和8御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、測地学・地球物理学国際会議出席
1935昭和10天文学会、国際音声学会、議員会議、気象学会、国際航空連盟会議出席
1938昭和13随筆・論文集『葛の根』発刊、航空機技術委員会委員
1939昭和14貴族院議員3選、中央航空研究所施設委員会委員
1940昭和15帝国学士院第2部部長
1944昭和19文化勲章受章、朝日新聞社朝日賞受賞
1945昭和20福岡町に疎開
1948昭和23自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)
1950昭和25日本物理学会名誉会員
1951昭和26福岡町名誉町民
1952昭和27東京経堂の自宅で永眠、勲1等旭日大綬章を授与される

愛橘と航空

 それでは話を愛橘と航空にうつすことにしましょう。愛橘の大学における専門は地球物理学で、広い意味では物理と航空は関係があるものの、若いころ大学で航空を研究したわけではありません。のちに度量衡の国際会議に出るようになったいきさつに似て、それを国際的な舞台でこなすだけの素地はできていたと私は考えています。なにせ好奇心の旺盛な人間でしたから、機会が与えられ、その仕事を責任をもって果せると判断すればよろこんで引き受けたものと思います。祖国日本のために役立ちたいという強い使命感と世界の人々の交流促進への期待感もあったことでしょう。

 それでは、私の手持ちの資料に沿って説明を加えていくことにします。

1909(明治42)年、臨時軍用気球研究会の陸軍イ号飛行船が所沢で試験飛行したとき、その形がグロテスクなので「いものなりして」と戯れに詠んだ歌

ところざわ むへもとみけり 
なにしるき いものなりして 
そらふねのとふ

家族あての絵葉書から1910(明治43)年のフランスの飛行機競技会のようすが見てとれます

私がとても気に入っている1913(大正2)年のパリからの絵葉書です。会議が中頃で、これから飛行機のほうをいろいろ見る(原文はローマ字)といった文面ですが、愛橘のワクワク胸をおどらせている状態がつたわってきます

1914(大正3)年のローマ字雑誌にのせているHikô dayoriという愛橘の連載で、ローマ字で書かれてはいてもレベルはかなり高い内容となっています

1915(大正4)年の辞令

1916(大正5)年の辞令

1915(大正4)年に貴族院有志者むけの講演を本にして発行したもので、その中で愛橘は次のようなことをのべています。私はそれに全面的に賛成です。
(要旨)皆さんの考えは西洋文明を物質的な機械的な文明である、すなわち形而下の文明であって精神的の方面は欠けているということのようだが、西洋文明の根本はそんな浅はかな土台の上にたっているのか私は疑問だ。いわゆる西洋の物質的・機械的文明の背景に、金もうけや勲章ほしさなどとは無縁の真理追究の精神がみなぎっているのである

1932(昭和7)年にオランダでひらかれた国際航空委員会の日程表の表紙で12ページに愛橘の名前がのっています

愛橘がめざしたこと

 愛橘がめざした究極の理想はなんだったのか、このことが私がこれまで愛橘研究にたずさわってきてもっとも追求したかった点です。

 愛橘は1930(昭和5)年のローマ字雑誌に国際連盟について次のような文をのせています。(原文はローマ字)
 (要旨)たとえていえば、広い公園に生きた木や草を植えたのが、おなじ日あたりと雨つゆに育ちながら、みなそれぞれの生まれつきにしたがい ―柳はみどり、花はくれない― おのがじし、もちまえの姿や色、かおりで栄えていくように、この地球の上で、さまざまに言語、風俗、宗教、国柄などのちがう国家と民族が互いに他のたてまえともちまえとを重んじて、正義と人道の上に平和を保とうというのである。

 私はこの精神こそが愛橘の思想の根幹をなすものと考えています。禅の表現をたくみに使いながら、四海同胞主義を高らかにうたいあげているところに私は深い感動をおぼえるのです。1930年といえば愛橘74歳ですが、まだまだ元気にヨーロッパの会議や学会をとびまわっていたころです。

 愛橘は国際舞台で軍縮についての演説をおこない、精神的な軍縮こそが重要なのであり、これが実現されれば物質的な軍縮は自然に解決すると訴えています。このこと自体はたしかに目をひくことなのですが、私はそれよりもむしろ愛橘が世界平和、四海同胞主義に至った道筋にひきつけられます。

 さまざまな分野の会議で各国の思惑から利害の対立することは数多く経験したことでしょう。それをひとつひとつのりこえていくうちに愛橘の心の中に上に引用した精神が芽ばえていったのはむしろ自然のなりゆきといってよいと思います。戦争による影響も大なり小なりうけているだけに、自分のたずさわるそれぞれの分野で、かたちはちがっても人類共存をめざして努力するという愛橘の目標はしっかりと定められていたと私はみています。それが科学者兼外交官としての愛橘の面目躍如といったところではないでしょうか。

おわりに

 私は曾祖父・愛橘をしたしみを感じる一方で、敬愛もしています。そのような愛橘についてのさまざまな面を広く知っていただく努力をこれからもつづけていけることをとても幸せに思っています。

執筆

松浦 明

法政大学工学部・大東文化大学 講師

(財)日本のローマ字社 理事長

本年(2006年)9月18日は、田中舘愛橘生誕150周年にあたります。田中舘愛橘博士は日本の航空学の祖であり、戦前の長きにわたって、当協会の前身・帝国飛行協会の副会長の任にあり、また、その孫にあたる松浦四郎氏(執筆者の亡父)も戦後、当協会の理事・評議員を長らく務められました。(編集部)

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