逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(3)
– 陸海軍委託によるパイロット養成制度 –

陸軍省航空局の開局

 帝国飛行協会を中心に、国民への航空思想の啓蒙活動が徐々に浸透していたが、民間飛行学校や飛行練習所も各地に誕生し、飛行機製作も活発化するに及んで、行政による何らかの規定を設ける必要が生じていた。それまでの民間航空は安全上の規制もなく、野放し状態による大小航空事故が日常だった。群雄が割拠する戦国時代であったから、我こそは航空界のパイオニアと任ずる、一騎当千のヒコーキ野郎たちが出没し、航空野武士会を創っていたほどである。

 陸軍次官だった山梨半蔵中将を委員長とする臨時航空委員会が編成され、軍事以外の民間航空の保護奨励と取締、国際航空実施に必要な施設等々についての検討が開始された。ほぼ同時期に日本は、ベルサイユにおいて国際航空条約に調印したが、これにより航空局設置の気運が加速された。取締官庁の所属が紛糾したが、結局、陸軍大臣管轄となり、大正9年(1920)8月1日、勅令224号によって、陸軍省外局として航空局が設けられた。

 行政事務分掌は、第一課は総務、第二課で航務、飛行場関係、飛行機の製造と検査、そして乗員資格等々の事務、第三課が監督、国際関係、救護処分の審議等々が管掌された。急ぎ製作された航空取締法案は、附則付で54箇条から成っている。

 その冒頭、第1条は次のように規定された。
「航空局ハ陸軍大臣ノ管轄ニ属シ軍事航空ヲ除クノ外、航空事業ノ指導奨励保護及監督、航空ノ取締並ニ航空ニ伴ウ施設ニ関スル事務ヲ掌ル」

 陸軍省の庇護監督の下に誕生した航空局は、大正10年(1911)4月、泥縄式に航空先進国フランスの航空制度を見習った航空法を制定した。航空法の施行は、諸般の事情により大幅に遅れて昭和2年6月になった。この時、航空機検査規則、航空機乗員体格検査規則、航空機関士養成規則が制定・公布された。

 航空局は時代と共に変遷し、やがて陸軍省から切り離されて、逓信省(後の郵政省)外局から内局となった。表面上、逓信省の行政上の力は増加したが、その業務内容は、陸海軍の大幅な支援が必要であり、航空局に在籍する職員は、軍予備役将校が主要なポストを占めていた。この構図は、第二次大戦終結まで基本的に変わっていない。

陸海軍委託操縦生の誕生

 航空局設置後の課題は山積していたが、航空機乗員養成も重要課題の一つだった。これは巷の格好の話題となり、「陸軍でいよいよ民間飛行家養成・・・将来は飛行将校になれり」「少年を飛行家に仕立てる陸軍航空局の企て・・・」、さらには「民間飛行家養成の採用規則発表・・・試験採用の上は官費にて養成」等々の記事が、新聞紙上を賑わした。

 大正9年(1920)10月15日付で、航空機操縦生採用規則公布、次いで「第1期航空機操縦生志願心得」が発表された。受験資格は、満17歳から20歳未満の男子で、学歴は問わないが、旧制中学校3年修了程度と体格となっていた。訓練費用は官費で、その上、手当が支給されることから、全国から数百名が応募する人気だった。結局、体格検査で選ばれた114名が、大正9年末、九段の偕行社で学科試験を受け、10名が採用された。

 なお航空局は航空奨励規則を定め、委託生に対する各種の詳細な奨励策を実施している。それによると1人2万円の訓練費が政府から支給された。生徒は大変優遇され、オーダー・メイドの制服貸与、しかも月額30円の手当が支給された。これは大学卒の初任給が月額平均20円の時代だったから、相当の高額である。期によっては、将来、自家用車を持つ身分になるという訳で、自動車の運転も教わったという。

 1期生は大正10年(1921)1月から所沢陸軍航空学校で、系統的な操縦教育訓練が開始された。地上教育は本格的で、科目を列記すると、機関学、飛行機学、操縦学、航空学、気象学、地形学、航空法規のほか、術科として発動機工術、飛行機工術、飛行機操縦法、飛行場設備、徒歩教練、体操、気象観測があった。

 飛行訓練機は、甲式Ⅰ型、Ⅱ型練習機(ニューポール単葉機)での滑走訓練、乙式Ⅰ型偵察機(サルムソン2A2型)が使用された。面白いのは、最初に浮力のつかないアンザニ35馬力エンジン搭載の練習機で、50数回、5時間近い地上滑走訓練をおこなっている。卒業までの日数は110日間、平均飛行時間は38時間だった。そして全員、2等飛行機操縦士資格(現・技能証明)を得て卒業した。

 卒業生の就職先は、航空局の斡旋で、それぞれ陸軍関係5名(陸軍航空部2名、陸軍航空学校3名)、航空局2名、台湾総督府2名、中島飛行機製作所1名となっている。彼らは、その後の民間航空を引っ張る牽引車となって腕をふるった。これは戦後の昭和29年(1954)7月1日に設立された、宮崎の航空大学校を卒業し、日本航空に入社した第1期生10名と対比して、たいへん興味深い。

1期生の名前と出身地、主な業績を列記する。

中尾純利鹿児島三菱重工テストパイロット、「ニッポン」号機長、
戦後、初代東京空港長
河内一福岡朝日新聞社主催の訪欧飛行で、「東風」号機長、
朝日新聞社航空部長
羽太文夫東京東京日日新聞社航空部長、戦後、渋谷区議会議員
国枝 実熊本川崎航空テストパイロット、戦後、航空大学校校長
伊藤治郎茨城三菱重テストパイロット、戦後、日本航空協会嘱託
小川寛璽千葉日本航空輸送㈱主席操縦士、南方航空輸送部司政官
加藤寛一郎福岡中島飛行機テストパイロット、試験飛行中に殉職、享年28歳
小林佐久麻佐賀佐賀市練兵場で着陸に失敗、死亡、享年22歳
永田重治長野台湾総督府の蕃地鎮撫飛行に従事、満州航空機長、
チチハル管区長
松崎武夫宮城台湾総督府の蛮地鎮撫飛行に従事、戦後、商業経営

 このように陸海軍委託制度は、まず陸軍から開始されたが、海軍については大正10年(1921)4月に法令が改正され、航空局委託練習生の教育を受け入れる準備が整い、大正12年(1923)に航空局が逓信省へ移管されると同時に、委託訓練を受け入れた。これ以来、正式に「逓信省陸海軍委託航空機操縦生」と呼称されるようになった。海軍では、横須賀市追浜の横須賀海軍航空隊に委託されたが、それまで陸軍が採用していた10名を二分する形で委託した。

 年によっては僅か陸軍4名、海軍4名の採用だったから、大変な難関で、優秀な人材が集まった。但し、最後の期は陸軍(18期)16名、海軍(16期)9名が採用されている。

 訓練概要は、陸海軍共に飛行機の慣熟以外では、彼らの卒業後の仕事にマッチすべく、野外航法訓練が徹底して訓練された。すべて地文航法であり、海軍委託学生は、とくに洋上の航法を徹底して教わった。それだけに、この頃の民間パイロットは、日本国内の地理には、めっぽう強い。

 陸海軍委託制度は、昭和13年(1938)6月に、逓信省直轄の航空機乗員養成所が誕生するまでの18年間続いた。陸軍委託が18期99名、海軍委託が16期64名で計163名が卒業している。この間、陸軍委託では訓練中の殉職1名、罷免3名、海軍委託では罷免5名となっている。そして本格的な民間パイロット大量養成のため、航空機乗員養成所へ移行するのである。

 逓信省委託航空機関生については、大正13年(1924)10月15日に規則が制定された。実務経験を積んだ者が採用され、東京府立工芸学校へ委託されて訓練を受けた。教官には、東大教授や現役陸海軍技術将校など、当代一流の教官が派遣されて指導にあたったように、この時代のもっとも充実した権威ある組織であった。これは陸海軍に、機関士を養成する適当な組織がなかったことによる。この制度は昭和16年(1941)の11期までの17年間実施され、177名が巣立っていった。これ以降は、操縦生同様、機関士を大量養成する必要から、航空機乗員養成所(機関生徒、本科整備科生徒)へ移管された。

執筆

徳田 忠成

航空ジャーナリスト

参照 「航空機乗員養成所年表

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