モンゴルの歴史(4)  - The Land of Nomads –

1.チンギス・ハーンの祖先

 前に述べたが、モンゴル族には記録の習慣がなかったため、全て伝承で神がかり的なものが多い。信じられる歴史上の祖先はチンギス・ハーンの6代前のハイドという人物からである。

 祖先発祥の地は定かではないが、バイカル湖畔だったと考えられている。キタイ軍に追われて逃げてきたジャライルという部族に襲撃され、殆ど皆殺しになったという。生き残ったハイドがバイカル湖のほとりバルグジン・トクムに移って成人し、兵団を養成しこれを率いてジャライル部族を攻めて家来にしたという。

 ハイドの3人の息子の内の次男の子孫が後にチンギス・ハーンと敵対するタイチウト氏族になった。長男の息子には多くの息子がおり、それぞれが氏族の始祖となったが、6番目の息子ハブルがモンゴル部族最初のハーンとなりキヤト氏と称するモンゴル部族の有力家系となった。このハブル・ハーンがチンギス・ハーンの曾祖父である。

 1084年、久し振りに漢史にモンゴルが現れる。「遼史」に、この年「萌古(もうこ)国」が契丹に使者を派遣したとある。ようやくモンゴル部族に王権が生まれて国と呼ばれるような集団になったらしい。

 1125年、金帝国がキタイを滅ぼした頃のモンゴル部族指導者はチンギス・ハーンの曾祖父ハブル・ハーンだった。彼の死後、又従兄弟アンバガイがハーンを継いだ。

 ハブルとアンバガイ二人のハーン時代、モンゴル部族は金の長城沿いに遊牧して金に従属していたタタル部族と度々抗争を繰り返していたが、アンバガイは、遂にタタルに捕らえられて金の皇帝の元に送られ殺された。

 アンバガイ゙の後、ハブルの息子フトラがハーンになる。チンギス・ハーンの祖父バルタン・バートルはフトラの兄弟である。

 バルタンには4人の息子がおり、その3番目がチンギス・ハーンの父イェスゲイ・バートルである。父イェスゲイは、キヤト氏の中では傍系に属したが、バートルという称号をもつ有力者であった。バートルとはモンゴル語で勇士の意味で、現在の首都ウランバートルとは「赤い勇士」という意味である。彼はモンゴル高原中央部の有力部族ケレイトの王トグリグと同盟関係を結んで一代で急速に勢力を拡大した。しかし、テムジンがまだ幼い頃に急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。チンギス・ハーンはモンゴルのハーン一族の出身ではあるが傍系であった。

2.チンギス・ハーン登場

 チンギス・ハーンの生誕日には1154年、1155年、1162年の3通りの説がある。これらは全て史書に書かれた年で、最初から順に南宋の「蒙韃備録」、イランでチンギス・ハーンの子孫がペルシャ語で書かせた「集史」、元朝の公式記録「元史」である。なぜこんなにいい加減かと言えば、元々モンゴル人は生年月日などに関心がなく、度々触れているようにチンギス・ハーンが生まれた頃にはまだモンゴル人に記録をつける習慣がなかったためでもある。

 幼い子供たちを抱えてイェスゲイの家産の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。

 テムジンが成人してくると、モンゴル第2代アンバガイ・ハーンの後裔で、キヤト氏のライバルであったタイチウト氏の人々はイェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。

 テムジンはこの絶対の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソルカン・シラの助けによりようやく脱したという。成人すると、今度はモンゴル部族の宿敵メルキト部に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど、辛酸をなめた。このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者であったケレイトのトグリグ・ハーンや、モンゴル部内のジャジラト氏のジャムカといった同盟者たちであった。

 このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏のボオルチェ、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤハン氏のジェルメといった、後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友(ノコル)として彼のもとに仕えるようになった。

 メルキトによる襲撃の後、ジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部キヤト氏の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加えて勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。

 あるとき、ジャムカの一族がテムジンの配下の家畜をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンンとバルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗れたとみられるが決定的な敗北ではなかった模様である。ジャムカはこの残酷な処刑によりかえって人望を失い、敗れたテムジンに投ずる部族が増える。

 1195年頃からテムジンの行動年代が明らかになる。ケレイト部で内紛が起こって部族長トグリグが追われ、その兄弟ジャガ・カンボ゙がテムジンのもとに亡命。

 1196年、トグリグ゙が亡命していたカラキタイ (西遼) からウイグル、西夏を通ってテムジンの元にいたジャガ・カンボを頼ってやっと故郷に帰り、テムジンと合流してケレイトの王位に復する。トグリグはテムジンの亡き父イェスゲイの盟友であったのでテムジンはトグリグを父として仕える約束をした。ケレイト部はモンゴル高原の有力部族であったので、テムジンは大きな後ろ盾を得た事になった。ケレイト部族には記録係りがいたらしく、ようやくテムジンの記録が残るようになる。

 この頃、金に反抗して追われたタタル人がモンゴル高原に北上、近隣から兵士を集めたテムジンとトグリグが協力してこれを迎え撃ちタタル人部族長を殺害。金はこれを喜び皇帝はテムジンに百人隊長という官職を与え、トグリグには「王」の称号が与えられた。この後トグリグはオン(王)ハーンと呼ばれる。

 同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジェルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。

1197年高原北方のメルキト部に遠征
1199年高原西部のアルタイにいたナイマンを討った
1200年今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルをホロンボイルに打ち破った
1201年東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取り、先手を打って攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた
1202年西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・ハーンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。しかし同年、オン・ハーンの長男イルカ・セングンとテムジンが仲違いした
1203年オン・ハーンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンを襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは兵力を結集すると計略を用いてケレイト本営の位置を探り、オン・ハーンの本隊を急襲して大勝した。ケレイト軍は降伏し、西に逃れたオン・ハーンと長男は敵対する他部族により殺害された。
 この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた
1204年モンゴル高原を統一
1205年西夏を攻略。同時にテムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカをついにとらえて処刑した。やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った
1206年モンゴル全部族長、氏族長を召集した大会議クルリタイで最高指導者ハーンに推挙され、チンギス・ハーンの名を授かった。チンギスというのはモンゴル語で「勇猛な」、ハーンは「最高の」という意味で、チンギス・ハーンとは「勇猛な大王」という意味になる

 テムジンがチンギス・ハーンとなったこの1206年をモンゴルではモンゴル帝国誕生の年としている。2006年は、このモンゴル帝国誕生800年という記念すべき年であったため、大々的な記念行事が多々行われ、各国の元首級の訪問が相次ぎ、日本からも小泉首相を始めとして80人もの国会議員団がモンゴルを訪れている。

 スフバートル広場にある政府庁舎前には、2006年9月までスフバートルとチョイバルサンという二人の革命の英雄の遺骸が、モスクワの赤の広場のレーニン廟にならって祀られていたが、これを別のモンゴルの聖地に移し、その後にチンギス・ハーン、三男で第二代ハーンのオゴデイ・ハーン゙、孫の第五代ハーンで大元の創始者フビライ・ハーンの3人の巨大肖像が建てられた。チンギス・ハーンの大騎馬軍団再現ショーも行われ、日本の堺屋太一氏が演出を担当したという。

 いよいよチンギス・ハーンがモンゴル帝国建設に乗り出すことになるが、次号に回すことにし、今回の最後はモンゴル文字について簡単に紹介しておきたい。

3.モンゴル文字 

 13世紀の始め、チンギス・ハーンがナイマン部を攻略した際に、ナイマン部の宰相タタトンガが伝国の印璽をチンギスに差し出した。これがモンゴル人とウイグル文字の最初の出会いである。

 チンギスはタタトンガを教師にして自分の子弟にウイグル文字(左からの縦書き)を教えさせた。しかしモンゴル語をウイグル文字で書くようになるのはチンギスを継いだ息子オゴテイの晩年以降であった。

 13世紀半ばまでの数少ないモンゴル語史料は全てこのウイグル語で書かれており、モンゴル語の姿に適合させようとして文字を改良した形跡は全く見当たらず、まだモンゴル人自身の文字という認識も伺えない。

 1269年、フビライ・ハーンは大元ウルスを統治するにあたり、チベット人僧侶パスパに命じて新たに「蒙古新字」即ちパスパ文字を公布し、一切の公事をパスパ文字で行うよう命じた。モンゴル人が文字を国家組織の道具として明確に意識した最初である。

初代モンゴル文字で書かれた有名な詩 

初代モンゴル文字で書かれた有名な詩 

しかしパスパ文字は公事に限られていたため一般に普及せず、モンゴル語訳の仏典もウイグル文字で書かれ続けた。

 14世紀に元が破れてモンゴル人がモンゴル高原に戻り、フビライの継承者トゥグス・テムルが殺されるとフビライ政権の象徴であったパスパ゚文字を使い続ける必要がなくなり公用文字としての役割は終わった。

 しかし、チベットやモンゴルの王公の印璽や仏教寺院の門柱を飾る装飾文字としてその後もわずかに使われ続けた。

 16世紀後半、チベット仏教諸派による布教により仏典訳経事業が盛んになるとモンゴルの国語純正主義が芽生え、アヨシ・グーシにより「アリガリ」文字が作られた。

 アリガリ文字はモンゴル語訳仏典に表れるサンスクリット語やチベット文字(横書き)からの音写語を正確に表記するためにチベット文字形をウイグル字母に追加したものであった。

 アリガリ文字による外来語の書き分けはモンゴル人自身の国語純正主義を育み18世紀前半にかけてモンゴル語の正書法、文法、翻訳理論が整備されていった。これが現在のモンゴル文字となっている。一方、16世紀後半から17世紀には様々な改良ウイグル文字が誕生し、東モンゴルではウイグル文字を改良した満州文字が作られている。

 1941年、ソ連のスターリンにより、モンゴル人民共和国はキリル文字 (ロシア文字) の使用を強要され、モンゴル文字が禁止された。ロシア文字にモンゴル語独自の発音文字2字を加え35字でモンゴル語を書き表すもので、現在でも公用語はもちろん新聞、看板など全てがこのロシア文字で書かれている。

 また、政府の幹部クラスの殆どがモスクワ大学やキエフ大学などで教育を受けているように、ソ連で高等教育を受けた知識層が多く、これら40代以上の知識人の殆どがロシア語とロシア文字に慣れ親しんできているので問題は深刻である。1990年の民主化後、モンゴル文字の教育が復活されたので若い世代は読むことができるが禁止時代に教育を受けた20台後半から60才台までの年代は読むことが出来ない者が多い。

 モンゴル文字を復活させようという運動があることはあるが、50年間で完全に定着してしまったロシア文字を捨て去ることは至難の業で、モンゴル文字は観光用やみやげ物用に使われているのみで公用化の見通しは全く立っていない。他の民族により文字という文化そのものを無理やりに変えられてしまったという悲しい歴史がモンゴルに深い傷跡として残っている。

 なお、北京の故宮博物館の建物の一部にこのモンゴル文字そっくりの字体で書かれた額を見つけたが、何故かは分からなかった。故宮は元朝時代に建てられたものも多いので当然とも考えられるが年代がどうも一致しない。何方か知っておられる方がいたら、是非教えて頂きたい。

執筆

加戸 信之

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

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