モンゴルの歴史(5) - The Land of Nomads –
歴史
1.モンゴル帝国の基礎作り
チンギスは、腹心の僚友 (ノコル) に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。
最上級の88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。
2.征服へ
1215年、金の中都、燕京(現在の北京)を包囲、陥落させ、金は河南のみを支配する小国に転落した。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス・ハーンに見出されてその側近となる。チンギスは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と南宋との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。
前回ちょっと触れたが、この頃、ナイマンの長であったクチュルクは西に逃れて西遼に保護され、西遼最後の君主チクルの娘婿にと厚遇されていたが、クチュルクはそれにつけこんで王位を略奪した。モンゴル帝国はこれを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、この時までに西夏と金に対する10年の遠征で疲弊していた。
そこで、チンギスは腹心の将軍ジュベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは仏教に改宗して地元のイスラム教徒を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまち王国は分裂し、ジュベは西遼を打ち破った。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、逃走したがやがてモンゴル軍に捕えられて処刑され西遼の旧領はモンゴルに併合された。
3.中央アジア征服
1220年、ホラムズ・シャー朝はモンゴル軍の前に壊滅しほぼ滅亡した。君主アラーウッディーン・ムハンマドははるか西方に逃れ去ったため、チンギス・ハーンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死する。1223年、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで遠征。キプチャクやルーシ諸公など途中のロシア諸勢力連合軍を次々に打ち破った。