モンゴルの歴史(5)  - The Land of Nomads –

1.モンゴル帝国の基礎作り

壮年のチンギス

壮年のチンギス

 チンギスは、腹心の僚友 (ノコル) に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。
最上級の88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

 戦時においては、千人隊は1、000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の騎馬兵につき数頭の馬を率いていたために常に疲れていない馬を移動の手段として利用できる体勢になっていた。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・ハーン直営の領民集団を中心として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

 このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサル、カウチン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面には3人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴテイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギスの築き上げた左右対称の軍政一致構造によりモンゴルは恒常的に征服戦争を続けられ体制を整え、短時間での大モンゴル帝国拡大を可能とした。

 クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、1209年に西夏との講和を結んだが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。更に同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。

2.征服へ

 着々と帝国の建設を進めたチンギス・ハーンは、中国に対する遠征の準備を進める。

1210年、金と断交し漠南で金の華北を攻略。

1211年、金と開戦。この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような戦況パターンをたどった。モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、主要な都市の攻略には失敗した。持ち前の論理的思考と決意の固さを発揮し、チンギスと高級将校たちは攻城戦の方法を学習した。中国人技術者の助けにより、彼らは徐々に戦術を発展させた。こうして彼らは戦史上、最高の攻城者になっていった。やがて金の東北地区(満州)と華北を席捲。

1213年、チンギスは万里の長城のはるか南にまで金の領土を征服・併合していった。モンゴル軍は三軍に分かれ長城と黄河の間の金の領土へ進軍し、金軍を破って北中国を荒らし、数多くの都市を攻略した。

1214年、金が講和を申し入れ和約。直後に金はモンゴルの攻勢を恐れて首都、中都を黄河の南の開封に遷都。チンギスはこれを背信行為と受け止め、あるいは口実にして再び金を攻撃。

1215年、金の中都、燕京(現在の北京)を包囲、陥落させ、金は河南のみを支配する小国に転落した。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス・ハーンに見出されてその側近となる。チンギスは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と南宋との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。

 前回ちょっと触れたが、この頃、ナイマンの長であったクチュルクは西に逃れて西遼に保護され、西遼最後の君主チクルの娘婿にと厚遇されていたが、クチュルクはそれにつけこんで王位を略奪した。モンゴル帝国はこれを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、この時までに西夏と金に対する10年の遠征で疲弊していた。

 そこで、チンギスは腹心の将軍ジュベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは仏教に改宗して地元のイスラム教徒を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまち王国は分裂し、ジュベは西遼を打ち破った。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、逃走したがやがてモンゴル軍に捕えられて処刑され西遼の旧領はモンゴルに併合された。

3.中央アジア征服

 一連の遠征の結果、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大し、南はペルシャ湾、西はカスピ海に達するイスラム王朝ホラムズ・シャー朝に接することとなった。

 1218年、チンギスはホラムズ・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者が欲に駆られ彼らを虐殺した。但し、この使節自体が征服のための偵察・挑発部隊であった可能性がある。1219年、その報復としてチンギスは20万の軍隊を率いて中央アジア遠征に出発。

 スィル川(シルダリア川)流域に到達したモンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、自らは砂漠を迂回して中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服し破壊した。

 1220年、ホラムズ・シャー朝はモンゴル軍の前に壊滅しほぼ滅亡した。君主アラーウッディーン・ムハンマドははるか西方に逃れ去ったため、チンギス・ハーンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死する。1223年、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで遠征。キプチャクやルーシ諸公など途中のロシア諸勢力連合軍を次々に打ち破った。

 一方、チンギス・ハーン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタン・ホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーンを追い、南下を開始した。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、バーミヤンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。この時の破壊はモンゴル帝国の征服戦争の中でも突出しているという見方もある。これに関しては、ハラムズ・シャー朝の予定外の早い崩壊に引きずられて十分な情報収集や工作活動がないままにアフガニスタンやホラーサーンに侵攻してしまったことによる泥沼の戦況によるのではないかとの指摘もされている。

 チンギス・ハーンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰めるがインダス川を渡ってインドに逃げられ、寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切った。

 1225年、チンギスは中央アジアの北方でジュベ・スベエデイの別働隊と合流しようやく帰国した。

4.最後の遠征

 西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、長子ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガルの支配権を与えた。末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。

 モンゴルでは、ハーンの遺産分割は各領地を長男から順に分与し、本拠地オルドを末子に相続させる末子相続と呼ばれる制度になっていた。

 以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラムズ遠征に対する援軍派遣をずるずると引き延ばし、その上チンギスがイランにいる間に、金とモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ってきたチンギスは西夏に対する懲罰遠征を決意した。1年の休息と軍隊の再整備の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。

 1226年、川が凍結している季節に、モンゴル軍はいつものように迅速かつ強力に南に進撃した。西夏のタングート族はモンゴルの戦法に精通しており準備万端整えて待ち構え、両軍は凍結した黄河の岸辺で会戦した。西夏と金の連合軍は30万以上を擁して待ち構えていたにも拘わらず精強なモンゴル軍に歯が立たずに敗れ、事実上殲滅された。

 モンゴル軍は精力的に追撃し、西夏の皇帝を山砦で殺害した。彼の息子はモンゴルが前回の遠征で攻略できなかった西夏の首都興慶(現在の銀川)に逃げ込んだ。西夏攻略に全軍の三分の一を残し、オゴデイには黄河北岸の拠点に残っていた金軍の追討に当たらせた。残りの部隊を率いてチンギスは南東に、宋の増援軍が寧夏に達するのを防ぐため西夏・金・南宋帝国の接点である東四川地方に向かった。ここで彼は新西夏皇帝の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平は拒否した。

5.偉大な帝王の死

 1226年末、西夏、金を完全に滅ぼす前にチンギスは危篤に陥り、モンゴルへの帰途に就いた。

 1227年、チンギスは六磐山の陣中で死去。死の床で彼は末子のトルイに金を完全に滅ぼすための計画を言い残した。

 彼の遺骸はモンゴルへと帰っていったが、東方見聞録の記すところによると、その際隊列の護衛たちは行く手に見かけた人々を全て殺して進んだという。そのためか、彼らがハーンの遺骸を何処の地に葬ったかは明らかになっていない。なお、モンゴル帝国の諸帝の埋葬の地もことごとく明らかになっていない。

 偉大な英雄が亡くなったことは伏され、密かにモンゴル高原に運ばれてモンゴル高原中央部の山麓に葬られたとされている。当時のモンゴル族の埋葬の風習は鳥葬、土葬が主流であったが、チンギス・ハーンは生前の遺言通り全く何の墓石、墓標もない土葬にされ、その後は元の自然のままに戻されたという。遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎となっている。
 
 なにやら日本の武田信玄の陣中死と、遺体の極秘移送、埋葬地の謎などの話に大変良く似ているが、武田家がこのチンギス・ハーンの故事を真似たのではと想像すると興味深い。

 チンギス・ハーンの祭祀は、生前、彼の宮廷であった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所にゲルとしてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。

 元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。

 こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・ハーン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。中華人民共和国によって建造され、現今、内モンゴル自治区にある成吉思汗陵はこの八白室の後身である。

 冷戦が終結した1990年代以降、各国の調査隊がチンギス・ハーンの墓探しを行ったが発見されていない。

 しかし、民族の英雄であるチンギス・ハーンの神聖視される墓が、外国人に発掘されることを快く思わないモンゴル人も多いという。

 2004年、日本の調査隊が、首都ウランバートルから東へ250kmのヘルレン川沿いの草原地帯にあるチンギス・ハーンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・ハーンの霊廟として用いられていたことを明らかにし、チンギス・ハーンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと結論付けたが墳墓自体は発見出来なかった。

 チンギス・ハーンの誕生年は三説あると前に書いたが、死亡年令は73才から65才の幅になる。当時の平均寿命は30才程度だと考えられていることから、1162年生まれの65才というのが最も妥当かと思われる。

 モンゴル騎馬遊牧民は鹿、ガゼル、トナカイ、ヘラジカなどの野生動物狩りが生活の一部で、軍事訓練の一部ともなっていた。騎馬遊牧民のハーンは多数の兵士を動員しての巻き狩りを頻繁に催しており、チンギス・ハーンもことの他好んだと記録されている。

 高齢になったので、息子達や側近の将軍達は度々騎乗巻き狩りを慎むよう請願したが、チンギス・ハーンは聞き入れず、1223年と1225年の2度にわたり落馬し、この怪我が元で体調を崩していたと言われている。特に2回目の落馬後は騎乗もままならなかったほど悪化し、西夏追討は控えるようにとの側近の進言も聞かず、ついに死に至ったと考えられている。

執筆

加戸 信之

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー

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