モンゴルの歴史(9)  - The Land of Nomads –

1. モンゴルの再興

 14世紀末から中国の明国と対立を続けたモンゴルの史料は17世紀まで途絶え、その間は断片的な記録しか残っていない。

1487年フビライ家系のダヤイ・ハーンが北元の皇帝に即位。彼は元朝のモンゴル諸部を再び統一し、今日のモンゴルの中興の祖と呼ばれている
1571年北元の勢力は次第に弱まり、時の皇帝アルタン・ハーンは明と講和を結び順義王の称号を与えられた。しかし、中国文化の流入でモンゴルの独自性を失うことを警戒してチベットとの関係を強化。皇帝は東チベット、今の西四川省から来たアセン・ラマに帰依し仏教徒となる。更にゲルク派の高僧ソェナム・ギャツォを招き「ダライ・ラマ」の称号を贈った。ダライとは大海の意味で、チベット語ギャツォのモンゴル語訳である。ギャツォは転生活仏であったので、その二代前から数えてダライ・ラマ三世と称した。こうして元朝崩壊後途絶えていたチベット仏教はモンゴル民族に復活された。この後、チベットではゲルク派はアルタン・ハーンのひ孫をダライ・ラマ四世としモンゴルとチベットの関係はますます緊密となってゆく。
1616年ロシア使節が初めてモンゴルを訪れ第二代アルタン・ハーンと会見
1617年第二代アルタン・ハーンの使節がロシアに派遣された
1628年東方からモンゴル宗家のリンダン・ハーンが進入し順義王国は消滅
1659年第二代アルタン・ハーン死去。第三代アルタン・ハーンは名目上ハルハ右翼のジャサクト・ハーンの臣下でモンゴル族記ではハーンの副主でハーン号は持っていなかった。しかし北方の新隣人ロシアと最初に交渉を持ち、17世紀を通じてハルハの領主達の中で特に大きな勢力を持ち続けた。

2. 清朝の建国と明の滅亡

モンゴル高原で北元が衰退して混乱してゆく中、満州では新たな動きが起こっていた。

1588年 女直のヌルハチが建州女直を統一。
1616年ヌルハチ率いる建州女直が満州遼河東方に後金国を建てる。1234年にオゴデイ・ハーンに滅ぼされた金の後継国家である。女直人はフビライ支配下での二度の日本遠征にも多数が駆り出されている。前にも触れたが、中国正史で女直と書かれた民族はジュシェンが民族名である。
1624年チンギス・ハーンの弟の子孫がヌルハチの姻戚となる。
1635年北元の宗家リンダン・ハーンが死去し子のエジェイが女真に降伏し「制誥 (せいこう) 之宝」の四字の元朝ハーン玉璽 (ぎょくじ) をヌルハチの子ホンタイジに差し出した。ホンタイジはチンギス・ハーンの天命を受けたと解釈して女直をマンジュと改名した。この後、彼らの出身地が満州と呼ばれるようになった。
1636年ホンタイジは瀋陽にマンジュ人、南モンゴル人、高麗系漢人の各代表を招集して共通の皇帝に推挙され国号を大清と定めた。高麗系漢人とは六度のモンゴル軍の高麗侵略で捕虜となった何十万の高麗系子孫である。
なお、ヨーロッパでモンゴリアと呼ばれるのは19世紀からで、マンチュリアと呼ばれるようになるのは19世紀中頃からである。満州はモンゴル草原に比べて雨量が多く、天水農耕地帯であったが、土地の生産性は低く狩猟も行われていた。
清はモンゴルのハーンから離れて降伏したモンゴル人、高麗系漢人を清軍に編入し出身に関係なく行政上、満州人として扱った。
1637年朝鮮王は清の大軍に侵入されソウルを落とされ降伏し明と断交して清に属した。
1644年明は清に抵抗してきたが内乱で滅亡。清皇帝が北京に入り、この後260年余中国を支配する。
清の太宗と呼ばれたホンタイジの5人の皇后は全てモンゴル人で清朝を通じてモンゴル貴族は宮廷での地位が高かった。

3. ロシアの台頭

 モンゴルの影響力が急速に薄れるこの時期に西方でロシアが台頭してくる。
ロシアの起源はルーシと言われているが、このルーシとはスカンディナビアのノルマン人を指す。9世紀にルーシのリュサクシ兄弟がノヴゴロド、キエフを支配したのがロシアの起こりである。現在のロシア人の大多数を占める東スラブ人は森林を切り開く農耕の民であった。

 

 ロシア各都市はビザンツ商人やイスラム商人との毛皮や奴隷を交易する拠点として発展する。

 

 モンゴル帝国の侵入時はリューリク家の内部抗争中で統一がなく、ロシア各都市とロシア正教会はモンゴル人支配を完全に受け入れた。ロシア語のタタル(複数形がタタール)はモンゴルと同意語だったが、やがてロシアを支配したチンギス・ハーンの長子ジョチ家子孫だけをタタール人と呼ぶようになり、ジョチ家の支配した地域は「黄金のオルド」と呼ばれた。
1237年モンゴル軍が侵入した時、モスクワは小さな砦で当時の史料には名前すら登場しないがモンゴル支配下、徴税を請け負って発展。
1328年モスクワ公イヴァン一世が大公の位を授けられた。バルト海沿岸で大国に成長しつつあったリトアニアに対抗させるためジョチ家がモスクワを優遇したこともあり、万人隊17を持つ大公国になった。
1380年黄金のオルド内でハーン継承争いが起こっていたのに付け込んでモスクワ大公がジョチ家に反乱を起こし、一時は大勝利を収めた。
1382年ジョチ家がモスクワに再侵入し、モスクワ大公は逃亡した。
15世紀になってから黄金のオルド内で宗主争いが絶えず、モスクワとポーランドは度々リトアニアに侵略された。
1502年内紛が終息し、黄金のオルドはクリム・タタルと合体して大オルドとなった。
しかし、その後モスクワ大公イヴァン三世、四世に度々侵略されてハーン家はブハラに移動。黄金のオルドのハーン位をクリム・タタルに奪われる。ジョチ家はこの地で後の1783年にロシアのイェカテリナ二世に滅ぼされる。
1576年「最後の大ハーン」アクメドの曾孫シメオン・ペックラトヴィチはカシモフに移り住んでモスクワ大公イヴァン四世の保護を受けていたがツァーリの位に就けられた。
1577年イヴァン四世はシメオンから半ば強制的に譲位を受けて自分がツァーリになった。イヴァン四世はシメオンを利用しただけで、この手続きにより黄金のオルドの継承者を名乗りジョチ家の後裔達を支配する権利を得たことにした。モスクワ・ツァーリはラテン語で「白い皇帝」と自称し、モンゴル族からは「白いハーン」と呼ばれるようになる。これが後の「白ロシア」の名称に繋がる。ロシア帝国もモンゴル帝国の継承国家として出発した訳である。
1581年イヴァン四世がシベリア進出を始める。その先兵がコサックであった。コサックはジョチ家の支配下、ウクライナで自立的軍事共同体を形成して、広野で人馬一体の生活をしていた遊牧民集団で、黄金のオルド分裂後、ジョチ家から離れてロシア正教徒になった者達が起源だと言われている。
1585年コサックがウラル山脈を東に越えて侵入して行ったがクチュム・ハーンの反撃を受けて首領が戦死したため、その後はモンゴル後裔と正面衝突しないように遥か北方に迂回しつつ東進を続け、急速にシベリア開拓を進めていった。
1604年コサックはオビ河上流に達しトムスク市を建設した。
1608年ロシアの前進基地となったトムスク市はハルハのハーンと中国に初めて使節団を派遣したが何の進展も得られなかった。
1613年ミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれロマノフ朝誕生。ロマノフの孫ドョートル一世になってようやく現代に繋がるロシア帝国の基盤が作られた。
1616年ロシア使節が始めてアルタン・ハーンに会見。
1617年逆にアルタン・ハーンの使節が始めてロシアに派遣された。
1638年タイガ、ツンドラ地帯を東進し続けたロシアは遂に太平洋岸に達した。ウラル山脈からオホーツク海に達するのにわずか60年弱しか要していない。

4. ロシアのの南下と清との衝突

1638年この年に太平洋岸に達したロシアは、その後南下を始めた。
1644年黒竜江(アムール)に達する。
1649年隊長ハバロフはアムール地域の原住民ダグール人を略奪しつくし、この原住民の要請を受けた清軍はロシアと最初の戦闘を行った。
1653年あまりの残虐性と清軍との交戦に苦戦したことからハバロフは解任されたが、後任のフテパノフが更に黒龍江、松花江、ウスリ江を荒らし回ったため、この一帯の住民が南の清朝に逃れて一時無人地帯になってしまった。
このハバロフというコサック人はシベリア極東をロシア領にしたということでロシアの英雄として称えられ、現在のハバロフスクという都市名にもなり、その銅像が今もハバロフスクに建っている。
1656年清が反撃に出、ステパノフ軍を壊滅させた。
1665年数年の準備後ロシアは再び南下を開始。
1676年ロシアと清が黒竜江地方をめぐる係争の外交交渉を始めたが決裂。
1683~89年ロシアと清が満州で6年戦争を行い、清が優勢になった結果、ネルチンスク条約が結ばれ初めての国境線が黒竜江のはるか北方に設定された。この間モンゴル軍も清軍としてロシアと戦っている。
1691年ロシアとの戦いで苦しんだモンゴルのハルハ部領主達は清に臣従を誓う。この地は20世紀に外モンゴルと呼ばれる地域である。

5. 最後の遊牧帝国ジューンガル

 モンゴルに話を戻す。モンゴル語で左翼という意味のジューンガル部族は17世紀後半に突然歴史の表舞台に登場し中央ユーラシア草原に一大遊牧帝国を築いたが18世紀半ばには過去の遊牧帝国と同じく相続争いで内部崩壊し清朝に亡ぼされた。

 

 その後ユーラシアには二度と遊牧帝国は生まれなかった。なお、カザフスタン人がロシアに従属したのはジューンガルの圧迫から逃れたためである。

 

 ジューンガルは元々13世紀始めオイラト四部族連合を構成する一大部族であったが、元朝が中国からモンゴル高原に退いたフビライ家のハーンに圧迫されていたものである。
この後、モンゴル高原遊牧民はモンゴル40部族連合とオイラト4部族連合の二大陣営に分かれ対立する。

 

 オイラト部族連合は元のオイラト部族にモンゴル高原西北部の部族が加わった反フビライ連合だった。

 

 ジューンガル帝国の本拠地は今の中国新疆北部のジューンガル盆地を中心にした天山山脈の北方一帯であった。1620年頃、ジューンガル部族長ハラフラがアルタイ・ハーンに立ち向かったが打ち負かされ、オイラト諸部族はアルタイ・ハーンと西のジョチ後裔の遊牧集団カザフの両方から攻められシベリアに避難。

 

 しかし、1623年に南下してモンゴルとの戦争に乗り出し3万6千の兵で8万のモンゴル軍を破りハルハのアルタイ・ハーンを殺してオイラトがモンゴル従属から初めて自由になった。
しかし、わずか2年後の1625年に遺産争いを起こし、その一部のトルグート部族長は5万家族を連れて西に向かい1630年にまだロシア領ではなかったヴォルガ河畔に移住した。
オイラト人はモンゴルの影響で17世紀始めにはチベット仏教徒になっていたが、チベットは施主のモンゴル領主を巻き込んで派閥抗争中で新しく領主になったオイラト諸部は青海に南下して1万の軍で3万のモンゴル・ハルハ部族を殲滅した。

 

 部族長グーンはダライ・ラマ5世から「持教法王」の称号を授かりモンゴル語でグーシ・ノミーン・ハーンと名乗りオイラトではじめてのハーンを称した。これはハーンの称号はチンギス・ハーンの男系子孫だけが称せられるというモンゴル帝国の不文律に対するチベット仏教からの挑戦だった。ダライ・ラマ5世は自分を頂点とする仏教世界の秩序に新たな施主を組み入れる意図があった。

 

 グーン・ハーンは遠征に同行したジューンガル部族長を娘と結婚させバートル・ホンタイジという称号を与えた上で故地に帰し、中央アジアのオイラト諸部族の盟主とした。
1642年、グーン・ハーン自身はチベット各地を平定しチベット全土を統一してチベット王の位に就いた。

 

 ダタイ・ラマ5世はチベット仏教教主に推載され、この後現在まで続くダライ・ラマ政権の始祖となった。

 

 またグーン・ハーンの子孫は青海草原で遊牧しながら名目上、代々のチベット王となった。
1678年、バートル・ホンタイジ没後に内部抗争の結果、ガルダン・ハーンが継いで西方に勢力を拡大しタリム盆地のトルコ系イスラム教徒を属民とした。

 

1684~85年、タシュケント、サイラムを占領。
1688年、漠北のハルハに侵入し、数十万人のハルハ人はゴビ砂漠の南に逃れ清に保護を求めた。

 

 このモンゴル人の領主はハルハにチベット仏教を導入し、1585年にモンゴル帝国時代の旧都カラコルムに現在も残る仏教寺院エルデニ・ゾーを築いたアバダイの子孫であり清に従属を誓った。

 

 ガルダン・ハーンは清にモンゴル人領主とハルハのチベット仏教高僧の引渡しを求めたが清は拒否。

 

 ガルダンは2万の兵で南下し北京北方300kmの地で清軍と衝突したが清の増援部隊の到着で漠北に引き揚げた。

 

この争いでモンゴルでは初めての火器が使われた。ジューンガル軍は1650年頃からロシアより鉄砲、大砲を提供されており、硫黄を精製して使用した。こうしてオイラト連合を除くモンゴル民族全てが清朝の支配下に入った。

 

1696年、清は3個軍団でモンゴル高原に遠征しガルダン軍は逃走。それを追って清軍は現在のウランバートル近郊で補足激戦しガルダン軍の主力を壊滅。ガルダン自身は少数の部下と脱出したが、この間にガルダンの甥が本拠地で叛旗を翻して清と連合したため故地に帰れず、放浪の末に病没した。
1720年青海地域とチベットでジューンガル内部の内部抗争が再び起こったが清朝公認のダライ・ラマ7世が清に助けられてラサに入り清のチベット保護が始まったためジューンガル軍は北方に逃れた。
1731年ジューンガル軍はモンゴル高原に侵入し一時は清軍を破りエルデニ・ゾーを占領したがモンゴル軍の反撃に大敗して敗走。国境交渉で現在のモンゴル西部のブヤント河を境とし、オイラトはアルタイ山脈を越えない事と決まった。ジューンガルはこの為西方征服に専念しカザフを侵略したためカザフは帝政ロシアに保護を求めた。
現在のカザフ人は15世紀にウズベク族から分離した遊牧集団の後裔で、イスラム化したチンギス・ハーンの長子ジョチの後裔の総称である。その一部が南下して現在のウズベキスタンの国民となった。
1742年更にジューンガルの別軍はタシケントとホーカンド・ハーン国を占領。しかしその後お決まりの分裂が起こる。1775年、清はこれを利して一挙にモンゴル軍と満州軍を動員して進軍し、最後の遊牧帝国ジューンガルは滅亡した。
 その後、ジューンガルの残党が度々清軍を襲撃したが天然痘が大流行してオイラトの人口が激減。ジューンガルはほぼ全滅しイリ地方はほとんど無人地帯となった。ヴォルガ河畔のトルグート族がこの地をねらって3万3千家族の大移動を行ったが、途中でロシアのコサック、イスラム教徒のバシキル人、カザフ人、キルギマ人などに襲われて7ヶ月の移動で10万人を失ってようやくイリの故地に帰り着き清の保護下に入った。

 

 この年、ヴォルガ河が凍結しなかったため右岸から渡河できずに取り残された1万数千家族の子孫が元ソ連邦カルムイク共和国の人々である。イリに帰還した7万人のトルグート族の子孫が現在の新疆北部に住むトルグート.モンゴル族である。

 

 一部のオイラト連合とジューンガル部族もその子孫が現在に生き残っている。

執筆

加戸 信之

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

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