モンゴルの歴史(11) - The Land of Nomads –
歴史
1.日清戦争と日露戦争のモンゴルへの影響
2. 辛亥革命
1911年、生き残りをかけていた清朝は窮乏国家財政建て直しのため、鉄道の国有化を行おうとした。これに対し外国資本に国益を売り飛ばそうとする行為だとする反対運動が四川省で起こり、それに乗った形で孫文の中国革命同盟が湖北省で反乱を起こす。これに14の省が続いて清朝からの独立を宣言。
1912年、各省代表が南京に集まり、孫文を臨時大統領にした中華民国政府を立ち上げた。
清朝は袁世凱にこの討伐を命じたが、袁世凱は逆に民国政府と協議して宣統帝を退位させ、自分が孫文に取って代わって大統領に就任した。なお、宣統帝は退位の優遇条件として、その後も紫禁城に居住し大清皇帝の尊称を用いた。
中華民国は基本法として臨時約法を公布したが、袁世凱は孫文らとの約束を反故にし、革命の旗手宋教仁を暗殺、更に臨時約法を廃止し一時は中華帝国皇帝になるなど反民主的、専制的となって革命の夢は破れた。革命側は抵抗を続けたが実らず、中国全土に軍閥が割拠するようになった。中華民国は内モンコ゛ル各地の王公の特権を保証していたがこれら漢人軍閥が勝手に開拓を進めたため牧地は減少し続け遊牧民の生活は疲弊の一途をたどった。
袁世凱は革命派を弾劾しつつ専制政治を行っていたが、国内外の反発を受けて退位し、1916年に失意の内に没した。
中国の統一を目指す孫文は国民党を結成し、ロシアとの関係を深めたり中国共産党と協力するなど統一を目指したが1925年に北京で亡くなり、平和的統一は出来なかった。
孫文亡き後の国民党は国民政府を組織。ここで急速に台頭してきた蒋介石が、1928年に張作霖の息子で後継者である張学良が満州事変を機に国民党に合流した後、やっと地方軍閥を抑えて全国統一を成し遂げた。
しかし、台頭してくる毛沢東率いる中国共産党との1948年の国共内戦で国民党は破れ、1949年に台湾に逃れた。