モンゴルの歴史(12)  - The Land of Nomads –

1. ロシア革命後のモンゴル

1917年ロシアで革命が起こり帝政ロシア崩壊。中国は外モンゴルの完全制覇をたくらんだ。(ロシア革命についての説明は省略する)
1918年
~19年
日本はロシア革命につけ込んで7万3千人の兵力でシべリア出兵を行ない、17世紀からロシア臣民になっていたモンゴル系ブリヤート人を母とするコサックの頭目セミョーノフの汎モンゴル国運動を支援した。この運動はブリヤートに内外モンゴルとバルクを併せた汎モンゴル国建設を目指したものだったが外モンゴルのボグド政府が反対して内部分裂し1920年に消滅した。
1919年中国は中国軍閥をフレー(現ウランバートル)に送りボグド・ハーンの宮殿を兵士で囲み自治返上を迫り、中華民国大統領令で外蒙自治撤廃を発表した。
1920年屈辱の涙にくれるモンゴル人の前で自治撤廃式典が強行された。この間にモンゴル下級役人とラマ僧のグループがモンゴル人民党を結成しモスクワに援助を求めたが中国官憲に逮捕され壊滅状態となった。この頃のフレーの人口はモンゴル人3万2千、中国人3万、ロシア人千五百人(内ユダヤ人5百人)で日本人も13人居たと記されている。日本人は商人、三井の駐在員と駐在武官であった。
1920年ロシア革命に敗れたソビエト白軍で元セミョーノフの部下であったウンゲルン男爵がコサック、ブリヤート人、モンゴル人、タタール人、中国人、朝鮮人の反中華民国民を連合した軍を率いて根拠地を求めてモンゴル領に入ってきた。この中には50人の日本人がおり、大部分はバブージャブ軍に参加していた予備将校や現地除隊した者達だった。
1921年弱体化していた中国軍を追い出しフレーに入ったウンゲルン軍はボグド・ハーンを復位させたためモンゴル人は彼を解放者として歓迎したが、ウンゲルンは自軍のユダヤ人を皆殺しするなど暴挙の限りを尽くすようになったため、ボグド・ハーンはやむなく北京に救援を乞うた。しかし、中国軍は動かずモンゴルにスフバートルとチョイバルサンという2人の英雄が現れてモンゴル革命を起こす。同年、モンゴルの北方、ブリヤート共和国にソビエト政府の支持を得て外国干渉国である日本などに対する緩衝国として極東共和国というものが作られた。
1922年この共和国は日本軍のシべリア撤兵に伴いソビエト共和国に吸収されて消滅したが、消滅前にこの共和国でモンゴル民主党第一回党大会が開かれ臨時人民政府が樹立された。モンゴル義勇軍は中国軍を南に追い出し、北上したウンゲルン軍を破りフレーに進軍し、ボグド・ハーンを元首とする連合政府を樹立。
1924年ボグド・ハーン死去に伴い人民共和国となった。この時にフレーをウランバートル(赤い英雄)と改名した。(今後は外モンゴルを単にモンゴルと記し、中国領となってしまった内モンゴルと区別する)
 1919年に建てられたボグド・ハーンの宮殿は今もウランバートルに宮殿博物館として残っている。

 この2人の英雄はモンゴル建国の英雄として称えられ政庁前の広場はスフバートル広場と名付けられ彼の騎馬像が建っている。チョイバルサンの銅像もモンゴル国立大学の正面に建っている。

 後日談だが、チョイバルサンはモンゴル人民革命党最高指導者となり、スターリンの血の粛清に従って3万人にも上るとも言われる反政府知識人、僧侶、軍人を粛清した。このためソ連邦崩壊のモンゴル民主化後に銅像を倒せという声が上がったものの、負の業績よりもモンゴルを独立させたという功績の方が大きいと銅像は残されることになったという。

 このモンゴルでの血の粛清の様子は大粛清博物館にその暴挙の悲惨さが展示されている。一方の独立の英雄スフバートルは軍人で人民共和国成立前の1923年に急死して独立後の政治には関わっていない。

 ちなみに、ウランバートルにはスターリンの銅像が3基あったが全てソ連邦崩壊後に撤去されている。しかし、レーニンの銅像は今もウランバートル・ホテルの前の公園に建っている。

 ロシアの革命、清朝滅亡とその後の中華民国の混迷の間にモンゴルは1924年に人民共和国を誕生させる事が出来たと言える。モンゴルはソ連に次いで世界で2番目の社会主義国となったのである。
1924年モンゴル人民共和国誕生の頃、中国では孫文の努力で国民党と中国共産党の国共合作が始まった。中ソ間は国交を回復しソ連はモンゴルでの中国主権を承認した。共産国となったソ連にとってモンゴルは中国共産革命の足場としてしか考えられていなかったのである。
1927年蒋介石による反共クーデターで国共合作が崩壊するとソ連はモンゴル人民共和国を中国と切り離す極左路線に転じた。
1928年モンゴル革命政権は右派を追放。
1930年旧王公、僧侶、裕福牧民の家畜没収、遊牧民の強制的集団化、反宗教運動、下級僧侶の強制的還俗、個人商業の廃止などの極左政策を決定。家畜数は2,300万頭が2年で1,600万頭に激減した。
1932年親ソ政策を取る革命党政府があまりに急激な共産化を図ったため反乱が起こり、当時80万の人口の45%が支持した。ソ連で独裁政権を握ったばかりのスターリンは特使を派遣して実情を調べた後、対モンゴル極左政策を転換して重点的な経済援助を始めた。

2. 日清戦争

 1931年、日本は満州事変を起こし、1万5千人の日本軍が25万の張学良軍を満州から追い払った。

 満州事変とは、この年9月に奉天(現瀋陽)郊外で南満州鉄道の線路が爆破された柳条湖事件に端を発し、わずか5ヵ月で満州全土を占領し1933年に中国と塘沽協定に至るまでの日本と中国との紛争、事変である。この事変を境に関東軍と満州の抗日運動の衝突が激化してゆく。日本では軍部が発言力を強めて行き日中戦争へと突き進んで行くことになる。また中国市場に強い関心を持つアメリカ等列強との対立が深刻化してゆく元となった事変である。

 柳条湖事件は関東軍が満州占拠を狙って仕組んだ罠であり、関東軍自身が爆破した事件を中国軍の帳学良ら東北軍による破壊工作と断定して占領行動に移ったものであった。爆破自体は、直後に現場を急行列車が何事もなく通過していることから極小規模に抑えていたことが伺われる。

 1919年に守備隊から関東軍へと拡大していた満州駐留軍は地元の親日派である張作霖に軍事顧問団を送り取り込みを図っていた。しかし、張作霖が海外資本の提供を受けて満鉄の平行線を建設し始めて両者の関係は悪化した。関東軍は1928年、張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破殺害するという張作霖爆破殺害事件を起こす。張作霖の後を継いだ息子、張学良は蒋介石の南京国民党への合流を決意し日本に敵対的な行動を取るようになってゆき、父が始めた新鉄道路線建設を南満州鉄道のすぐ横に敷設し安価な料金で経営競争を仕掛けた。危機感を感じた関東軍は再三恫喝するが聞き入れられず、本国に図ることなく満州の占領を策していったのである。

 事変後、日本政府はこの関東軍の専横を厳しく咎めることをしなかったために、関東軍と陸軍の独走が始まるのである。
1932年帝統帝、溥儀を執政として満州国を成立させる。第二次満蒙独立運動が挫折した後、日本に庇護されていたバブージャブの次男で日本陸軍士官学校出のガンジュンジャブを援助して蒙古独立軍を組織させた。しかし、日本は満州の満、漢、蒙、鮮、日の五族共和の建国理念から蒙古独立は自治に格下げにし、この軍は内蒙古自治軍と改称された。更にその後、この軍は満州国軍に編入された。
1933年関東軍に帰順したガンジュンジャブらのモンゴル人将軍を使って東部内モンゴルを侵略した後、日本は伝統的モンゴル牧畜経済に配慮し東部内モンゴルを興安省として満州国特別行政区にした。
1934年執政溥儀を皇帝に即位させ満州帝国とした。蒋介石は満州問題を棚上げにして日中友好の方針を決定し満州帝国と通郵協定と設関協定を結んだ。蒋介石には中華民国の建国と台頭してくる毛沢東の共産党、各地の軍閥との確執のため満州で日本と争う余裕が全く無かったのである。内モンゴルでのチンギス・ハーン子孫の1人デムチュクドンロブ(徳王)は国民政府に内モンゴル高度自治、統一自治政府設立を要求し蒋介石は高度自治を地方自治に改めた上でこれを承認したので蒙政会(蒙古自治政務委員会)が成立した。
1935年関東軍と蒋介石の国民政府は協定を結び、関東軍は満州から越境せず、国民政府軍は張家口北から撤兵することを約した。

3. 内モンゴル独立運動

1935年蒋介石と協定を結んだものの関東軍は特務機関を使い西部内モンゴルを中国から独立させる工作を密かに開始する。内モンゴルの徳王は対日提携を決定し満州国首都、新京に行き関東軍から軍事、経済援助の約束を取り付けた。
1936年関東軍は西内モンゴルで徳王を総裁とする蒙古軍政府を成立させ20数名の日系顧問を派遣。徳王は満州皇帝を訪問し相互援助協定を結ぶ。日本政府と陸軍中枢部は関東軍が内モンゴルで工作を行うことを禁止し同地の工作区分を支那駐屯軍としたが、関東軍はこの支那駐屯軍を配下の軍団と見下し、工作区分を無視して西部内モンゴルの中国からの独立を策した。徳王は関東軍の後援で南下侵攻計画を進めたが中国軍に破れ日本特務機関員29人が殺害される事態に至った。
1937年支那事変が起こると関東軍、東条英機はチャハル派兵兵団を率いて長城内の帳家口、大同などの一帯を占領し、察南、普北、蒙古連盟の各自治政府を成立させた。陸軍中枢部は察南、普北両自治政府を華北新政権に合流させる意向だったが関東軍は中央の支配の及ばない蒙疆政権樹立を目指した。
1939年徳王は訪日し天皇に拝謁して蒙古独立建国を訴えたが、日本には蒙疆連合委員会の蒙疆一体支配の企みがあったことから独立は否定された。
1941年中国戦線が長期化するのに従い、内モンゴル駐留日本軍はモンゴル人の戦争協力を得るため部分的に譲歩し蒙古連合自治政府を蒙古自治邦と自称することを認めた。太平洋戦争が勃発するとモンゴル人の政治的権利が拡大し徳王も積極的に戦争協力し、人材養成のため若く優秀なモンゴル人を留学生として日本に送った。
1945年ソ連が対日宣戦布告し、モンゴルから内モンゴルに侵入し日本の敗戦と共に蒙古自治邦も崩壊した。

執筆

加戸 信之 

元JICAシニア海外ボランティア ・ 元モンゴル航空局アドバイザー 

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