飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (1) 飯沼操縦士に憧れて

はじめに

 横浜は開港150周年を迎え、国際港都として内外に著名であるが、この横浜に戦前、戦中まで、空の港「空港」があったことをご存知の方は少ないと思う。昭和15年、磯子区鳳町に水上基地(根岸飛行場)が完成.翌年6月大日本航空横浜支所が浜空(横浜海軍航空隊)から移転し、純民間唯一の飛行艇基地として業務を開始した。空港には、東洋一といわれた九七式大艇8機が収納出来る巨大な格納庫と近代的な空港ターミナルビルがその威容を誇っていた。(関連文の文末をご参照下さい

 1070馬力のエンジンを4基搭載した大艇は巡航速度260キロ(新幹線とほぼ同じスピード)で、旅客18名、横浜からパラオ間の運賃は片道365円、当時の大学出月給70円程度だから相当高額であり船の一等が180円所要日数11日間飛行艇では2日で到着する。なんといっても速さが大きな魅力であった。

 佐世保海軍航空隊で九七式大艇操縦訓練中の12月に太平洋戦争が勃発したが、予定の変更はなく、翌年17年2月休む間もなく直接、大日本航空横浜支所に操縦士として入社した。

 以来終戦まで、4年間にわたり南海の島々を飛翔した。多くの先輩同僚が南溟の果てで散っていった中、かろうじて命生きながらえたが、横浜支所在籍の4年間で人間の一生分以上の体験、経験を積み、かつ味わってきた。

 飛行艇でのエピソードは山ほどあるが、一部を既に「航空情報」誌に連載し発刊いたしました「南海の銀翼」に今回珍しい飛行艇に関する写真を挿入し再編集し、同時に飛行艇からジャンボ機までの半生を顧みるチャンスでもあり、私の航空人生のほんの一端を回想してみます。

飯沼操縦士に憧れて

 そのときの出逢いが人生を根底から変えるといわれている。「どうして飛行機の操縦士になりたいと思ったのですか?」と聞かれると、私は即座に「女性達に囲まれて大声援を受けているモテモテの飯沼操縦士に憧れたから」と答えている。たいがいの人は、「なんだぁ、そんなことですか」と拍子抜けのような顔をされる。

 60年以上前の話で恐縮だが、旧制中学4年のとき、名古屋にも海軍予備航空団が新設された。中学在学中から、海軍の費用で飛行訓練ができる魅力ある制度であった。入団するには、かなりの厳しい審査と筆記試験、身体検査、適性検査などがあり、合格したときは夢のようだった。

 早速、教官に怒鳴られながら、必死に操縦桿を握りしめての飛行訓練が開始された。それからというもの、自宅の岡崎から名古屋へ往復の愛電(今の名鉄)では、全景が見える一番前方の座席を占領したものだった。電車がレールの上をカーブする毎に足(ラダー)に力をいれ、操縦桿を握ったつもりの握りこぶしを、電車の動きにあわせて、傾き角度(エルロン)よろしく、旋回操作を何回も何回も予習、復習したものだ。こうして愛電の約1時間は、新発見の我流模擬飛行機(シミュレーター)を活用しながら、飛行場と自宅を往復していた。乗客からは、多分、頭のおかしい中学生ぐらいに思われていたことだっただろう。

 空に魅せられた夢多き少年時代だった。ある日、神風号で日本とロンドン間の飛行を成功させ、世界に航空日本を披露して大喝采をうけた飯沼正明操縦士が、たまたま奥さんの故郷である名古屋空港へ飛来してきた。女性たちの大声援のなか、同機種の「汐風号」から、終戦時にマッカーサーが厚木飛行場に降り立った姿のように、日本人には珍しいサングラスをかけて、手を挙げながら颯爽と降りてきた飯沼操縦士を目の当たりにし、大いに感動したものだった。
 

「よし、民間航空パイロットになろう」と決断し、雛はすかさず行動をおこした。海軍予備航空団や中学校の猛烈な反対にあったが、純真な少年の心は動かなかった。航空局乗員養成所6期生として受験したのである。官報に合格者上位10名の中に、私の名前をみつけたときの感激は、今でも忘れない。

 「上記10名の者は、海軍委託訓練を行い大型飛行艇の操縦訓練を追加する予定につき、終了期間が延長されるため、航空局乗員養成所7期操縦生を命じる」と、公表された。それ以来、民間航空への道を歩んだ。

 大日本航空で南洋諸島を浮き雲のように飛び回っていたとき、名古屋海軍予備航空団時代での整備教官だったS海軍少尉に、トラック島航空基地で、偶然、お会いした事があった。別れて以来、4~5年はたっていたから、懐かしくて手を握り合いながら名古屋航空団時代の友人の便りを語り合った。かつて同期生として入団できた若き操縦搭乗員たちは病気で退団した1名を除き、1人残らず南方の空に散ったと涙ぐむ少尉の言葉に、ただただ、無念がこみあげてきた。    

 そうだったのか、あの飯沼操縦士との出逢いが、私の運命を決したのか、あらためて運命の不思議を思い知らされた。瞬時の強引なチェンジマインドが「空だ、男のゆくところ」と、今も飛ぶことができた幸運に恵まれたのだ。生まれた環境と運という定めにしたがう、川の流れのような人生ではなく、若さで突き進んだ結果だった。

 あるとき、かつての乗員たちの出逢い、飛行した南洋諸島の真っ白の砂浜、どこまでも透き通っている海と珊瑚礁、地球の自然に富んだ汚れを知ない島、また島、各地での島民たちとの交流等々を回顧していた。そして、戦中戦後を通じ、2万1,350時間以上もの飛行をすることができた喜びを書き残したいと思いたった。

 大艇の海洋部編を書き始めてみると、つぎつぎと思い出が沸きながら,漠然とした記憶のみではどしようもなかった。なにか当時の記録がないものかと探してみても無駄だった。戦中は個人の飛行記録であるログブック(飛行記録帳)さえ記入禁止だった。勿論、飛行基地や使用中の飛行艇の写真等一切残っていない。理由は、敵の手に渡った場合、最前線での軍の動きが察知されるからだという。  

 さらに追い討ちをかけるように、戦後、進駐軍対策として、飛行関係書類は一切焼却処分にしてしまっていた。数年経ってようやく碇嘉朗著[二式大艇]と大日本航空発刊の[航空輸送の歩み]を手にすることができて、はじめてこのエッセイを書きあげてみた。

 機長は事にいどんで、他クルーの意見をよく聞いて判断する必要がある。いや、聞く必要はないという人もいるだろう。少なくとも、おのれと他クルーとの考えの相違を咀嚼する能力は必要ではなかろうか。いずれにしてもコクピット内(操縦席内)での永遠のテーマである。そして、石橋を叩いて渡ってこそ、安全という因果がめぐってくると思う。

 一般の人からみると、パイロットは変人の部類にはいるらしい。何事にも心配性であり、天気予報や旅行などにも、常に無駄な最悪の状態を想定しなければならない。反面、大胆にふるまわなければ目的を完遂できない場合も多々ある。待ったなしの決断が必要なときもある。明日までゆっくりと考えて解決することができないのが、飛び職の辛いところなのだ。

 定期運航で飛行しながら、万事休すの苦しみが、夢でよかったと安堵の胸を撫でおろす夜が、定年後、10年以上も経たなければ消えない業な仕事なのである。これは内緒といっても、私だけではなく、今も昔も変らない厳しさがつきまとう。

 横浜の磯子に空港があったことを知っている人は、すでに旧人類になってしまった。新人類の人々は、まさか横浜から南洋諸島への空の架け橋として、四發超大型飛行艇が南海に向かって飛んでいったことなど、想像外のことだろう。さらに半世紀前に、すでに300人以上を乗せて、横浜~ハワイ直行可能な飛行艇の設計図が、川西で出来上がっていたことを知る人は少ない。今のジャンボ機に相当する機体を、日本人の手によって実現しようとした時代のあったことは驚き以外の何ものでもない。

編集人より

 筆者の越田利成氏は戦前、大日本航空の飛行艇パイロットとして、戦後の平和な日本で生活している者にとっては想像もつかない熾烈な体験を積まれた飛行艇パイロットの数少ない生き証人です。

 川西航空機(現 新明和工業)が開発した九七式飛行艇(通称:九七式大艇)、その後継機の二式飛行艇(通称:二式大艇)は当時、欧米列強の水準を超えた世界最高水準の飛行艇だったと評されています。第二次世界大戦では、米海軍のコンソリデーティッドPBYカタリナや英海軍のショート・サンダーランド飛行艇が哨戒や連絡に活躍していますが、二式大艇(167機生産)の性能は突出していました。

 終戦後、米軍は押収した二式大艇を性能確認のため、本国へ持ち帰ることになりました。これに先立つ1945年11月11日、わずか数機しか残っていなかった二式大艇のうち、状態の良い1機が四国の詫間基地から根岸飛行場へ空輸されました。この際、米軍からは「先導するカタリナ飛行艇より前に出てはならない」と厳命され、操縦した旧海軍の日辻常雄少佐は、二式大艇のフラップを下げてスピードを殺したうえ、蛇行飛行するしかなかったといわれています。それほど二式大艇はスピード、航続性能において抜きん出ていたのです。

 この飛行が占領軍による航空全面禁止前に日本国内を飛んだ最後の日本機となりました。そして1945年12月10日、二式大艇は米海軍の航空母艦に積まれ横浜から米国へと送られました。

 米国でのテスト飛行、水上滑走テストの結果、当時の欧米列強の飛行艇の水準をはるかに超えた高性能で米国側を驚かせています。この二式大艇に結実した技術、そして蓄積された経験が現在、海上自衛隊に導入されている救難飛行艇US-1を経て配備が始まった新鋭のUS-2に伝えられています。

執筆

越田 利成

元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

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