飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (4) 飛行艇整備

1. 飛行艇整備への憧れ

 昭和19年に横浜支所で飛行艇の整備に従事されていた中村正氏から、「飛行艇と横浜の思い出」と題したお便りをいただき、懐かしい貴重な整備の体験を基に磯子の思い出が次々と現れ、巨大な飛行艇を安全に飛ばせた整備の意地を見た。

 航空機の整備をやるなら飛行艇の整備をというのが中村氏の念願で、横浜支所に就職が決まり、後に陸軍に入隊されるまで大日航の整備に従事されて、満足感に満ちた充実した職場生活を送られたようで、現在も、大艇の強烈な印象が忘れられないそうだ。

 飛行艇の整備は、飛行距離が長距離の太平洋の洋上飛行で、幾日も南方の炎天下に係留し、又、前線基地への飛行が多く、重整備や、エンジン交換された時には勿論、長期間飛行計画が予想される場合、出発の前に必ず試験飛行が実施された。エンジン、機体、通信関係など全般を点検する試験飛行で完璧な整備管理が行われていた。

 戦時中であったが、余裕がある場合、前もって届けられてあれば、地域の関係者の方々や小学生でも試験飛行に同乗することが許可され、空中の体験をしてもらい良き飛行艇の思い出になるように全職員が心掛け、帰りに一緒に食堂で洋食を食べて、皆に喜んでもらうチャンスがあった。大日航海洋部横浜支所には、海軍とは全く異なる自由な雰囲気があった。近い将来、新鋭大型飛行艇によって海外へ雄飛する夢と希望に燃え、社員はそれなりのプライドとスマートさを持って職務を遂行していた。

 次第に戦争への重苦しい空気が漂ったが、国民大衆に明るい希望を与えた、九七式大艇が主役で国際海洋航空路開拓という壮大にしてロマンを秘めた映画「南海の花束」が大ヒットしたのも、このころであった。地域の方からも愛された大日航横浜支所だった。

2. 大艇の魅力と驚き

 中村氏が飛行艇を希望した理由は二つあった。一つ目は、陸上機には降着装置やブレーキの故障が多く、かつ脚やナセルの泥や埃にまみれ、洗浄等の苦労があった。飛行艇なら脚はないし、洋上を離着水するから綺麗だろうという訳だ。

 二つ目として、当時の飛行艇は今のジャンボ機のようなもので、九七式は1,000馬力、二式は2,000馬力の4つのエンジンを全開し、轟音と物凄い海水の飛沫(ひまつ)を巻き上げながら、海面を滑るように離水して南の空へ飛び立つ格好のよさに、無性に魅せられた。

 ところが実際整備に携わってみると、中村氏は、いかに取り扱いや整備、運用が大変であるか嫌というほど身にしみたそうである。

 二式の火星乙型エンジンの水噴射は、日本人が考案した馬力向上のためシリンダー冷却方式で、主に離陸時の推力向上を狙ったものであるが、このお陰で、敵グラマン戦闘機に遭遇した場合でも2速(水噴射)に切り替えると相手と同速度で飛行できた。戦後はダグラスDC-8にも採用された優れたアイデアである。

 中村氏にとって見るもの聞くもの総てが驚きであり、日常、大艇に接し、その機能、構造を知るに及んで、ますます自分の仕事に対する誇りと、戦時中の使命感をひしひしと感じたとのことだ。

3. 大艇整備の思い出

 以下、中村正氏の回想(青字部分)を掲載する。

 飛行艇は洋上を離着水するので、海水に対する腐蝕対策が重要な問題のひとつであった。あらゆる場所の取り付け金具などに防錆ないし防蝕グリースがべっとり塗ってあり、ついうっかり触れる場合が多い。やたらと作業服を汚すのは、駆け出し整備員だ、ということになっていた。われわれは早く技術を身につけ、要領よく仕事ができるよう真剣に努力したものである。

 大艇は着水すると内舷エンジンを停止し、両外舷(#1、#4)エンジンをしぼってスロー回転しながら滑走台に接近し、航空士がブイを引っ掛けて係留した後、陸上から海中に投げ込んだ浮袋付主車輪2個を乗員が艇体の左右に取り付ける。同時に整備員は、尾部運搬車も艇体に、そしてワイヤー・ロープを艇尾に取り付け、トラクターで滑走台から陸上へ徐々に引き上げるのである。

 揚陸後の真水による艇体の水洗作業も含め、常時10名位のライン整備が配置され、相当時間を費やし失敗が許されない大変な仕事であった。ゴム長とゴム作業衣がつなぎになった作業服を着ているので、滑走台に付いているコケで滑り易くなっているから危険である。風雨の強い日は海水で全身びしょ濡れになる。真冬の寒い日は寒風と波しぶきで心身共に凍りそうな非常に厳しい作業であった。

 重整備を担当する組織や工場は別組織になっていた。重整備は格納庫内で、整備後の試運転、点火栓の交換、油漏れなどの修理は、格納庫前のエプロンで行った。

 大艇では、エンジン取付部の左右主翼前縁が折りたたみ式ステップとなっており、エンジンの整備の場合は、このステップの上で作業をやるのであるが、狭いので何かと制約があった。特にエンジンをスタートする時は、バッテリー駆動の電動慣性起動器をもっていたが、バッテリーの消耗を防ぐため、よく手動で回された。足場の悪さと重労働で、始動の下手な機関士は整備員から怨まれたものである。

 ライン整備のヘルプの場合は、洋上整備となることがよくあり、波があると艇が常時揺れ動くので、足元が定まらず慣れるまでは大変であった。作業中はよく手をすべらして、工具を海中に落とすことがあるので、頻繁に使用する工具には小さな穴をあけ、紐を通し首から吊るして整備をやったこともあり、特に暑い炎天下の作業ともなると、エンジン・ナセルや翼上面が焼け、その反射で体がうだるようになる。

 先輩は海軍出身者が多く、海軍方式が採用され航空用語は英語だったから、陸軍に入隊した時は無意識に英語が飛びだし「おい、その初年兵、なぜ敵性語を使うか」と古参兵からよく殴られた。気筒(シリンダー)、活塞(ピストン)等、陸軍用語に慣れるまでは一苦労した。

 飛行機の操縦操作では陸軍機と海軍機の操作が逆の場合があり、用語が異なっていたので緊急時には混乱するケースが多かった。戦後に解ったが欧米の航空界はすべて海軍式と同じであり、当然、飛行艇では近代的な考え方であったわけだ。
 
 前面は根岸湾で天気の良い晴れた日は霞霧のかなたに房総の山々がおぼろに望め、同僚と食事をとりながら戦況のこと、陸海軍の新鋭機のこと、大艇の新装備のことなど熱っぽくかたりあったものである。

 付近は,2,3年前から根岸の埋め立てが始まっていたとはいえ、公害、海水汚染も殆ど問題となっておらず、磯子海岸では海水浴もできたし、近くにはハマグリやアサリの養殖場があったが、養殖しすぎて空港付近でもよくとれたものである。

 会社の社宅が間坂にあり、芦名橋、浜、八幡橋と市電で通勤したが、電車賃は7銭位で、銃後の守りと称し、男子の運転手,車掌に代わって若い女子挺身隊員が運転する電車に乗り合わせたものである。

 左手には海岸に沿って磯子、森、屏風ヶ浦、杉田と続き呼称の間に浜空(横浜海軍航空隊)が望見でき、試運転をやると互いに轟音が海上に伝わってよく聞こえたたものである。

4. 飛行艇の乗員は船舶の勘が必要

 航空士、通信士、非番の機関士は、トビ職だ

 陸上機は、滑走の場合、波やうねり、潮の流れによる影響がなく、いつでもブレーキをかけてその場で停まる事ができる。水上機は全く正反対で、上記の影響を受け、船舶と同様に機首は常に風上に正対しようとするので、直進だけでも特殊のテクニックが必要になる。

 洋上に繋留した大型飛行艇のエンジン・スタートは、一発が始動出来たら、その瞬間にすぐブイの繋留索を外さなければならない。前進の力が繋留の縄にかかるとブイを外せなくなる場合が起こるので、航空士はエンジン・スタートと同時にブイを外す。運悪く酷寒の日等にはエンジンが始動して直ぐ停まるケースがあり、あまり早くブイを外すと飛行艇は漂流する恐れがあるので、タイミングの取り方が馴れてないと難しい。特に風の強い日、潮の流れが早く強い時には要領がいる。上手く対照の外側のエンジンが始動しなければ、艇体が廻り出し岸壁に近づく恐れが出る。

 4発エンジンであるので、 海岸側の外側1番か4番を始動する。乗員は翼後縁と胴体の間にあるハシゴを附け、エンジンの脇にある滑りやすい簡易階段を外してエナーシャ-(慣性装置)を手動で回してエンジン・スタートする。下手な機関士だと何回も回さなくてはならない。

 くたくたになりながらエンジンをスタートすると、プロペラからの息もできない位の強風を我慢して、やっと#1と#4エンジン(外側)2発が無事回った時、エンジンからの発電で電池の容量が十分まかなえる。翼へのハシゴを強い風にさらされながら素早く外し、胴体の上にある出入口へ戻るアクロバットのような飛行前の作業には苦労したものだった。

 通常は通信士と非番の機関士が翼上で、外側エンジンが始動するまで風圧で飛ばされないように翼上に張ってあるロープに掴まって暫らく待っていた。稀には機長からの合図により翼端に移動し、その下に付いている補助フロートが下がるので、水面の力を受けて機首変更や、直進保持のため翼端に移動することがある。風の強い日とか外側の#1と#4エンジンがアンバランスの時などに翼端に行ってその重さで機首を換えた時もあった。

 ここで当時、通信士長だった桑原氏の回想をご紹介しよう。(青字部分は桑原氏の言葉)

 通常は基地の陸上から滑走台を使用して海上に下ろす。飛行艇が水上に浮んだのを見て、艇体からハシゴをかけて水面まで降り、左右の主車輪を艇体から外さなければならないのだ。出発時には必ず滑走用主車輪を外し、到着時には艇体に取り付ける作業は搭乗員の手で行われる。この作業は機体の油汚れで滑ったり、波のある時など半長靴に海水が入ったり、新人はこの作業中に海中に落ちたりした。

 プロペラの風圧や波のしぶきを浴びながら、安全ピンを抜き、地上と連絡して浮き袋のついた主車輪を艇体から外して素早く機内に戻る。勿論、到着時は着水して、地上に上げる時は、主車輪をライン整備員から渡されるロープで引き寄せ、安全ピンを正確に差込み固定する。

 今顧みると、若かったから出来たもので、年輩者では飛行艇から海に吹き飛ばされて溺れて死んだかもと思うとゾッとする。大艇のしぶきをあげて離水する姿に憧れての初仕事は、初心者にはかなり厳しいので陸上機に行きたがる若者の気持もよく分かる。但し、通信器の取り扱いとか、交信作業のテクニック等通信士としての将来は、やはり飛行艇にあると確信して皆唇を噛みしめて頑張っていたのだ。

 ある日、南風の非常に強い日に私(筆者)が操縦する定期便がサイパンから横浜に到着し、主車輪を艇体に着ける際、大波を受けて車輪が艇底に潜り、取り付け金具が艇底を突き破り、アッという間に浸水して残念ながら九七式大艇一機が廃機処分になった苦い経験があった。

 上記の写真の場合は#1エンジン(左外側)からスタート、航空士はブイの繋留索をタイミングをみて外す。

 機長は船長同格の権限と責任があり全般を指揮し、通常の操縦は操縦士が行い、機長は非常の場合を除いて操縦士に操縦を任せていた。

 海軍方式の艦長と航海士の関漣のように分別し、海洋部と陸上部の場合とは異なっていた。繋留の場合はゴム艇で乗客と乗員が飛行艇に乗り込む。

 到着時は滑走台の前のブイを航空士はアルミ組み立て式竿で引き揚げて繋留する。操縦士は内側のエンジンを止めて滑走し、外側のエンジンを最小限に使用し減速して、尾部が滑走台に向くように停止して航空士のブイ取りを待つ。速度がないので、舵で方向維持が出来ないので、飛行艇の惰性と風上に向く傾向を利用して旋回をする要領を掴むまでは相当の経験が必要である。陸上機では考えられない操作が必要であった。

執筆

越田 利成

元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

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