飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (5) 無人島ウルシー環礁に不時着

1. 推測航法と天測航法で飛ぶ

南洋の玄関ウラカス島活火山孤島を確認

南洋の玄関ウラカス島活火山孤島を確認

 レーダーもビーコンもロラン航法もない。勿論、衛星からのカーナビなどない時代、飛行艇では、ジャイロコンパス(回転自立で一定の方向を指示する)と羅針盤、一方では天測(太陽の位置線)航法で、乗員の目だけが頼りだった。横浜から小笠原の父島までは島伝いで飛行し、次の南洋への玄関と呼んでいたウラカス島までは海上のみで3時間位の飛行で、風に流されて位置が大幅にはずれてしまう事が多い。

 横浜海軍航空隊での航路開設試験飛行中の規約に、ウラカス島が確認できない場合はサイパンまでの燃料不足となる恐れがあるので、直ちに父島に引き返し、海軍航空隊の燃料補給を受け、翌日サイパンに向け再出発する規則であった。

 ウラカス島を目視できなく父島に引き返し、幸運にも翌日、無事離水出来て大きく左旋回して南に変針しサイパン島に向かった南洋航路開設時の飛行もあった。

 特に洋上飛行は詳細にどの方向へどれだけ流されているのかを測定し修正する必要があった。目視による確認行為が絶対必要条件であった。

 偏流測定器の操作方法は単純なもので、水平に張ったタコ糸の様な定規で波頭の白浪を観察して、偏流角度や速度を計測するのだ。海上が無風の場合は白浪が立たないので、航空士は最後部に行き、切り裂いてある銀紙の塊を落として風向や偏流角を測定する。又は発煙筒を落とし、それで観測して丸い形のオタマジャクシと呼んでいた計算盤で計測した。

 これが推測航法で、あとは太陽の位置即ち角度を測り太陽の位置線をたどる航法が天測であり、どちらも乗員の経験と技量が必要であった。洋上を長く飛んで孤島へ向かう飛行艇の航法は正確で几帳面に測定し現在位置を航空図にプロットすることが重要であった。

2. 推測航法と無人島に不時着

 通信士長の桑原氏は「飛行艇の南洋航路開設飛行の当時は、こんな原始的な航法だからひどい目に遭った。」と語ってくれた。父島からウラカス島が目視できなくて父島に引き返した事もあり、昭和15年の大日航定期便開設試験飛行でサイパンからパラオに向かう途中、必ずヤップ島を目で見て確認しなければならず、それが出来ない場合、サイパンに引き返す規約になっていた。

 その日は雲が厚く生憎スコールと雨雲の為視界不良で、途中確認しなければならないヤップ島が見つからなかった。低空飛行で雨の中を3時間程、予想目的地を中心に、最初は一辺が20マイル(32㌔)の正三角形を描きながら目的地を探す方法をとった。これでも駄目で、範囲をひろげて30マイル(48㌔)にする三角航法で飛行したが、どうしてもヤップ島が確認できなかった。

 燃料もいよいよ底をついて心細くなった時、旋回中やっとヤップ島に近いウルシー環礁を発見、パラオまで行く燃料が無くなっていたので仕方なく滑り込むようにして、この無人島に不時着水した。

 パラオに無線で不時着報告と燃料、食糧等の手配及び救援を依頼した。ところがパラオからの救援船の到着は早くても1週間位かかるとのことだった。

3. 珊瑚礁内は飛行艇の離着水に快適だ

 環礁というのは、珊瑚の隆起した島々が点々と連なり、円を作った島の集まりで、そのため島々に囲まれた中の海は、湖のような静かさで、風向は南洋特有の東風が恒風で、湖に沿って吹いて飛行艇の離着水には最適である。

 外海はうねりと波があり着水すれば多分飛行艇は大破する。ウルシー環礁は後に米機動部隊の基地となり聯合艦隊が寄航して沖縄と本土上陸作戦上重要な位置にある最前線基地となった所である。

 環礁の中で一番大きな島の近くに錨を降ろし、ゴム艇で上陸した。壊れかかった小屋があるだけで、人影はない。完全な無人島だ。日も暮れ、暗い夜が訪れたので急いで飛行艇から降ろした毛布、非常用携帯食料、水等を小屋に入れ泊まることになった。

 食糧は7人の搭乗員では2日ともたない。しかも他の島のようなパパイヤやパイナップル、食糧になるタロ芋等は見当たらない。水は1日分ぐらい。椰子の葉だけが無言で風になびいていた。いい知恵は浮ばないが一応全員の相談の結果「水は若いヤシの実をとり補給し、食糧は出来る限り切り詰めて長期に備えて海中で獲得出来る物を主体とする」と度胸を据えてケセラセラ(なるようにしかならない)と覚悟した。

 しかし、食糧が次第に無くなると我慢できなくなり、古いヤシの実を割り、中の白い油のようなコブラ(石鹸の材料になる脂肪の多い実)を削って食べたが味も素っ気もない。舌触りは油気でベトベトで、とても食べられる代物ではなかった。

 最終的に魚を捕り食べようかということになり、手拭い等を縫い繋いで網を作り、珊瑚礁にウヨウヨ泳いでいる金色や黄色、真紅色の熱帯魚を掬って、皮と腹端(はらばた)を完全に剥ぎ取り良く洗い刺身にしたり煮魚や焼き魚にして食べたが、なかなかいけるぞ!!美味しかった。南洋の色の付いた魚は毒がある、苦いとか、柔らかいとか言われていたが、誰も当たらなかったし痺れもなかった。皮を剥いで中身だけを食べたからか?

 日中は無情にも燃える太陽は照り付け、聞こえる音は波の音ばかりで、あとは無気味な静寂に戻る。横浜の伊勢崎町の彼女は元気かなぁと内地の事が無性に恋しくなってくる。

 一日千秋の思いで待ちに待った8日目に、やっと南洋庁の救援船「南拓丸」が到着してくれた時は感激で声も出ず、喜びと安堵が全身を駈け巡った。あの時は多分、真っ黒な顔と栄養失調で目が窪み鋭い目付きになって髭も伸び放題だったと思う。

 写真に撮っておけばよかった20代の我が顔と、90才を過ぎた桑原通信士長の笑い顔が亡くなられた今でも瞼に浮ぶ。南拓丸は血の1滴だったガソリンをドラム缶10本持って来てくれた。船内で銀飯をたらふく御馳走になり、「これで地獄から命からがらはいだしたぞ」と喜びが一気に湧き出た。夢中で翼上から燃料補給を済ませ、エンジン点検もおわり異常なしで、元気の出たところで勇躍パラオに向かって離水した。

 スーッと空に浮いた飛行艇のなんともいえない感触は最高で、太平洋の空から見た南海のエメラルド色の海面は実に素晴らしかった。

 貴重な経験が生かされて、運航当初の方式は改正され、わざわざコースを北に向けるヤップ島の確認運航方式は取り止めとなり、その分燃料の搭載量を変更する事になったのは何よりであった

執筆

越田 利成

元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

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