飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (16) 決死の大飛行

1. 大日本航空横浜支所の流れ
南洋群島の特色

 第1次世界大戦後の大正11年、新たに日本の委任統治領となった南洋群島は,東経度130~175度(5,000km)北緯0度~22度(2400km)に亘る広大な熱帯の海域に大小1,400余の島々が散在していた。その中のマーシャル群島は珊瑚礁でできているため、水面上1m内外の陸地であったが、マリアナ、カロリン諸島は火山岩からなり地勢は急峻である。

 原住民はミクロネシヤ族だが島によっては言語、習慣が異なっていた。気候は年平均26度~28度、雨量は年間2,000~4,000mmと、短時間で驟雨のスコールが極めて多い。所謂台風の発生地だが、発生初期であるためその被害は少ない。産業上の特徴は製糖、燐鉱、水産、コブラその他を日本企業(南洋興発、東洋水産など)が指導して年々生産が向上していった。

 南洋群島を管轄する南洋庁のあるパラオ島には海軍武官府が置かれて、南洋庁の行政について海軍が干渉するが、南洋群島の置かれた戦略上の特性から、それはやむを得ないことであった。南洋庁ではその広大な海域に散在する島々の行政を進めるに当たって、高速交通手段として海軍と折衝のうえ飛行艇を導入することを考えていたが、昭和9年交通課を新設してその担当部局とした。翌10年には群島内の要地パラオ、ヤップ、サイパンには水上機基地が造成された。
 
 南洋庁が行政上飛行艇を必要としたことは無論ながら、それらを海軍の主導によって推進されたことが理解できる。陸、海、民間の事情を考慮した一大航空輸送会社の構想を打ち出したのである。昭和13年12月大日本航空株式会社が設立され翌年、海洋部が成立する。この海洋部こそが、この後の南洋空路の開設、定期就航の主体となる部局であり海軍側の初志<南洋航空>が生まれたのである。海洋部には更に南洋課がおかれ、大日本航空パラオ支所が新設されて南洋空路のかなめとなり、横浜から南洋群島に空路が伸びるだけでなく、近い将来島内定期をも実現させようと、一大航空施策が打ち出されたのである。

2. 大戦と海洋空路の重要性

対米戦突入に至って南洋群島の存在は第一線最重要基地・不沈空母としての役割を果たす事になる。よって大日本航空横浜支所に属する機材、人員を用い第5徴傭輸送機隊を編成して横浜・サイパン・トラック線を運航させ、海軍中央部と太平洋正面戦域担当の海軍部隊との間の輸送に当たらせた。南洋部隊は第4艦隊(トラック基地)に所属させられ最前線の島々の輸送飛行で多忙の日々が続いた。

 昭和19年にはいると戦線の縮小が一段と進み、当初は大日航の自主運営に任されていたものの敗色濃厚となるや総てが海軍の統制と運用するところとなり、大日航の主体性は全く失われてしまった。

3. 狂気の軍秘指令

 昭和18年末になると日本は極端な資源不足となり、差し迫った戦闘機の増産への方向転換を行った。したがって川西の新型大艇の生産は中止せざるをえなかった。翌19年7月にはサイパン島が玉砕、つづいて米機動部隊は隣接するテニアン島に上陸、米空軍は占領した島を日本本土爆撃の発進基地として急ピッチで長距離発着用の本格的飛行場に建設を整えた。

 昭和20年3月には硫黄島が大激戦の末に玉砕した。テニアン島と日本本土との中間地点にある硫黄島は、さらに本土空襲中に日本側の必死の抵抗で損害を受けたB-29爆撃機が無事に帰還出来る代替飛行基地として整備され索敵用に完璧なレーダー網が設置された。同時にテニアン島からB-29の大編隊による日本本土空襲が以前にもまして頻繁になり、主要都市に対する連日連夜の爆撃と炎上で国内の軍需物資や飛行機生産工場は破滅的な被害をこうむり完全に麻痺状態になっていた。

 同年4月上旬、米機動部隊は予測通り沖縄本土に上陸を敢行した。米軍は早速、沖縄に日本本土を囲むロラン(無線航法の一種)を設置した。これによって全天候飛行が可能になり、正確な空襲がエスカレートしていった。
日本海軍は四国の詫間に新たに海軍航空隊の編成を行い、九七式大艇16機が配置されて哨戒索敵にあたった。しかし、すでに制空権はなく、最新のレーダー網が張り巡らされた敵機動部隊の周辺には近寄ることができなかった。ましてや接触など不可能な状態であった。終戦までは、ほとんどの機体とその塔乗員が太平洋の藻屑となって散っていった。

 敗戦の色がいよいよ濃くなり、陸上戦闘機優先となって大日航のパイロットは一部を現有機要員として必要最小限の配備にした。その他の操縦士は、ほとんどが中島、三菱等の陸上戦闘機製作所のテスト、空輸の飛行任務にあたるために各飛行場に派遣されていった。ついに横浜支所では現有機3機の二式大艇操縦要員である機長と操縦士の3組、合計6名を厳選して残留させ、他のパイロットの大半は陸上機製作所の各飛行場へ配置転換となり赴任していった。

 間もなく、残留した二式大艇要員のわれわれに計画されていた決死の飛行作戦が伝達されてきた。 硫黄島とサイパン島には米軍は大量の軍需物資を送りこみ、最新鋭機や新兵器が送り込まれ特に厳重に索敵用レーダー網が完璧に配備していた。本土上陸作戦を練っている米機動部隊に対して、制海権、制空権を奪われたわが軍の対抗手段はやぶれかぶれの特攻作戦でしかなかった。

 すでに孤立し、瀕死の状態におかれている主要前線基地の島々への食糧、医薬品等の日用必需品、非常用物資の援助と軍事連絡が緊要の課題になった。
その飛行任務を遂行すべく、アリューシャン作戦に転戦しソロモンでの全滅を逃れてかろうじて残存していた虎の子の横浜海軍航空隊二式大艇3機と、大日航の二式大艇3機の計6機には近々に新たに厳しい輸送飛行指令が海軍司令部から下る予定であった。

 さしあたっての任務は、孤立したトラック島と太平洋の孤島で補給皆無の瀕死状態になっているウエーキ島への飛行であった。厳重な敵制空権内を強引に突破して、持久戦に備えての食糧(主に穀物芋類の種子等)と生活必需物資の輸送と作戦情報伝達の任務を完遂すべく万全をつくすべしの飛行任務で、「軍秘指令あるまで常時待機せよ」というものだった。これは連日の作戦会議によって、海軍司令部と横須賀海軍鎮守府付航空参謀との間ではすでに決定済みであった。まさに一方的であり、異常ともいえる軍部の最後のあがきともいえる作戦でしかなかった。

 「どんな超低空で東方海上を迂回飛行しても、幾重にも張り巡らされている米軍の警戒網を突破することは不可能である。そのうえ、搭載燃料を計算するとトラック島への直行は超低空飛行の燃料消費と推測航法ではかなり厳しいものがあり、基地に備蓄されている残存燃料や整備態勢も考えなければならない。しかも強い北西の向い風を受ける帰路は、二式大艇の性能では特攻作戦と同様で、とても生還を期すことなど無理であった。ましてや「孤島のウエーキ島へは二式大艇での推測航法では成功率が低い不可能に等しい」と、われわれは懸命に主張した。

 効果の割には犠牲があまりにも大きい。その無謀とも思える作戦計画であったが、万難を廃して実行あるのみということだった。戦争では不可能という言葉はないらしい。結果的には不可能であろうが、当時の軍部は人命を無視した破れかぶれの作戦を強行したのである。

 「特攻輸送編成もありうる。どんなに困難で無謀にみえる飛行であっても作戦遂行のためには実行あるのみ。帰途については現時点ではかんがえる必要なし」
 こうなればもはや作戦ではない。実行そのものが重要なのだ。その結果がどうであれ問答無用で、これを現場の当事者に委ねるという卑劣極まりないやり方だった。非常事態におちいった横浜支所のわれわれ二式大艇残留組は、いつの間にか海軍司令部から決死飛行作戦要員に編入されて過酷で悲惨な結果が目にみえている任務の待機命令がだされた。

 「皆さん、まことに忍びがたい事態となって残念ですが、十分に休養をとり海軍司令部からの命令がおりるまで、待機していてください」
 所長の言葉は苦渋に満ちていた。頭を下げたまま、まともにわれわれの顔を見ることなく男泣きにハンカチで目頭を押さえていた。居合わせた職員一同もわれわれに同情しているのか、今までと違った目で見守ってくれていることを感じとった。

 一番機としてトラック島への決死飛行が実行されたのは横浜海軍航空隊に所属する二式大艇だった。軍用機は敵機からの攻撃を受けた場合に対抗し交戦可能の装備を施されていたが、硫黄島の手前で「我、敵機と交戦中」との送信を最後に南の空に散った。やっぱり無理だったのだと身が引き締まる思いにかられた。

4. 料亭『たずな』

 横浜大空襲で焼け野原と化した市街地から南に離れており、幸運にも焼け残りの磯子の海岸地帯の芦名橋界隈には粋な料亭が点在していた。われわれ3名の二式大艇操縦士がその一軒である馴染みの料亭『たずな』の古くさ い門をくぐって玄関にはいると、背が高く目の鋭いオカミさんがあらわれた。

 「あら、コーさんたちね、どうぞ奥へ」
 ニコニコ笑って、廊下に沿って片方の一列に並んだウナギの寝床のような茶室作りの部屋へ案内された。『たずな 』では一見のお客は入れないシキタリがあった。幸い、われわれ大日航の者や横浜海軍航空隊の士官の一部はお馴染
みさん扱いで、戦時中でも横須賀鎮守府からの特配があったのか好きなだけビールや酒が飲めた。それに、磯子界隈 の中でも美貌の小股の切れ上がった容姿端麗で、ある程度の教養と芸を仕込まれた品のよい小粋な旦那持ちの年増芸
者(当時は、23歳以上を年増といっていた)だけが出入りをしていた。

 時節柄か、隣の部屋に客がいる様子だが、あとは誰もいないのかシーンとしていて、なんとなく物静かであった。
 「今晩は」と挨拶にでてきた春江ねえさん芸者も、風邪でもひいて涙がとまらないのかはれぽったい目をしている 。
 「どうしたのだ、不景気な顔をして、心配ごとでもあるのか?」
 「ええ、そうよ。栄龍ねえさんの彼氏(旦那以外で心中の人)とお馴染みさんの士官さんが、明後日、南方に飛ん でいっちゃうのよ。もう会えないといわれたわ。いつ来ても明るく楽しそうに振舞っていた若い士官連中は皆私達の
大フアンの若鷲たちでしょ。だから水商売抜きで、つい皆んなで泣いちゃったのよ」

 「なにも戦死すると決まった訳じゃないし、大丈夫だよなんとかなるよ」
 「バカ!バカ!死ぬに決まっている。あんたたちも搭乗員だから生きて還れない事ぐらい十分解っているでしょ」
 とまたまた泣き顔になった。いつもの営業用の顔ではない。そうゆうことかと納得したが、ちょっぴりヤキモチが焼けた。

 女性の泣き顔をみた瞬間、見栄張りの我々は、今回の無謀な決死輸送飛行に大日航の二式大艇も指名されている事実 がすごく悲劇で哀れにおもわれてきた。「俺達もいずれ続いて飛んでいくんだ」と、計画されている悲壮な飛行の経 緯を詳しく語りたくなかった。

 「隣で呑んでいるのは浜空(横浜海軍航空隊)の飛行艇の搭乗員士官連中だろう。日航のパイロットからだといっ て、ビールを運んでやってくれ。よろしくと伝えてくれよ」と、女将さんに同期の桜のような気分になり差し入れを
頼んだ。

 「もしよかったら私たちは今夜で『たずな』が最後だと思いますので、一緒にやりませんか」と、隣の部屋から声 がかかった。誘われるままに隣の部屋にいくと、顔馴染の若い予備学生と海軍兵学校出身と思える搭乗員士官ばかり
3名が静かに呑んでいた。

 「やぁ日航の先輩、しばらくでした。ビールまでいただき有り難うございます」 顔は笑顔だが、どうも心は沈ん でいるようだ。
 「オース、そんなに他人行儀なこというなよ。久し振りにパッとやろうや」
 景気づけてみたが、やはり連中の顔が引き締まって見える。

 「私達は、私事で済みませんが、明後日はフライトで今夜はやっと外泊許可がでまして久しぶりにゆっくりと同期 で呑んでいるのですが、つい沈みがちになってしまって・・・・。大勢の方が賑やかで楽しいですね。皆さん、ご迷
惑でなかつたら今夜は一緒にお付き合いいただけますか」

 沈んだ面もちがニコリとした。
 「そうよあんたたち酸いも甘いも知った飛行艇じゃ先輩でしょ。こんな時こそ男の意気込みと気合いで元気をつけて あげてちょうだい!」
 栄龍ねぇさんが元気付けた。ハマッ子年増芸者衆は気が強い。女はこわいぞっ!なにが先輩なんだ、飛行艇とは関 係ないだろう。 同期でいこうやと・・・
 「われわれも3人だけよりも大勢の方がにぎやかで願ったり適ったりだ。早くドンドン飲み物をもってこい」
 「あいよ、乾杯のやり直しネ」
 芸者衆のコップにもビールが注がれた。
 「皆さんの武運長久とご無事を祈って乾杯!」
 ウンウン・・・よし頑張ろう!

 バンザイ抜きの乾杯のやり直し。時間と共に酔いもまわり、例によって「貴様と俺とは同期の桜・みごと散りましょ国のため・・・・」と、芸者衆も一緒になり全員で肩を組み会いながらの大合唱。トラック島まで飛行の成功を祈り
、酒の力も手伝って、次はオレたちの番かと心に何度も言い聞かせながら杯をかさねた。

5.終戦による指令解除

 二日後、二番機の浜空の飛行艇も磯子沖から勇ましく飛び立ったが父島の周辺で手ぐすねをひいて待っていた敵哨戒 機に遭遇した。引き返しを決断したものの案の定、空中戦の末に撃墜されて南海の藻屑と消えてしまった。
 肩を抱き、腕を組んで真剣に愛国の念に燃え、若者らしく潔く勇ましく高吟した好感のもてる青年士官たちの戦死 の報に接し、いよいよ明日はわが身かと「なぜに死んだか散ったのか・・・・」と唄った声がまだ耳朶に残っていて
無念このうえなし。ただただ唇を噛みしめるしかなかった。

 追いかけるように浜空の三番機が翌朝、指令にしたがって日の出前の磯子沖に爆音を残して南の空へ決死の飛行へ と飛び去った。そして予想通りといおうか、哀れ帰らざる横浜海軍航空隊最後の二式大艇となったのである。この無謀としかいいようのない決死的輸送作戦の連続の失敗によって、ついに浜空の大艇飛行部隊は全滅となった。

 それでもあくまでこの任務を遂行しようとする海軍参謀の指令は、もはや狂気としかいいようがない。次ぎに大日本航空にくだされた任務は、トラック島を諦めてウエーキ島へ変更された。これこそトラック島へ飛行するよりはるかに困難で過酷な飛行が予想された。当時は無線航法ではなく推測と天測のみに頼る幼稚な航法で、そのうえ搭載燃料ギリギリの二式大艇の性能で敵の 索敵を逃れるために超低空で、しかも太平洋の孤島へ遥か洋上のみを大きく東方に迂回する飛行はまさに暴挙であっ た。

 それにたとえ万が一、到着できたとしても帰りの燃料についてはまったく不詳であった。しかし結果的には幸いとしかいいようがない。浜空の二式大艇の輸送作戦が全滅した貴い犠牲による反省によって 、輸送作戦の再検討の結果、期間を設けて慎重に準備することになった。

 目的地変更で輸送物資の再検討によって、とくに軍需物資の調達には予想以上の時間がかかり計画の実行が大幅に遅 れていった。そこに、8月13日深夜、ついに日本が無条件でポッダム宣言を受諾した悲報を大日航の通信室が傍受した。乗員に対しては通信長から直伝で極秘の連絡があり、遂に15日正午終戦となった。海軍司令部からだされていた指令、つまり大日航の二式大艇による決死のウエーキ島への輸送飛行は中止になり幸運にも、われわれは太平洋の藻屑と消える悲惨な結果を免れたのであった。

執筆

越田 利成

メール:sample@sample.com

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