飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (17) 台湾経済復興を支えた緑十字飛行艇

1. 緑十字飛行の通告

戦後日台航空路開設で昔を偲びながら飛行した

戦後日台航空路開設で昔を偲びながら飛行した

 来るべくして来た 『敗戦』 が日本全土を覆った。昭和20年8月13日深夜、大日本航空横浜支所通信室で日本がポツダム宣言の無条件受諾を傍受したとの通信士からの報告に、嗚呼、聞くも涙、語るも涙。「われら、ふたたび大空へ羽ばたくことなし!」

 15日正午、終戦の実感が沸かないまま自宅でラジオを通じての玉音放送「・・・われら忍びがたきを忍び・・・・」を拝聴した。雑音のなかで、現人神のたんたんとした声についにその時がきたのかと、身が震える思いである。とるものも取りあえず会社へ吹っ飛んでいった。

 「航空機の部品管理については特命があるまでは現有機には十分な警備を配慮し、流言飛語に惑わされることなく指示があるまでは現状のまま出社されたし」との通達がだされたが、これを契機に世はまさに敗戦の混乱期へと移行していった。それこそ、いろいろな噂が飛びかった。
 「飛行機の羅針盤のアルコールはメチールじゃない純粋でうまいぞ」
 「ソ連軍がくると飛行機の乗務員は戦犯リストに載り調べられるらしいぞ」
日に日に不安が募っていたさなか、9月に入って本社からの通告が舞い込んだ。

 「九七式大艇で緑十字のマークをつけ、終戦混乱期の台湾経済復興のため日銀が保障する現金を台北へ輸送する計画である。勿論、マッカーサー司令部の許可済みであるので至急用意されたし。ただし台湾の治安については詳細不明。特命輸送業務であり、慎重に準備し厳選した乗員名簿を直ちに提出せよ」

 それっとばかりに九七式大艇のなかでも一番機齢の若い『神津号』を徹底的に再点検し、整備員全員が総掛かりで試運転を始め、なめまわすように磨きあげ「ブーンブーン」と、久しぶりの快調なプロペラの音に目が潤んで武者震いさえ感じた。 

 飛行概要は次のようなものであった。
  乗員:大堀機長、越田操縦士、佐々木航空士、武宮・加藤機関士、
     鈴木他1名の通信士 計7名
  目的:終戦処理業務の一環として、敗戦による台湾の経済崩壊、台湾銀行
     の取り付け騒ぎ等の混乱、暴動を防止するため、日本銀行が保証し
     発行した台湾紙幣を約2トン輸送する。
  飛行実施条件:
  ① 厚木基地15浬(nm)、沖縄周辺50浬(nm)以内を飛行禁止区域と指定し、
    侵入してはならない。違反した場合は撃墜もありうる。
これは現在のホット・レンジ・インフォメーションと同じである。
  ② 航空機胴体の左右のロゴ(日の丸)を消して明確に『緑十字』のロゴ
    に書き換えること。
  ③ 十分余裕をもって飛行前に『有視界飛行計画』を提出し、届け出され
    たコース(現在のA-1航路で鹿児島上空経由に類似している)が認可さ
    れた場合は各地点の通過予定時刻等を厳守すること。出発時刻は原則
    として午前6時とする。遅滞の場合は直ぐ通告し、再出発時刻について
    は米空軍本部で再検討する。
  ④ 目的地は台北近郊の淡水河川で白い吹流しにより指定する。
  ⑤ 出発時と到着時には米軍による機内チェックを要する。許可が出るま
    では航空機内の立ち入りを禁止する。ただし台湾は除く。
  ⑥ 万一、台湾の治安不安定のため上陸不可能の場合を想定し、十分な食
    糧、飲料水を搭載すること(乾パン2日分を準備した)。
  ⑦ 帰還時のルーティンワーク(通常運航に必要な準備)の整備、燃料補
    給等については、現地にて実施の責任をもつ。
  ⑧ 爆発物、危険品、届出以外の搭乗者および物品の搭載は厳禁する。
  ⑨ 米軍の都合で中止、または上記に違反し、不都合と判断した場合は撃
    墜もありうる。

 早速、飛行前の準備にとりかかった。しかし航空図はすでに軍秘の一部として焼却処理してしまっていた。ミーティングで佐々木航空士が「どうせ台湾まではほとんど島伝いであり、小学生用の日本地図でも十分使えますよ」と言う
。多分、飛びたい一心だろう。新人類の方には理解困難だろうが、われわれオジンたちが学んだ時代は日本地理の教科書の地図は縦20センチ、横30センチくらいの大きさで、かなり詳細で正確にできていた。これに思い当たる人や記憶のある人は旧人類の部類ですぞ。

 それはさておき、航空図は幸いにA航空士がこっそりコレクション用としてもっていたのを入手できた。いよいよ飛行計画にとりかかった。
  飛行所要時間       8時間00分   
  最高重量          19.5t
  航続距離         4,000km   
  飛行距離         2,400km
  巡航速度          300km/時   
  搭載燃料         13,400L/満タン
  搭載貨物予想重量        2t

 終戦直後は、日本国内の飛行でさえいろいろな制限を課せられ予想外の困難と危険があった。ましてや海外飛行の場合は,なおさらである。われわれより先に陸上機が朝鮮(韓国)のソウルに同じ目的で飛行した際、飛行機から一歩も外へ出ることができず乾パンで飢えをしのいだとの情報が入ってきた。敗戦混乱時の台湾の情報が皆無であり、そのうえ飛行中の安全保障、気象情報も心配になり、一見かなり不安と未知の多い国際線の飛行であったから、指名された乗員以外からの飛行希望者は一人もいなかった。とにかくあとはお天気次第である

2. 暁の出発

 残暑なお厳しく汗だくであった。神津号はピカピカに磨きあげられ、横浜支所はルンルン気分、いよいよ待ちに待った9月9日早朝3時に起床した。飛行場に近ずくと、すでに「ブーン,ブーン」と四発のエンジンが快音を発して試運転中だった。

 「大丈夫、異常なしっ」整備員の大声の報告を聞き、早速、気象室に集合した。
 「お早よう御座います。国内は晴れで、沖縄、台湾は台風の心配はありませんが、午後になれば航路上に多少層雲が発生すると思います。全般に良好といえます」と、気象官もいつになくご機嫌である。今日こそは予報があたってほしい。

 「天気図を見ても高気圧におおわれた素晴らしい天気にめぐまれたぞ」
 「よし、厚木飛行場を避けて飛行しなければならないので横須賀から江ノ島、下田とまわり海岸線に沿って鹿児島から島伝いで沖縄の那覇の西方海上50マイルを飛び宮古島に入ろう。そこから台北の淡水をさかのぼり、指定された場所に着水することにする。前以て提出したコース通りだ。米空軍本部へ直ぐ本日の飛行プランを連絡してくれ」

 ただちに出発準備完了が通報された。<さぁ、久々に翼に日の丸をつけた大日本航空の飛行艇が再び空高く舞いあがるのだ。翼よ羽ばたけよっ>と胸が高鳴った。
 横浜支所の職員全員の久々に生き生きとした目がまぶしい。それぞれ自分の担当部署に就きスタンバイしている。やがて米軍のジープが横づけに止まった。降りてきたMPのチェッカー(検査官)の作業を固唾をのんで見守っているわれわれの気持は不安と期待とが混在していた。

 米軍のチェックは日本人には理解できないくらい合理的でスマートに行われた。まず厳重に保管されていた搭載貨物の点検が終了した後搭載許可が下りた。その後書類点検とサイン、貨物搭載物件等の確認で日米間での理解の不手際からお互いに取り交わされた書類に不備があり、若干おくれることになった。許されて機内に入るとダンボール箱が満載されていた。客席から出っ張っているところが邪魔だから足で力一杯押し込もうとしていると、
 「パイロットさん、一箱にウン億円以上の現金が入っているので大切に手でお願します」日銀の職員にしては横柄な態度のお説教があった。

 「億なんて、われわれの生活に関係がない桁違いの数字だよ。全然見等がつかない。どれくらいの価値ですか?」
 「孫子の代までめかけ(めかけの)テカケでも、使い切れませんよ」
面倒くさそうな返事である。多分、毎日徹夜でお金を印刷し保管していたのだろう。その人は心身共に疲れている様子だった。しかし待てよ。この人は日本人の代表として、われわれと同じ身の危険を顧みず台湾の経済復興のために巨額の札束を守って飛行する覚悟なのだ。案外、政府機関の大物かも知れんぞと一目おいた。案の定、この人はのちに直ぐに厚生大臣になられた。

 飛行計画が受理され、離水許可も下りた。午前7時30分、九七式大艇は久しぶりに磯子沖に白波をたてて水上を滑走し離水地点の富岡沖にやってきた。

 「エンジンもOKだな。よし、離水するぞ!」
 「異常なし」
 四ッのレバーを前方にゆっくりと押しながらエンジンを全開、本牧の岬へ向かって轟音が響いた。加速とともに、風圧によって方向維持のためのラダー(方向舵)が効き出した。レバーを機関士に任せ、操縦桿をやや押して離水速度になるまで待って引きあげの態勢をとった。ところが、機首が一向にさがらずに浮力がついてこない。当然、加速がいつもより遅く、機首をあげたままの姿勢で滑走している。 「おい、加速がおそいぞっ」 「機首がさがってこない、本牧沖が近づいてくるぞ」 「駄目だっ、離水中止っ」
 思い切ってレバーを絞り、離水を断念した。ジャジャーと艇底と海水とが接触し、水を切る音をたてて加速が止まるまで直進した。本牧の岬がすぐ前方に迫っていた。
 「おい、重量オーバーのようだぞ、まさか海水漏れじゃないだろうな」
 「床下漏水異常なし」 機関士の返事がある。無風状態だったので今度は反対方向の富岡沖に向かって離水開始となった。
 「徐々に機首がさがってきたぞ、スピードも加速しだした。しめたっ。大丈夫だっ!」 シャッ、シャッと艇底が海水を切りながら滑走し、ついに空中の風を切るシュッ、シュッと心地よい音に変わった。
 「横須賀へ直進するぞ」 上昇をはじめ、エンジンを全開から上昇位置まで絞ってホッと一息ついた。 「待てよ、あんなに皆で最後まで見送ってくれて大感激だったが、このままサヨナラじゃ申し訳ないなぁ。最初の予定では、本牧沖から横浜支所の皆の頭上を旋回するつもりだったが、やはり大きく彼等の上で旋回して、翼をふって挨拶してからでていこう」。富岡沖に向かって離水してしまったので、高度をとりながら左旋回して横浜支所上空へ舞い戻った。皆の上空で大きくバンク、全員がハンカチを手にちぎれんばかりに振っている。その姿に感謝しつつ、翼を大きく左右にふりながら予定のコースである横須賀、江ノ島へと向かった。

 「いやぁ重かった。多分、離水をやり直した分だけ燃料が減って軽くなったのだろう」
安堵しながらようやく平常心がもどってきた。横須賀に向けて上昇をつづけ右に江ノ島が見えてきた

3. 米戦闘機のスクランブル

 「マッカーサーが降りた厚木飛行場には、見たこともないような凄い新鋭機が覗けるかもしれないぞ!」
 「横須賀経由を抜いて真っすぐ江ノ島に向けながら、チョット厚木を見物しますか」
 「15マイル以内に近づいてはならないが、どうせわれわれが決めて許可された横須賀経由のコースだから少しくらいはずれても大丈夫だろう」

 意見が一致して進路をやや右に向け横須賀を抜き、江ノ島直行に変えた途端、蜂の巣をつついたときのようにアッという間に3機のグラマン戦闘機に囲まれた。やはりレーダーで監視していたらしい。ヤンキーパイロットの顔、機関銃までがハッキリみえるではないか。慌ててすぐ左に変針したが一向に離れない。

 咄嗟に、「武宮オンジ、ヤンキーに謝ってくれませんか、撃ち落されたら大変だ。頼む」
武宮さんの一見善良そうな年上のオジンをもじり、われわれは武宮オンジと呼ばしてもらっていた。武宮オンジに謝ってもらうしかこの場を逃れるすべはない。きっと米軍の青二才でも顔を見ただけで許してくれるだろう。

 嫌がるのをムリヤリ操縦席の窓から首をだしてもらった。禿で残り少ない白髪が風でバラバラとなびいている。思惑どおり敵さん、ビックリしたのか笑いだした、まさか大型飛行機のコクピットの窓から人間が顔をだすとは予想していなかっただろう。大笑いして大きく口を開いたまま片手をあげて「前方へいけ」の手信号を送っている。しめたっ。

 「あんな人の良さそうな年輩者が操縦をしているからコースを少し位外れても仕方がない。もっとシッカリしろっ」といわんばかりである。同時にグッバイの合図で大きくバンクして回れ右しながら去っていった。武宮オジンこそいい面の皮。顔は戦闘機に向かったままだったが、強風で息苦しいのか大きく口を開けて目をパチパチ開けたり閉じたりまるで映画で見る死刑囚のようなザンバラ髪の禿頭をだしたままだった。

 頃合をみて手で引っ張りもどすと、今度は怒ったような顔をしてなんで止めるのかといわんばかり。強い風圧で状況が見えなかったらしいが、よく我慢して頑張ってくれたもんだ。さすがに海軍精神で鍛えあげられた、まれにみる仏様のような人で職務に忠実だった大先輩である。

 海洋部の航空機関士は海軍出身が大半を占め、個性の強いサムライが多く「いう事聞かん氏(機関士)」と言われていた集団であった中で、人望と整備技術の経験が深かった武宮さんは機関士の長に選ばれ、後輩の面倒見も良かった。私が第四艦隊勤務を命じられトラック島駐在の時、宮田機長と機関士が武宮さんのぺアと半年間位基地の宿舎で同居し、生活を一緒にして南洋の島々を飛び廻った。常に飛行艇の先輩機関士らしく我が家族のように優しくご指導を受けた御恩は忘れられない。奄美大島出身で、ご子息さんは海軍兵学校へいかれたときいていた。

 「オンジのお陰で助かったよ。すまん、すまん・・・・・・」
皆で一生懸命ご機嫌をとった。鹿児島を過ぎる頃から皆リラックスし、乗員も交替で休息しながら機内食を摂った。

 敗戦直後の日本国民は純真であった。湾内に現金の一箱でも連絡済みで落とし後に折半するような悪知恵は大和魂が許さなかったのだ。
 「オレは一生の思い出にウン億円の上で寝てきたよ。今度は越田くんの番だ。交替」 
大堀機長の冗談もでてきた。和気あいあいで沖縄の西50マイルにさしかかった。

 「沖縄の人たちは激戦で本当に気の毒だったなぁ。猛烈な砲撃で那覇の山や丘が崩れ落ちて変形しただろう。戦死された方々の冥福を祈ろうじゃないか」
 「それから、話のタネに変形した地形が少し見えるところまでいってみるか」
またまた懲りない面々だった。少し東方に変針して近寄った途端に、今度は偵察機2機にピッタリとスクランブルされた。

 急いで西に変針して沖縄から遠く離れたが、今度はオンジにも頼めずとうとう台北に着水するまで見張られ脅威にさらされるハメになった。

4. 大歓迎パーティ

 無事淡水に到着して河口を遡ると、戦時中使用したことのある場所にハッキリと2本の白い吹流しを発見。低空でひと旋回して午後3時50分(日本時間)に着水することができた。繋留すると同時に迎えのボートが近寄ってきた。治安の不安があったので、一同は一瞬緊張しながら操縦席に置いてある乾パンを恨めしく一瞥していた。どうせなるようにしかならないぞ。

 ところが「皆さんご苦労さん、どうぞ旅館でゆっくりお休み下さい。飛行機は責任をもって警備しますからご安心していてください。どうぞ、どうぞ」
案ずるより生むがやすしだ。事態は一変、顔馴染の大日本航空の職員に案内された。「今晩は盛大に歓迎パーティを催しますから、一風呂浴びてお待ちください。」下にもおかないもてなしの様子.出迎えの財界人、銀行の幹部、役人たち一人一人と暖かい握手を交わすと旧大日本航空指定の旅館へ急いだ。市内への道は『祝復興』のプラカード一色だった。

 その夜の歓迎パーティ-では山海の珍味や美酒等々、豪華な雰囲気が漂っていた。ふと気がつくと、サービスに努めてくれている小妲が上品で教養のある態度とそれぞれの個性を生かした素晴らしい中国服を着こなし、ニコニコと笑みをつくっているではないか。

 「今まで台湾でこんな素敵な小妲にお目にかかったことがなかったですよ」
これはお世辞ではなかった。隣に座っている銀行の頭取さんにこの感激を率直に話しかけたら、その人はとても喜んでくれて私の両手を握り締めた。
 「実は今夜は日本語のできる台湾大学出身で、われわれの実の娘達ばかりを集めてくれぐれも失礼のないように親身なサービスをさせていただいています」
目を細めてお礼をいわれこちらが恐縮してしまった。

 そのうちその頭取さんが一番綺麗な小妲を呼び寄せた。
「これは私の次女のOOです。台湾大学を優等生で卒業しました。もし貴方さ
えよければ結婚してやってください。台北に豪邸を新築してのんびりとした暮らしができるようにしますが」
いきなり信じられないような紹介をされた。

 「あら、こんばんは。ご苦労さまでした。さぞかしお疲れでしょうね。どうぞ宜しく」
その小妲さん、父親の言葉にあわせるようにニコッと笑顔で日本語ペラペラである。
「えっ、うーん」 意外な展開に目をしろくろして唸っていた。

 「どうせ日本にかえっても食糧も不足してなにかと不自由でしょうし、それに好きな飛行機に乗られるのでしたら台湾で新しい航空会社を設立したら、きっとここに出席している財界人も応援しますから成功間違いないですよ」
 真剣な顔つきになって話されたのには、只々うんうんと唸るばかり。頭のなかが混乱したが、ようやく我にかえり丁寧にお礼申し上げて旅館へ引きあげた。

 旅館では、出迎えの女中さんが待ちかまえていた。
 「日航のパイロットのお友達がとてもお待ちかねですよ」
急がされて大堀さんとともに大きな部屋へ案内された。陸上機の大先輩、後藤安二機長(戦後、日本航空の訓練課長)が3人もの和服を着こなした小粋な芸者衆に囲まれて一人でご機嫌で呑みながら待って居られた。

 「オオ・・越田くんか、どうかね内地は。まぁ一杯やれよ」と豪勢なものだ。
 「後藤さん、どうして台北に来ているのですか?」
 「ウン、オレは蒋介石に飛行機ごと雇われてネ。左官待遇で大陸と台湾の間を飛びまわっているのだ。物資や重要人物の輸送で給料をもらい過ぎて使いきれないぐらいだよ。ガッハッハッハ。ところで内地には何を持って帰ったら喜ばれるかね」

 「砂糖が一番でしょう。どんな物とも交換できますし、内地では現金はインフレで価値が下がっていますよ。砂糖が最高に喜ばれますよ」
 「そうかね、ウンウン。そのうちにこの輸送飛行もおわるだろうから、オレも適当な時期に引き揚げるつもりだ」頷きながら何か一案考えているようだった。

5. パイロットの商法

 後年、後藤さんに日本航空でお会いし、二人だけで蒲田駅前の焼き鳥屋でコップ酒で一杯やりながら尋ねてみた。      
 「昔の話で失礼ですが台北でお世話になりました。ときにあのときの話はその後どうなりました?」

  彼は声を落としてポソッポソッと呟いた。
 「実はなぁ、君の助言を信用して砂糖を仕入れポンポン船をチャータ-させたが、さすがに米軍の警戒網はたいしたものだったよ。沖縄沖で米軍に拿捕され、没収されて全部パーだった。引き揚げてきてからは極東空軍に軍秘扱いで雇用され、朝鮮戦争のとき特命を受けて夜間索敵機で飛んでいたよ」
朝鮮戦争時、かつての民間パイロット数名が極秘裡に立川基地で訓練を受け極東空軍の輸送飛行等に従事していた。

 「そうだったのですか、それにしても終戦直後のフライトでしたね。私たちもあの時は緑十字機で飛んだのですが二度もスクランブルされましたよ」
 「でも砂糖の話、極秘にして絶対に他人にいうなよ。君とオレだけの秘密にしておこうや。パイロットに金儲けは似合わないからなぁ。飛ぶことに専念してお互いに訓練に励むことだよ。ガッハッハッハ」
相変わらず豪快な笑いが返ってきた。

 ところで台湾では毎晩宴会に呼ばれたうえ、戴いたプレゼントの砂糖、バナナ、米等々を許すかぎり搭載し数名の要人も同乗して9月13日午前8時9分(日本時間)に淡水を離水し、横浜に午後4時に帰還した。到着後の米軍によるチェックは誠にスマートで手早く実施された。われわれがプレゼントしたジョニ・ウオーカー1ダース入りの箱をジープの後席に乗せて、「サンキュー、グッバイ」といって走り去った。

 ジープが見えなくなるや否や土産物をリヤカーに載せて運び出し、日航関係者に分配したときのみんなの笑顔はいまでも忘れられない。わが生涯の飛行艇最後のフライトは素晴らしい締めくくりになった。台湾からの再度の要請により、15日に「巻雲号」で二度目の現金輸送計画が実施されたが、この時は搭乗希望者が殺到したことはいうまでもなかった。

 私は昭和34年7月、日本航空のダグラスDC-6Bで待ちに待った日台航空路再開の際、航空局の機長路線資格審査飛行で戦時中、台湾の飛行を慣熟されていた私の崇拝する糸永吉運機長『日本航空乗員部長』のもとで台北へ一番乗りすることができたことは光栄この上もなかった。しかも大日本航空時代に通信士として活躍された呉欽水氏との再会があり、謝々、故郷へ帰ってきた思いがした。

 「これからの台湾の経済発展と豊かな国民生活を願い、お互いの友情を深めましょう」と誓ったのも何かの縁だったのかもしれない。

6. 不人生三度のチャンス思議な縁

 最後にこの項によせて、「人生には三度のチャンスがある」と言われているが、身勝手に緑十字飛行によせてこれをこじつけてみたい。
 ① まず例の何億円の入った箱を鹿児島沖で猫ババして横浜駅西口の砂利置
   き場の土地でも買っていれば、今ごろは左うちわだったか?
 ② 台湾財閥の頭取さんの小妲と結婚でもしていれば台北で豪勢な生活を営
   み、旧日本アジア航空のファーストクラスの常連で、夏は箱根の別荘、
   冬は台湾と渡り鳥のごとく旅をして、薬指にはダイアの指輪を光らせな
   がら、「サービスは中々良いよ、うん・・・・。それから今日の飛行員
   は上等だったぞ。謝々、」といいながら暮らしていたかも知れない。
   ただし、台湾の女性は一般に家庭では威張っていてやかましいくらい煩
   わしいとの説あり。もっとも、この頃の大和撫子も負けてはいないかな?
 ③ 砂糖で一儲けしてルンルンの成金気分。左うちわで遊び放題。毎日大好
   きなゴルフ三昧で勿論、腕はシングル。

 こんなところでしょうか。でもやっぱり飛行機で空を飛ぶことに生き甲斐と誇りをもちつづけ、『懲りない飛行機野郎』で頑張って空を征する事に専念するか。人生どちらが本当の幸せといえるでしょうか。 

 賢明な前途有為な皆様はどちらをお選びになりますか?
 奥さんともユックリご相談してみてください。
 
 そして最後に一言、「人生とは、そんなに甘いものではないぞ!!」

執筆

越田 利成

元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

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