航空躍進の時代を伝える絵画

【はじめに】

 朝日新聞社が1930年代後半から報道連絡用に使用した飛行機「朝風」号を油絵具で描いた絵画などの資料を、同機を操縦した朝日新聞社の川崎一氏のご親族(川崎正実様、川崎譲様、平岩加代様)から昨年の夏に寄贈いただいた。絵画の修復がほぼ終了したのを機会に紹介したい。

【新聞社と航空】

 新聞社と航空機の接点というと、飛行機やヘリコプターを使っての取材が思い浮かぶのではないだろか。詳しい人は、それら航空機を自前で所有し運航している新聞社があることをご存知かもしれない。今ではあまり知られていないが、かつて日本の民間航空の発展に新聞社が大きな役割を果たした時代があった。絵画修復の話の前に、まずは新聞社と民間航空のかかわりについて触れたい。1910(明治44)年12月、現在の渋谷区代々木公園周辺で飛行機による初の動力飛行が行われ、この時の様子は連日多くの新聞紙上をにぎわせた。当時、空を飛ぶことは、まさに冒険そのもので、多くの人々にとって最大の関心事であった。ほどなくして諸外国の新聞各社は、報道に止まらずエアレースや飛行大会のスポンサーになるようになる。最新の話題を追う新聞社が飛行機を記事にするのは当然のことだが、自ら話題を創りだし、紙面で大きく取り上げ民衆の関心を集め、販売促進を計ろうという目論見だ。 

【新聞航空の躍進】

<「神風」号>

<「神風」号>

 日本でも代々木の初飛行の翌1911(明治45)年3月、朝日新聞社により米国の飛行家による無料公開飛行が大阪・城東練兵場で開催され、50万人の観衆が集まった。その後も1913(大正2)年、昨年の「航空と文化」夏季号に記載したアメリカで操縦訓練を受けた武石浩玻の公開飛行を初めとし、1925(大正14)年に開催された日本初の航空ページェントなど、様々な催しが新聞社により開かれた。日本の新聞社の活動が諸外国と異なったのは、航空輸送の分野にも手を広げ、取材のための飛行機や操縦者を自社で所有し、冒険的な飛行に自ら挑戦したことである。朝日新聞社は1923(大正12)年に同社を母体とする東西定期航空会社で郵便・貨物輸送を開始し、1925(大正14)年にはフランスから購入した2機の飛行機「初風」「東風」を用いて日本初の訪欧飛行を成功させた。とりわけても1937(昭和12)年に国産新鋭機を用いて大英帝国国王の戴冠式を祝うための親善飛行として企画した「神風」号による記録飛行では、東京~ロンドン間の都市間連絡飛行新記録を樹立し、日本中の注目を集めた。

【山路真護の描いた「朝風」】

<「朝風」号>

<「朝風」号>

 今回寄贈いただいた絵画に描かれている「朝風」号は、記録を樹立した「神風」と同型となる三菱式雁型通信機一型で、朝日では機名を「神風」「朝風」「幸風」とした3機を写真や原稿の空輸などを初めとする報道連絡用に用いた。

<日本ヘリコプター輸送㈱のマーク>

<日本ヘリコプター輸送㈱のマーク>

 神風には山路真護のデザインで銀色と青色を用いた塗装が施されており、朝風も同様であった。山路は1930(昭和5)年から1932(昭和7)年までパリに滞在、帰国後は二科展を中心に活動する一方で朝日新聞社の出版する航空雑誌「航空朝日」の表紙のデザインも担当、戦後は日本ヘリコプター輸送㈱(後の全日空)のダ・ヴィンチの回転翼をモチーフとしたマークをデザインするなど戦前戦後を通して航空との関係が深かった。

【「神風」でなく「朝風」】

 絵画は、天地910 mm×左右1165 mmで、ご親族によると 50 年近く屋根裏に置かれていたとのことであった。寄贈前の連絡では「朝風」ではなく「神風」号の絵画ということであり、お送りいただいた写真にも、山路による特徴ある塗装と神風に付与された民間機の登録記号J-BAAIと思われるアルファベットが写っていた。絵画の右下に書かれた山路の署名を写した写真には「J-BAAL Shingo Yamadi MCMXLI」という文字が写っていたのだが、この時はうかつにもJ-BAAIの書き間違いではと思ってしまった。MCMXLI は制作年1941年のローマ数字での表記となる。寄贈いただいた後に仔細に見てみると、絵の裏面に「J-BAAL 昭和十六年 山路(その下に真護と描かれていたものと思われるが部分的にしか残存せず不明)」と墨書された紙が貼られているのに気が付いた。また絵を落ち着いて見てみると、機体に書かれたアルファベットもスピード感を出すためか微妙にぶれた感じで書かれていてJ-BAALの様に見えてきた。確認するとこの登録記号が「朝風」のものであることが判った。川崎正実様の自宅にうかがった際に、川崎操縦士のお母様が作っていた川崎操縦士に関する新聞記事のスクラップ帖を見せていただいたが、川崎操縦士の朝風による飛行に関する記事が多かったのもこれで納得がいく。飛行する機会の多かった「朝風」の絵を山路が描き川崎操縦士に贈ったのではないだろうか。戦後も山路と川崎家の親交は続き、正実様が子供のころ山路に絵を習っていたこともお聞きした。

【絵画の情態】

<修復前に側方から光を当てて撮影した絵画の写真。キャンバスのタルミが良く判る>

<修復前に側方から光を当てて撮影した絵画の写真。キャンバスのタルミが良く判る>

 寄贈前に絵の状態をお尋ねして、表面の油絵具にもひび割れが見られ、キャンバスの一部が木枠から外れてしまっていることなどを聞いていたため、資料保存について常日頃お世話になっている東京文化財研究所の中山俊介近代文化遺産研究室長に相談の上、絵画修復の専門家・中右恵理子氏に寄贈後早速絵を見てもらった。その結果、私たちが思っていた以上に状態が悪いことが判明した。キャンバスが木枠から外れてしまったのは、固定する釘が錆びていて釘穴が錆で浸食され拡大したのが原因で、大きい場所では 10 mm程も内側に入り込んでいることが判った。

 絵の描かれた面は埃の付着が著しいだけでなく、虫糞のような黒っぽい点状の付着物や、鳥その他の小動物の糞尿と思われる白色の付着物が多く見られた。また、絵具層全体にわたって発生している亀裂は、乾燥と経年により生じていることも分かった。画面右下隅の署名のある箇所には、絵具層の凸凹の形や色の違いから下層にも同様の署名が認められ、「J」と「S」の字体が異なるが、ほぼ現在の署名と同じことが確認できた。キャンバスを止めている木枠の右辺に使われた木は、節が多かったために著しい歪が発生していた。飛行機の背景となる空全体に発生している乾燥性の亀裂箇所では、亀裂が生じた後に上から絵具を塗り重ねている個所が多く見られた。署名が書きなおされていることと合せて、どこかの時点で山路が手を入れたものと考えられる。

 

【絵画の修復】

<電気ゴテによる絵具の浮き上り箇所の接着作業>

<電気ゴテによる絵具の浮き上り箇所の接着作業>

 調査結果を受け、修復の方針および具体的な処置を中山室長に相談の上、次のように決定した。まず、絵の芸術性よりも資料的価値に重点を置くこととして、絵具層の欠損部などは充填・補彩せずに現状のままとする。ただし、作品を安定した状態で保存し後世に残すために、変形を修正し、汚損を除去するとともに、画面全体に生じている亀裂から剥落が生じないよう絵具層の固着をニカワで強化する。修復後、絵具層保護のためにワニスを塗布する。木枠もそのまま使用することとして、強度に不安の残る個所のみを新規に作成し交換する。
 修復は引き続き中右氏に依頼することとして、東京芸術大学内にある絵画修復のアトリエでの作業が始まった。付着の著しい埃は精製水を含ませた綿棒を回転させる作業を丹念に繰り返し、虫糞などの付着箇所はアセトニトル50%水溶液を注入してメスで削り取るなどの手法を用いた。絵具の亀裂は、亀裂に沿って5%、10%の濃度のニカワ水を注入し、シリコン加工したフィルムを当てて電気ゴテで加温加圧し接着した。

 その他さまざまな修復工程を経た絵画は、当初のキャンバスの張りを再現するとともに見違えるような色合いを取り戻した。50年近くも屋根裏にあったために微細な塵や埃が絵の表面に付着し全体にくすんだ色合いで夕闇の中を飛んでいる様だった印象が、修復を終え一変した。現在は木枠の歪を修正し終り、枠に付いた埃を落とす最終段階にある。

 

【戦時下の新聞航空】

 新聞社の機体や要員は、神風の記録飛行を境にするかの様に発生した日中戦争の拡大に伴い、軍に徴用され戦火に巻き込まれる。川崎操縦士は1943(昭和18)年7月、東条首相兼陸相が強く進めた日独連絡飛行のためにシンガポールを飛び立った立川A-26長距離機に副操縦士として乗り組み、消息を絶った。選りすぐりの乗員によるこの飛行には、神風の塚越機関士も参加していた。1920年代から敗戦までの間に各新聞社が使用した航空機の総数は150機以上にのぼる。

【おわりに】

 ロンドンからの飛行を無事に終え、羽田へ着陸した神風の両飛行士が有楽町の朝日東京本社へ帰るのを迎えるために集まった人々で銀座通りは埋まり、両飛行士を乗せた車は30 m進むのに10分以上かかったとされる。神風に止まらず、失敗には終わったが報知新聞社の「報知日米号」による太平洋横断挑戦、初の世界一周飛行を国産機で達成した毎日新聞社の「ニッポン」号など、新聞社による様々な企画が日本中を興奮に包んだ。科学技術の粋を集めた飛行機で、生死を掛けた冒険に挑み、日本中が飛行の行方に一喜一憂した時代があった。修復を終えた「朝風」号の絵画は、長年にわたり深く航空に関わった山路が新聞航空の最も華やかな時代を表徴する朝日新聞社の川崎操縦士の愛機ともいえる同機を描いて当人に送った由来の明らかな資料としてだけでなく、戦前の民間航空を牽引した新聞航空を物語る資料として貴重なものと言えよう。

(おわり)

執筆

一般財団法人 日本航空協会
航空遺産継承基金事務局

*本記事は『航空と文化』(No.105) 2012年夏季号から転載したものです。

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