FAI世界記録飛行に立ち会って ~1971年1月22日、 米海軍P-3Cの距離記録挑戦の思い出~

はじめに

 航空の世界記録が実際どのように作られるかは、航空に関心を持つ方々にも意外に知られていないのではないだろうか。戦前戦後を通して日本で世界記録に挑戦した飛行機が極めて少ないことがその理由かも知れない。本稿では、その一例として私が立ち会った45年前のロッキードP-3Cオライオンの世界記録飛行を紹介したい。

航空の世界記録とFAI

 航空の世界記録を管理しているのは、今も昔も国際航空連盟(Fédération Aéronautique Internationale、以下FAI)である。1905年にFAIが欧米諸国によってパリで設立された時から、航空に関する各種の最高記録を収集して一般に公開することがFAIの大きな使命なのだ。
 様々な記録は、FAIに加盟する国・地域の航空スポーツを統括する団体(National Airsport Control、以下NAC)が、それぞれの記録をとりまとめ、FAI本部(現在はスイスのジュネーブにある)に送って一元管理する仕組みになっている。我が国では、1919年に帝国飛行協会(日本航空協会の前身)がFAIに加盟し、現在も日本航空協会(以下、航空協会)がFAIに加盟している。記録には、1グラムの模型飛行機から宇宙飛行までクラスがあり、クラスの中に例えば機体の重量などでサブクラスやカテゴリー、グループなどの区分が設けられている。
 さて、FAIの記録として認定されるためには、FAIのルール(スポーティング・コード)に則って行われることになる。記録挑戦者は、挑戦するに当たってあらかじめFAIのスポーティング・ライセンス(FAI活動の参加資格証)を持っていることや、飛行前に挑戦する記録を宣言すること、そしてNACに登録されたオフィシャル・オブザーバー(公式立会人)が立ち会うことなどの準備が必要となる。
 記録が達成されると挑戦者の所属するNACが必要な書類をとりまとめてFAIに記録を申請し、認められればFAIによって公表される。NACはその国内での記録の管理に加えて、その国を起点あるいは終点として世界記録に挑戦する外国航空機に関わる確認なども担当することになっている。

オライオンの挑戦

 1971年1月22日金曜日、アメリカ海軍のドナルド・H・リリエンソール中佐(Commander Donald H. Lilienthal)がロッキードP-3Cオライオンでターボプロップ陸上機の無着陸飛行距離の世界記録を樹立した。米海軍厚木航空基地(神奈川県)から米国東海岸のパタクセントリバー海軍基地(NAS Patuxent River、メリーランド州にありワシントンDCの南約100km)まで11,036.47kmを15時間21分で無着陸飛行して、冷戦時代の最中、ソ連のリュボフ・ウラノワが1967年にイリューシンIL-18で作った記録、7,761.95kmを塗り替えたのだ。機体は1969年製、海軍のシリアルBu. No. 156512で、標準装備の対潜哨戒機のままでの記録達成だった。私は公式立会人(FAI Official Observer)として、その離陸確認に立ち会ったのである。
 当時私は、航空協会の職員として、訓練課で主にスポーツ航空の振興に携わり、かなり忙しい日々を送っていた。日本を出発地として世界記録に挑戦する軍用機があることを薄々聞いていたが、国際課で担当すると思っていたので、世界記録挑戦の数日前に航空協会の事務局長から公式立会人に任命されたのには少々驚いた。記録飛行に適した気象条件になったら米海軍から連絡が入るので、いつでも厚木基地に出向けるよう待機していてくれ、と指示された。出向くのが厚木と聞きややほっとした。前年5月に厚木基地で開催された恒例の日米親善の三軍記念日(フレンドシップデー)の航空ショーにグライダーの曲技飛行演技で出場した折り、基地内の施設に宿泊して普段民間人は飛べない基地上空をリハーサルも含めてさんざん飛び回った経験があったからである。
 1月21日、有楽町の朝日新聞社会議室で航空技術協会主催の会議に出席していた時、航空協会から気象条件が好くなってきたので直ちに厚木に出向いてくれとの連絡が入った。直ちに大田区の自宅に戻り、車で厚木基地に向かった。ちなみに、当時、航空協会の二十数人いた職員でクルマを持っていたのは、私の他は副会長だけだったと記憶している。
 友人たちから「アンタッチャブル」という渾名をもらっていた黒塗りのダットサン1000で基地の正門についたのは午後2時ごろだった。入門手続きをしていると米兵が「貴方を待っている人がいますよ」と教えてくれた。指差す方を見ると、基地内に少し入った左側の歩道の縁石のところに飛行服姿で軽く両足を開き腕を後ろに回した人がこちらを見ていた。それが機長のリリエンソール中佐であった。(グライダーで有名なオットー・リリエンタールと同姓だが、直接の関係は無いようだ。ひょっとすると遠い親戚かもしれないが。)挨拶する私に、物静かな機長がかなり心配そうな顔をされたのを覚えている。当時私は37歳だったが、日焼けした顔とスポーツ刈りだったので、若く頼りなく見えたのかも知れない。挨拶もそこそこに直ちに正門近くの木造で古めかしい白く塗られた西洋館の宿泊施設に案内された。

飛行前日の厚木基地

 その後、近くの別の建物に移動し、機長から副機長のF・ハワード・ストゥッドリー少佐(Lieutenant Commander F. Howard Stoodley)の紹介を受け、3人でFAI関連の書類確認に入った。お互いに絶対失敗があってはならない確認作業であるが、私の英会話力が低いため、2人ともかなり心配そうな感じだった。そこで、思い切って私のFAI関連の公式立会作業経験を含む航空経歴を話してみた。私は大型機の経験はないが、操縦士で整備士で耐空検査員(Designated Airworthiness Inspector)だと自己紹介してみた。すると、とたんに会話が弾み、確認作業から脱線して、副機長は米国の自宅の近くにある飛行場で休みの日は小型機を教えている話しになり、そこでお互いに肩の力が抜けたように感じた。
 書類の確認が終わると、機体の確認である。明るいうちにと3人で東側エプロンに移り、ここで初めて記録に挑戦する機体に出会うことができた。機体の周りにはすでに数人の関係者が準備作業をしていた。「オブザーバー」と機体の前方から呼ばれて機首に行くとノーズコーンが上方に開けられ、機体側の隔壁に2台の自記高度計が装着されているのが見えた(写真1)。1台(主)は海軍側でスイッチを入れるが、他の1台(副)は公式立会人で入れてくれということで、機体に近寄ると自記高度計はかなり高い位置にあってスイッチがどこにあるのかよく見えず、ほぼ手探りでスイッチを入れた。自記高度計は今まで何種類か扱っていたが、見たことのないタイプで、軍用の機器のように見えた。この計器は無着陸を証明する重要な機器で動力源(ゼンマイ式)が機体側の動力源と独立して作動する仕組が普通で、通常30~40時間記録できるため離陸時間が翌日になるが、2台の計器を前もって働かせ、ノーズコーンは飛行位置に戻されロックされた。

 丁度そこに軍服姿の基地副官のテッド・C・スティクバウワー(Ted C. Steckbauer)氏が全飛行予定コースを記載した大きな高層天気図を持ってきて、皆に見せてくれた。前年のフレンドシップデーで知り合っていた彼の登場は、この記録飛行はマスコミにも知られていないのか、我が国の航空関係者は誰一人いない全くの孤立した作業の流れの中、しかも知り合いが誰も居なくて心細かった私には本当に心強く感じられた。高層天気図を見ると、ジェットストリームが出ているのか、北日本、カムチャッカ半島周辺、ベーリング海峡からアラスカ、カナダ・北米東側にかけて引かれた大圏コース上は、見事に全て強風を示すペナントの付いた追い風記号が記されていた。待ちに待った気象条件がやって来たのだ。この天気図を見て間違いなく離陸時間が迫っていることを強く感じた。
 次いで、主翼上面にある燃料給油口に封印シールを貼る作業を行った。途中で給油していない証明のために燃料給油口に封印することが定められていたからである。P-3Cは主翼の上面と主翼付け根の下面に燃料給油口があるので、先に主翼の上面は封印しておくことになっていた。主翼の上に出て、背の高いエンジンカウリングをまたいで移動して準備してきた封印シールを貼り付ける作業をしていると、胴体側のハッチ付近で写真のフラッシュがたかれた。あとで聞くと、海軍の広報班が写真を撮ったとのこと(写真2)。私は不用意に写真を撮って軍事秘密に触れるトラブルを避けるため、意識的に丸腰でカメラなどを持参していなかったので、それがこの時の唯一の私の写真となった。

 残すは離陸直前の燃料給油口の封印確認作業と離陸後の書類作業ぐらいである。日没後薄暮のなか宿舎に戻り部屋で今までの確認作業に何か忘れがないか確認していると、機長から内線で夕食の誘いを受けた。士官食堂と思しき建物に入ると、そこは外国だった。テーブル以外は薄暗く静かな大人のムードに満ちたレストランであった。何がメインだったか忘れたが、半分に切ったグレープフルーツがデザートに出されたのは、初めてのグレープフルーツだったので覚えている。二人でのディナーを済ませて夜道を宿舎に戻る途中、明日の早朝電話をするまでしっかり休んでくれ、と機長に言われた。まだ午後9時ぐらいだったが、忙しい一日の疲れもあって、シャワーを浴びるとすぐにベッドに入った。

出発の朝

 けたたましく電話が鳴った。枕もとの電気スタンドの燈を点けて時計を見ると午前3時前である。10分後に玄関内の少し広くなった所に集合せよとの事で直ちに準備完了後廊下に出ると薄暗い玄関に記録飛行のクルー9人全員が集まってきた(写真3)。機長から7人の紹介があり、静まりかえった真っ暗な施設内をそれぞれの行動に移った。機長と私は車で24時間営業のキャフェテリアに向かい早すぎる朝食をとることになった。広く明るいキャフェテリアはやはり日本離れした感じがした。軽い朝食の後、管制塔の建物に移り、機長は飛行計画の確認に行き、私は入口を少し入った所で機長の戻りを待った。

 飛行場は真っ暗で誰一人見えない。薄暗い廊下の奥から機長が戻ってきて、全てが記入された飛行計画用紙(Flight Plan)を見せてくれた。記録に向けて飛行計画が提出されたのである。最後に、出発前の書類確認がもう一つ残っていた。それは、FAIのルールに則った機長のスポーティング・ライセンスの確認である。二人だけの管制塔下の玄関で、機長にスポーティング・ライセンスの提示を求めた。ポケットの沢山ある飛行服から迷うことなくライセンスを出して見せてくれた。
 直ちに管制塔などのある滑走路西側から北側の横断道路を使って滑走路東側の駐機場に車で向かった。曇り空の下、基地は広大でどこからも光が届かないため本当に真っ暗だった。広い東エプロンにただ一機ヘッドライトの光の中に機影がみえてきた。少し離れたところで車から降りて、機体に乗り込む。薄暗いコックピットの右席には既に副機長が着座していて、我々を迎えてくれた。機長は既に乗り込んでいるクルーに挨拶すると機長席に座り、私をジャンプシートに座るように指示してくれた。
 機長と副機長はコックピット点検しながら後ろを振り返っていろいろと説明してくれるが、薄暗いコックピットで初めて見る沢山の計器類に圧倒され、それでなくても興奮気味なので早口の英語の説明が分かるはずもなく、分かっているふりをして頷くだけだった(写真4)。点検が終わりターボプロップのエンジンが始動され、ここで初めてランディングライトが点燈された。ゆっくりと離陸開始地点である滑走路南端に向かってタキシングに入った。月明かりも星明かりもない真夜中の真っ暗な誘導路でランディングライトだけが頼り。タキシングはかなり長く感じたが、やがて滑走路01のセンターライン上で機首を北に向けぴたりと止まった。ここでエンジンを止めて、給油である。タキシングで使う燃料も惜しいのだ。
 ランディングライトが消えて外はまた真っ暗になったが、すぐに地上支援の投光器が左翼側から胴体の中心部を照らし始めた。私には給油後に給油口を封印する任務があったので、機長と副機長に挨拶しコックピットを後にしたが、外は寒いので地上整備員の作業が軌道に乗るまでの間、キャビンで他のクルーと話しをしていた。その時、何気なく窓から右翼端の少し後方の投光器の明かりがやっと届いた所にいる真っ白く凍りついたタンクローリーが目に入った。一瞬、FAIのルールから外れる特殊なものだったら記録が成立しなくなるという不安が心に浮かんだ。傍にいたクルーに尋ねると、燃料は全く通常の燃料だが記録飛行のため(できるだけ多くの燃料を積むため)燃料を極度に冷やして体積を減らして搭載するのだと聞き、先ずほっと胸をなでおろした。よく見るとタンクローリーから自分の足元に向かって燃料ホースが白い線のように見える。燃料ホースが機体に取り付くのを確認して機体から降りた。白い燃料ホースをよく見るとブロックの氷で包まれた状態で機体の給油口のすぐ下まで来ていて立ち上がった部分だけが通常のホースであった。
 主翼付け根に位置するメインの給油口で3、4人が給油作業をしていた。機体は地上電源車がないためか電源の確保と燃料タンクの圧力を考慮してか内側2基のエンジンをかけて軽くプロペラを回し始めた。投光器の光の中での作業でふと気が付くと夜明けが始まりうっすらと明るくなっている。天候は高曇りで風は感じないが真冬で夜明けの外気温である。 

トラブル発生!

 あとは私が給油口を封印すれば離陸開始だった。しかし、ここで思いがけないことが発生した。整備員が作業用の脚立の上に置いたはずの給油口のキャップ(薄い金属製の保護カバー)がいつのまにか無くなっていたのだ。整備員たちは大声を出しながら滑走路面上を探し始めた。ゴミひとつない滑走路上の事、直ぐに見つかった。ホッとしたのも束の間、キャップが給油口に取り付けられない。キャップは誰かに踏まれて変形していたのだ。給油担当者が周りの整備員に大声で工具の種類を指示しその工具で修正を何回も試みるが、なかなか上手く取り付かない。何とかキャップが取り付けられ、ロックされたのを確認して、私が封印する作業に入った。キャップの2ミリぐらいの小さな穴に銅線を通して機体側の穴と結んで銅線の両端に10ミリぐらいの鉛の玉に通して工具で潰す作業である。周囲は皆興奮気味で、既に四つのプロペラがアイドル状態で今すぐ出発できる体勢である。焦る気持ちを抑えて、何とか手早く封印し、最後に整備員が給油口全体のカバーを閉めてファスナーをかけ、その後に私がFAI指定の封印シールを数か所のファスナーの上から張り付けで全てが完了した。(写真5)

 気が付くとあたりはすっかり明るくなっている。機体が出発を待ちに待っている感じが伝わってくる。地上支援の給油関係の機材は東側のショルダーへ、投光器等は西側のショルダーへそれぞれ撤収され機体の下に残るは米軍側の確認者と私になっていた。封印シールを貼り終わったことをお互いに確認して小走りでプロペラの後流を感じながら西側のショルダーに駆け込むや、機体は直ちに北の空に向かって滑走を開始し離陸した。ほぼ真後ろから見ると四つのエンジンの後ろから薄い黒煙をのこして軽々と高曇りの空に向かって真っすぐ上昇し、機影が見えなくなる少し前に右旋回した所で視界から消えた。
 出発を見送っていた地上で支援していた人たちも我に返ってそれぞれの後始末に入った。私も我に返って身の周りを点検していると、早朝にも拘らず、いつの間にか出発を見送りに来ていた副官が声をかけてくれ、車で管制塔の玄関に連れて行ってくれた。公式な離陸時間を記録した書面を私に渡すために降りてきた管制官は、予想していなかった事に海上自衛隊の管制官で、ここで前日にリリエンソール機長に会ってからの慣れない英語漬けからやっと解放された。副官のエスコートで正門近くの宿舎のそばに止めている車まで送ってもらい、挨拶もそこそこに帰路に就いた。給油口の封印後は、あっという間の出来事だった。

おわりに

 離陸を確認した翌日の23日、航空協会の国際課に機長名で「無事到着した。ありがとう。」とのテレックスが届いた事を聞いた。一連の出発証明書類の中に公式立会人個人名で署名する欄の数か所に署名して、国際課に提出した。後日、航空協会に小さな小包が届いた。開けてみると、機長から私宛に、表面がP-3Cオライオンをあしらい、裏面は片手で操作できる丸形の航法計算盤になっているペンダントだった(写真6)。当時我が国では手に入らない物で、私の宝物になった。

 後日、航空協会に届いたFAIのアニュアルレポートに、この飛行が世界新記録として公認されことが明記されていた。ずっと気になっていたので、先ずはほっとすると共に、航空を志す一人としてこの素晴らしい世界新記録飛行の離陸に関与出来た事に深い喜びを感じた。
 その後、厚木基地の副官スティクバウワー氏からロッキード社発行の広報誌 “Airborne ASW LOG” 1971年3月号に私の写真が載っているとの連絡があった。何とかお願いして入手してみると、1.この飛行は「通常の能力(Normal Capability)」ということがミソで、特別な改造をされていない通常の対潜哨戒装備したP-3Cで実施したこと。2.FAIの公認記録では6,857st. miles(11,036.47km)と公認されているが、実際は大圏コースの一部がソ連の空域にかかるため、スポーツマンシップに則ってカムチャッカ半島を迂回して7,010st. miles(11,218.5km)を慣性航法装置(INS)を駆使して15時間21分で飛行したこと。3.そしてこの飛行に、冷やした燃料を搭載したことが明記されていた。帰国後、同じ機体で無着陸距離記録に続いて周回速度記録、絶対高度記録、上昇時間記録など7つの世界記録を樹立したことなども紹介されていた。
 記録を達成した156512号機は2004年に退役となり、リリエンソール中佐は2014年にこの世を去った。彼の残した記録はFAIのスポーティング・コードが変更されたため、現行の世界記録ではなくなっている。しかし我が国で百機以上製造され海上自衛隊で保有しているP-3Cは、いくつもの世界記録を樹立した名機として、日本近海でも世界の海上でも第一線機として今後も当分活躍するだろう。願わくは、世界記録に挑戦する日本製の飛行機が現れて欲しいものである。

 本稿執筆に当たって、中場義之助氏(NPO 法人学生航空連盟理事)、山康博氏(電子航法研究所研究員)、海上自衛隊厚木航空基地第四航空群司令部広報室、在日米海軍厚木航空施設渉外部にご支援いただきました。

参考文献:“Airborne ASW LOG” Volume Ⅱ, no. 1,March, 1971( ロッキード社発行)  

執筆

佐藤一郎

元日本航空協会参事
元FAI Official Observer

*本記事は『航空と文化』(No.112)
2016年新春号からの転載です。

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