日本の人力飛行機の初飛行50周年記念・座談会~人力飛行機リネットを語る~

リネットの概要

 日本大学(以下、日大)で開発された「Linnet」(写真1、表1。以下、リネットと表記)は、1966(昭和41)年2月の調布飛行場において、日本初の人力飛行に成功しました。1963(昭和38)年度から機械工学科航空専修コース木村研究室において代々の4年生が卒業研究のテーマとして人力飛行機の開発に取り組み、1年目は人力の測定方法の研究と実測、2年目はそのデータに基づいた基礎設計、3年目にして製作と飛行への挑戦が行われるという3年越しのプロジェクトでした。当時、イギリスで人力飛行機が飛行したことは知られていましたが、その模倣ではなく、地道な研究の積み重ねによる成果でした。今日、人力飛行機は航空スポーツの一つとして広く認められていますが、我が国においてその先陣を切ったのがリネットです。イギリスで発行された『ジェーン年鑑』1966~67年版には〈1966年2月26日に初飛行に成功し、同年3月15日まで15回の飛行をし、最長距離43m、最高高度1.5mを記録した〉と紹介されました。
 リネットの飛行成功50周年に当たり、初飛行を成功させた製作チーム10名(写真2、表2)の中からご都合の付いた6名の方に2016年5月10日、航空会館にお集まりいただき、お話を伺いました(写真3、表3)。リネットの開発経過と飛行の概要については当時の雑誌などに詳しい記事があるので、今回は周辺事情や思い出に残ることなどを中心にお聞きしました。(聞き手:日本航空協会 長島、苅田)

製作が始まる前

本日はお集まりいただき、ありがとうございます。早速ですが、卒業研究として人力飛行機に取り組まれたとのことですが、他にはどのような卒研のテーマがあったのですか?

岡宮 ヘリコプターの設計(オートバイのエンジンを使ったモノ)や軽飛行機の設計などがありました。
五十嵐 みんな、好みで決めていたと思います。

人力飛行機を卒研のテーマとして選ばれた理由は?

五十嵐 上の学年が人力飛行機を研究してるのは見てました。2年生の時に、人間の馬力測定に参加したのが(人力飛行機を選ぶ)きっかけだったかな、と思います。人力の測定では、「全力で漕げ」と先輩に言われて、日大は先輩が絶対ですから、本当に全力でペダル漕いで階段を登れなくなった奴もいましたよ。

製作開始の時点では、どのようなデータがあったのですか?

五十嵐 製作開始時点で前年から受け継いだのは、諸元(全長、全幅、主翼のアスペクトレシオ)と三面図ぐらいで部品製作用の図面は無かったです。
澤藤 主翼に関しては、主翼のリブの基本設計はあったと思います。
五十嵐 現在残っているリネットの図面(注:21枚の青焼きが現存し、当協会に寄贈された)は、日付が初飛行後になっています。よく覚えていないのですが、胴体図の筆跡は自分のものなので、卒業研究の記録として私たちが描いたものではないかと思います。

全  長5.60m
全  幅22.30m
全  高4.19m
翼面積26.00m2
機体質量50.60kg
全備質量108.60kg
表1 リネットの主要諸元

メンバーの分担(表2)はどのように決められたのですか?

澤藤 岡宮君と伊藤君はグライダーの操縦が上手だったし、体重も軽かったから「パイロット+主翼」ということが最初に決まってました。他の分担は、各自で手を挙げて決めました。ゆるやかな区分で、手が空いている人は他の忙しい人を手伝ってました。
岡宮 玉井君の駆動系とかプロペラは大変だったと思うけど、どうして選んだの?
玉井 もう忘れちゃったけど、手を挙げたことは覚えてるよ。

氏 名担 当
五十嵐 勝治胴体、主将
伊藤 壌(逝去)パイロット+ 主翼
岡宮 宗孝パイロット+ 主翼
小林 秀弘胴体、会計係
澤藤 忠行材料調達、主翼結合、重量管理
杉村 遼水平尾翼
竹内 惇垂直尾翼
玉井 毅駆動系(プロペラ含む)
堀井 久(逝去)胴体・車輪
水谷 昌弘操縦系統

表2 リネット製作チーム(あいうえお順、敬称略)

操縦系統も難しかったのではないですか?

水谷 私は自分から操縦系統を選んだわけじゃなかったんですよ。残っちゃってたというか。
竹内 そうそう、僕の場合、集まりに遅れていったら残ってたのが垂直尾翼で、選択の余地無しでした。
岡宮 前年度のチームは計算が得意な人たちが多かった印象があるけど、私たちは計算よりも手を動かしてモノを作ったり体を動かしたりするのが得意なメンバーがたまたま集まっていた気がします。

氏名略歴
五十嵐 勝治1966年伊藤忠航空整備(株)(現在のジャムコ)に入社。2002年定年退職、最終肩書きは品質保証部長兼理事。退職以後、コンサルタント(自営業)で現在に至る。
岡宮 宗孝1966年日本IBM入社。1970年~システム・エンジニアとして、航空機製造会社の生産管理システム開発及びCAD(Computer Aided Design)システム導入を支援。1987年~アジア太平洋本部や開発部門などの管理者を歴任。2011年日本IBMを離職。
澤藤 忠行1966年自社養成パイロットとして入社。航空自衛隊、日本航空仙台基礎訓練所を経てB-727、DC-8型機副操縦士、操縦教官経験後、DC-8,B-747型機機長、日本航空研修所教官、国土交通省技能審査員歴任、総飛行時間17,368時間。
竹内  惇1968年小松製作所入社、主に車両開発に従事、2003年定年退職、技術コンサルタントで現在に至る。
玉井  毅1968年日大大学院理工学研究科修士卒業。1968年日本電気(株)入社、2003年9月退社。この間、集積回路生産設備設計、工場管理、国内外工場建設を担当。
水谷 昌弘1966年(株)ヤナセに入社。その後帝人ボルボからボルボジャパンで車両の認証手続きやサービス資料作成に携わり、2000年に退職。2002年より興和火災で車両保険の査定業務を2005年まで行う。

表3 出席者(あいうえお順、敬称略)

製作が始まって

製作は東大に場所を借りて始めたとのことですが、その理由は?

澤藤 長い主翼の製作に必要なスペースが日大に確保できなかったので、木村先生が交渉して駒場キャンパスの航空研究所に部屋を借りてくださいました(写真4)。

リネットは当時としては斬新なスタイルをしているように思いますが、どのように設計されたのですか?

岡宮 先ほどお話ししたように、基本設計は既に前年度に出来ていました。色々な形態が検討されたのですが、先尾翼機は重心の調整に難があり、後退角付きの全翼機は主翼がねじれる問題があるということで、普通の直線翼機の配置になっていました。地面効果を活かすために低翼にし、プロペラは地面に接触しないように高い位置に取り付けることになります。人間のパワーで飛ぼうとすると、必要な翼面積などは計算で決まってきます。
五十嵐 胴体のスタイルは、ペダルを漕ぐ脚の膝をクリアできるサイズを決めて、あとは流線型にシュッと格好良くしました。側面図と上面図を目見当で描いて、それから断面形をバランスを見ながら決めていくという模型作りの感覚です。ただ最初は、胴体の上側は膝の一番高い位置だけを気にしていて、横幅まで考えていなかったので、やり直しが必要になりました(写真5)。

ノーズコーンだけ色が違っているのはどうしてですか?

五十嵐 ノーズコーンは素材のFRPの色です。石膏でオス型を作って、それにFRPを貼って作ったので、少しデコボコしてました。

材料の調達はどのようにされたのですか。調達で苦労された部品はありましたか?

五十嵐 車輪は希望の重量とサイズのものがなかなか見つからなくて苦労しました。最終的には、堀井君がデパートで見つけてきた外国製の子供用自転車のものが使われました。

自転車を購入されたのですか?

澤藤 いえ、タイヤだけ売ってもらって。

子供用自転車なら日本製のモノが簡単手に入ったのでは?と思うのですが

澤藤 小さな車輪2つで100キロを超える重量を支えられるものは、当時は無かったんですよ。
五十嵐 主翼に使ったスチレンペーパーはスーパーの食品のトレーを見て閃いた先輩の一人が、メーカーの日本スチレンペーパー(注:現在、株式会社JSP)に飛び込みでお願して寄附してもらったものでした。スチレンペーパーの使用を思い付いたことはリネットの大きな成功要因の1つです。
澤藤 接着剤のセメダインも寄贈してもらいました。普段は小さなチューブ入りのしか使わないのに、2キロ缶で2つもらって来て、その時に「この接着剤も重量の内だ」と気がついて、乾燥重量を教えてもらうと、55%は水で残りは樹脂だから水の分軽くなります、ってことでした。そこで急遽、機体各部の製作担当に割り振る重量配分を、余裕を見て最初の予定から10%ずつ減らしました。結果的に、皆がよくやってくれて予定内に納まって、それが成功に結び付いたと思います。

各部の重量配分はどのようにして決めたのですか?

澤藤 千本木さん(注:前年度の人力機メンバーで大学院に進学)と相談して、鳥のトンビのバランスを参考したんですよ。空を飛んでる生き物なら人力飛行機に近いだろうってことで、胴体はこれくらい、翼はこれくらいって。

重量の測定は各部分ごとに実測されたのですか?

澤藤 実測したはずです。部品だけじゃなくて完成した機体も、両翼端をそっと持って体重計を使って計測しました。
竹内 主翼は大きくて華奢だから一人では持てなくて、何人かで持って体重計に一斉に乗って計ったんじゃないかな。
岡宮 主翼の担当だったけど、主翼の重さをどうやって計ったか、覚えてないなぁ。
澤藤 配分した重量を超えたのは、垂直尾翼と水平尾翼だけでした。
竹内 でも、オーバーしたって言っても、少しだったよ。そもそも、重量配分が大雑把だったわけだし。
水谷 アバウトっていえば、アバウトな世界だったんだね。
五十嵐 調布でロールアウトしてからだけど、主翼と胴体を接合してハンドリングしてたら、やたらとミシミシいったんで、新聞記者に「おい、これ、もつのか?」なんて言われました。それで不安になって、みんなに内緒で夜こっそり尾翼のトラスに補強材を追加しました、今だから言いますが。

当時の模型飛行機作りなどをしていた世代だから、リネットの製作もできたのではと思いますがいかがでしょうか?

竹内 確かに、作っていて違和感はなかったですね。プラモデルみたいなものじゃなくて、木を削ったりして模型飛行機を作ってましたから。
五十嵐 実物大の模型みたいって感じかな。ただ、図面がろくすっぽ無かった。
澤藤 今の若い人だったら難しかったかも知れませんね。

足で漕いだ力を推力に変換するプロペラは特に重要な部品なので、特に苦労されたのでは?

玉井 前年度から引き継いだモノの中に、バルサで作ったプロペラが確か2本ありました。推進力テストの三輪車に付けて実験したけど、(プロペラが)重すぎてどうにもならなかったという話を細江さん(注:前年度の人力機メンバーで大学院に進学)から聞いてました。図面もあって、木型もありました。それで、軽く作るにはFRP(繊維強化プラスチック)しかないっていうことで、遊園地の遊具を作っていた町工場に行って、作らせてもらったんです。
竹内、岡宮 えっ、外注したんじゃなかったんだ!自分でやったんだ!
玉井 そうだよ。まず、木型からメス型作って、それにFRPを貼り付けて中空のペラを作ったんです。だけど、今度は強度が足りなくて、バックリングをおこしちゃいました。プロペラは回転して推力が出てくると引っ張られちゃうから。それで、最初は発泡スチロールを詰めてみたんだけど、当時の発泡スチロールは重くて、代わりにバルサで桁を入れて、やっと大丈夫になったわけです(写真6)。

操縦系統についてはいかがでしたか?

岡宮 操縦系統はずいぶん複雑だったけど、図面はあったのかな?
水谷 図面はなかったですね、前年度から引き継いだ資料はイメージ図ぐらいです。主翼は長い上に、揚力が発生すると翼端が上がってしなるので、距離が変わってくるんです。だから材料については悩みました。最初はギターの弦を試してみたけど、伸びちゃって。それで、自転車のブレーキ・ワイヤーを使うことを思いついたんです。

十分な長さのものが自転車屋さんにあったんですか?

水谷 無かったのですが、東大で作業してた時にその近所の自転車屋さんにお願いして、特別に長いものを取り寄せてもらいました。普通の飛行機はフットペダルでラダーを操作しますが、人力機では脚は操縦に使えないので、右手でエルロンとエレベーター、左手でラダーを操作するシステムを作りました。全力でペダルを漕いでる時に、手はどの位置に置いたら良いのか分からないので悩みました。

それぞれの舵の中立の位置が分かりにくいですよね。

水谷 そうなんですよ。だから、うまく操縦してもらえるか心配でした。プライマリーグライダーの仕組みをそのまま使おうかとも思ったんですが、プーリーからワイヤーが外れる可能性を考えて、自転車のワイヤーのガイドチューブを応用しました。
五十嵐 エルロンが2分割になっているのも、主翼がしなるからですね。
澤藤 操縦系統は予定重量よりも一番軽く仕上がってましたよ。

垂直尾翼は苦労されたことがありましたか?

竹内 無かったです。というか、記憶にないです!

主翼はいかがでしたか?

岡宮 主翼の翼型(翼断面形)は人力機の低速に合せて、NACAの翼型を基にして前年度に日大で独自開発されたものでした。主翼の弦長が付け根と翼端とで違い(最大180cm~最小60cm)、その間の主翼のリブの製作図を作るのに、マスターとなる翼型の座標全部を、手回し式のタイガー計算機を使って一つ一つ、それぞれの大きさに合わせて換算していって、それを曲線定規で結んだんです。今なら、コンピュータに縮率を入れれば一発だけど、当時はコピー機さえ無いし、あるのは湿式の青焼だけのような時代だったから、それしか方法がなかったんです。
五十嵐 みんなで誰が一番早く計算できるか、計算機使ったコンテストやったね。
岡宮 主翼製作で苦労したのは治具ですよ。11mの長さの桁を垂直に保持するために、L字型の支えを木で作り、2つ1組で桁を両側から挟んで固定する形にしました。「下駄」みたいだと悪口言われたりしながら沢山作りました。あと主翼で印象に残っているのは、主翼に使ったストリンガーは細い桧材だったんだけど、玉井君が近くを通るたびにポキン、ポキンと折っちゃって、そのたびに作り直さなくちゃならなかったんだ(笑)。
玉井 そんなに折ったかなぁ(笑)。覚えてないよ。

製作段階:調布

東大で機体の製作がある程度進行した後、調布に移動したそうですが、大きな部品の移動はどのようにされたのですか?

竹内 グライダー用のトレーラーで調布に移動しました。
澤藤 主翼は縦に積んだんですが、壊れやすいので神経を使いました。主翼を痛めずに固定するのに女性の生理用綿が使い勝手が良いってことで、五十嵐君に言われて買いに行ったけど、あれは恥ずかしかったな。

調布では共同生活をされたそうですね

五十嵐 調布飛行場の格納庫の近くにあった8畳ぐらいのプレハブ小屋で、雑魚寝していました。敷きっぱなしの布団があってストーブが一つ、お風呂はなし。みんな、ヨレヨレでした。
水谷 調布の寒かったことがとにかく印象に残っています。作業で使わせてもらった格納庫が雨漏りして、床にたまった水が朝には凍っていましたから。服の下に、畳んだ新聞紙を入れて(空気の層を増やして)できるだけ暖かくしていたんですが、それでも寒かった。
澤藤 接着剤がシャーベット状になってましたからね。
五十嵐 主翼の下側の作業は、コンクリの床に寝てやらなくちゃできなかったんですが、床が冷たくて、小林君はそれで過労もあって肺炎で入院しちゃった。

食事はどうされていたのですか?

澤藤 バイクで買い出しに行っていました。軽飛行機の点検で油抜きをして出てくる燃料を集めてバイクに入れたんですが、ハイオクだからバリバリッと凄い音で馬力が出ました。それで買ってきたインスタントラーメンを洗面器で作ったり、ストーブの上の薬缶で魚肉ソーセージ温めたりして、みんなで食べたりしました。
岡宮 あの頃の後遺症で、私は今でもインスタントラーメンも魚肉ソーセージも駄目なんですね。とにかく、そればっかり食べたから。
水谷 伊藤忠航空整備(注:現(株)ジャムコ)の社員食堂も時々使わせてもらいました。
岡宮 そういえば、東大で部品製作をしていた時に、銀杏が校内に沢山落ちていて、焼いてみんなで食べたね。

学生としては、講義や試験もあって、リネットの製作との両立は大変だったのでは?

竹内 4年生になると卒業に必要な単位を取ってしまっているのが普通でした。ただ、僕だけは単位の取り残しがあって、時々、作業を抜けて駿河台のキャンパスに通っていました。

チームワークが大変良かったというお話しを他の日大OBからお聞きしましたが、製作の途中で意見が分かれて激論になったりしたことは無かったのですか?

澤藤 リネット製作の前から、日大航空研究会(注:理工学部のサークル活動)のグライダー班で一緒だったメンバーが大半だったので、気心が知れていたから、とくにケンカになるようなことは有りませんでした。プロペラの設計をスタティック(離陸に最適化したもの)かダイナミック(巡航飛行に最適化したもの)にするかでは大分議論したけど。
玉井 そうだったっけ?もう覚えてないなぁ。

五十嵐さんはキャプテンとして特に苦労されたことはありましたか?

五十嵐 特に苦労したことはなかったと思います。ただし、キャプテンとして航空局に打合せに行ったりはしました。航空局では、許可の条件として「飛行場の外を飛行してはいけない」と言われたけど、なかなか浮かないんで全然それどころじゃなかったです。
竹内 機体ができてからの話ですが、風が強いと飛べないし、天気が悪いと飛行は中止。そうなると、機体の修理があれば別ですが、することが無くなって、みんなでマージャンしたりして時間を潰しました。

飛行に挑戦

機体ができてからが苦労の連続だったそうですね。

岡宮 ロールアウトである命名式(注:1月25日)の前日まで作ってました。主翼と胴体を結合した後、主翼の下にウマ(台)をかませてたんですが、ホントにきちんと接着できているか心配で、夜中にこっそりウマを外してみたんですね。そしたら、かなり下がったものの、バキッと壊れたりせずに止まったので、それで安心して寝たってこともありました。
五十嵐 滑走を始めてみると、プロペラに振動というか大きな脈動が出て、全力で漕げないことが判明しました。しかも、プロペラの反トルクで生じる捻れの力に胴体尾部が耐えられなくて、壊れてしまいました。
竹内 ペダルからプロペラまでを繋ぐドライブシャフトに、軽量ということでユニバーサルジョイントを使って向きを変えていたのですが、本来は2個1組で使わなきゃ行けないところを、1個だけ使っていて、回転が一定しなくなっていたんです。よく分かってなかったんですね。
玉井 仕方が無いので、傘歯車を使ったギヤボックスを新たに作りました。
五十嵐 壊れた尾部は杉村君が作り直してくれたんですが、補強したために重たくなって、重心移動が起きちゃいました。対応としてパイロットを前に5cm移動させたら鼻がドライブシャフトに擦れることになって、鼻に摩擦対策のクリームを塗らなきゃいけないことに…(写真7)。

岡宮 「随分狭いなぁ」と思ったことは覚えてますが、ホントにクリーム塗ってた?
澤藤 塗ってたよ、何かのクリームを。

パイロットはどのように選ばれたのですか?

岡宮 リネットのメンバーにはグライダーで飛んでたのが何人かいました。その中から、伊藤君と私は後輩に操縦を教える教官みたいなこともしていましたし、体重が軽かったこともあって選ばれました。
澤藤 伊藤君と岡宮君でダメだったら、馬力は私が一番出ましたから、最後に私がやってみるという話もあったのですが、そうなりませんでした。

澤藤さんは、自分も(リネットに)乗ってみたいと思われましたか?

澤藤 いや、(体格が大きかったので)乗ってみたい思ったことは無かったですね。
岡宮 伊藤君が体重が一番軽かったこともあってメインでやってもらっていたんだけど、彼が滑走した時にはなかなか浮かなくて、それで「今度は岡宮にやってもらおう」ってことになって私が乗ったんですね。そしたら、浮いちゃったんです。だから私が初飛行ということになりました。伊藤君が浮かない理由は、操縦桿の引きが足りないせいじゃないかって意見が出て来て…。
澤藤 そう、みんなで相談して、コントロール(操縦系統)に遊びがあるし、エレベーターを多めに引いてみろ、ってことになったよね。
五十嵐 翌日が公開飛行だっていうのに相変わらず浮かない、滑走ばかりじゃしょうがないし、ちょっとヤケ気味っていうか、とにかく浮かなきゃって。

初飛行した日が2月26日と27日の2通りの記述があるようですが、真相はどうなのでしょうか。

五十嵐 調布飛行場は、当時は米軍の管理下にあって、リネットのメンバーが滑走路の使用を許可されたのは、日の出から管制塔がオープンする8時まででした(写真8)。2月20日にマスコミも呼んで公開で初飛行に挑戦したんだけど、その時は離陸できずに機体が壊れてしまったんです。機体の修理が必要になって、すぐに飛行に再挑戦できなかったので、新聞記者たちは27日予定の次の公開飛行までは抜け駆けしない、という報道協定を結びました。寒い調布飛行場に早朝から詰めるのが大変だったんですね。
岡宮 ところが、某新聞の記者だけは毎日取材に来ていて、26日の試験中にちょっと飛び上がったのを写真に撮って、その日の夕刊にスクープとして載せちゃったんです。「報道協定があるんじゃないですか?」って聞いたら、その記者は「努力したやつが勝ちだ!」って言って。
五十嵐 27日の公開飛行の時には、他のマスコミから詰め寄られましたが、後の祭りでした。
岡宮 26日にはちょっとジャンプしたって感じで、ちゃんと飛行したかっていうと、心許ないんだけど…。翌日の公開飛行では、映像で確認したら4秒くらい飛行してました。記録では15m飛行となってるけど、秒速7mとして計算すると30mくらい飛んだことになるので、まぁ、飛行したと言えると思います。

『ジェーン年鑑』に、木村先生が提供したと思われるリネットの情報が記載されているのですが、それでは2月26日に初飛行となっています。

五十嵐 木村先生が26日に飛行したって言ったんなら、やっぱり初飛行は26日ってことになりますね。
岡宮 今にして良かったなと思うのは、最終的には私が38m、伊藤君が43m飛んでることです。やっぱり日本初の人力飛行機は自分たちだって自信を持って言えるのは大きいと思います。26日、27日の記録で終わっていたら、ジャンプだろうって言われても仕方なかったかも知れません。

パイロットとして一番苦労したのは何でしょうか?

岡宮 飛行可能な速度が安定して出なかったことで、ドライブシャフトの捩れ振動が原因でした。これはまったくの想定外で、試験飛行中には解決できませんでした。これが、記録が大きく延びなかった原因だったと思います。

今振り返って

今では人力飛行機が飛ぶのは当然のことのようになっていますが、当時、人力で飛べるという自信はお持ちでしたか?

玉井 飛ぶという確信も無かったけど、絶対飛ばないと思ってた人はいなかったんじゃないかな。
竹内 僕は結構懐疑的だったな。飛行が成功するという自信は無かった。「一生懸命作ったんだから飛んで欲しい」とは思ってたけど。
澤藤 イギリスで人力飛行に2回成功したことは知ってたけど、イタリアとドイツは失敗してたから、絶対の自信はありませんでした。
竹内 最近、先輩に聞いたら、4人の内、飛ぶと思っていたのは1人だけだったですね。
五十嵐 当時、あの大きさとスピードで飛ぶためのデータの蓄積は無かったんです。
澤藤 翼型も既存ものじゃなくて、低速で大きな揚力がでるように考えた新設計だったから、本当にそれが有効かどうか、というのも不安の種でした。

先輩からプロジェクトを引き継いだわけですが、先輩からのプレッシャーを感じましたか?

岡宮 大学院に進学した先輩に手伝ったりしてもらいましたが、あまりプレッシャーは感じなかったです。
澤藤 最初はいくら滑走してもぜんぜん浮かなくて、滑走のたびに機体がどこか壊れるので、その修理の繰り返しでした。壊れなかったのは、水平尾翼と垂直尾翼、それから操縦系統くらい。それで、飛行に成功したときには、皆、疲労困憊していて、嬉しいというよりも肩の荷が下りてほっとしたというのが正直なところでしたね。
五十嵐 飛行が成功した時に、一番喜んでいたのは木村先生でした。躍り上がって喜んでたのを覚えています。プレッシャーってことで言えば、一番感じていたのは木村先生だったかも知れませんね。あれだけ新聞社とかテレビ局とかが来ていて、失敗に終わったら、やっぱり木村先生も辛かったでしょうね(写真10)。
澤藤 そういえば、東大でリネットの部品を組み立てた時に、東大の航空学科の院生が3人くらい見せて欲しいって来たんですよね。それで見せたら、「これは絶対飛ばない!」って言われたことを覚えてます。

その時、何か反論とかされなかったのですか?

澤藤 いや、こっちも自信がなかったら黙っていました。

木村秀政先生は航空工学の権威として有名ですが、皆さんにとってはどんな先生でしたか?

澤藤 木村先生は、うるさいことは仰らなかったですね。
五十嵐 細かいことは一切言わなかったです。ただ、私が一度「美しい飛行機はよく飛ぶ」って言ったら、木村先生に「そんなことを教えた覚えは無い!私は、よく飛ぶ飛行機は美しいと教えたはずだ!」って、えらい剣幕で怒られたことはありました。
竹内 木村先生は東大で組立作業する場所を確保したり、調布飛行場を使う許可を取ってくれたり、僕たち学生がやりやすい環境を整えてくださいました。これはリネットの大きな成功要因の1つだと思います。
水谷 時々、作業中の私たちのところに差し入れでケーキとか持ってきてくださいました。
岡宮 木村先生はダンスパーティもよく開いてくれましたね。
五十嵐 僕はダンスが苦手だったので、リネットの製作よりダンパのほうが辛かったです。
岡宮 木村先生も、皆がびっくりするくらい大胆なポーズで踊っておられました。澤藤君はそのダンスパーティで生涯の伴侶見つけたんですよ。
澤藤 ほんとに、お世話になりました(笑)。

今振り返って、特に印象に残っていることは何でしょうか?

岡宮 飛行成功の後、木村先生と交わした喜びの握手、そしてチームのメンバーが木村先生にレストランでフルコースの洋食をご馳走になったことですね。並べてあるナイフとフォークは外側から使うとか、テーブルマナーも教えてもらいました。
竹内 フィンガーボールの水は飲んじゃいけないとかも初めて教えてもらいましたね。
五十嵐 私の印象が一番強いのは杉村君の頑張りですね。呆然としてる僕を尻目に、壊れた胴体をチャッチャッと直してくれた。
澤藤 飛行が成功した後、御守りを貰っていた京都の航空神社に、残っていた主翼のリブを奉納にいったことが記憶に残ってます。
竹内 リネット自体の話じゃないけど、卒業して小さな会社に就職していた私に、1年ちょっとしてから木村先生が声を掛けてくれて、「コマツを受けてみるか?」と。それでコマツに行ったらもう話が付いていて入社できたんですが、木村先生が私のことを気にしてくれてたってことが嬉しかったですね。
水谷 私は、とにかく調布が寒かったことが一番記憶に残っています。あと魚肉ソーセージとか。リネットの製作自体はもうあんまり覚えてないなぁ。
玉井 大学院に在籍していた時、リネットをイタリアの展示会に出展するために、科学技術館で復元作業をして送り出したのが、最期の別れになったことです。

最後に、皆さんの人生においてリネットはどのような影響があったか、お聞かせ下さい。

玉井 私はNECでLSI生産設備の設計などをやったのですが、リネットでの「モノを作る」経験がすごく役立ちました。
五十嵐 ジャムコに就職したのですが、その年に職場に新聞記者が人力飛行のことで取材にきて、上司や同僚に迷惑が掛かってしまったことが、残念な記憶として残っています。
水谷 私はヤナセで輸入車販売に進んだので、リネットの経験が仕事に活きることはなかったですが、一緒にやった仲間と一年に一度会うのがずっと楽しみです。
竹内 私も仕事にはあんまり影響なかったのですが、やっぱり鳥人間は気になりますよ。TVも見るし、琵琶湖にも行ったことがあります。学生の熱気はやっぱり凄かった。
岡宮 私は、人力飛行機で最初に飛んだメンバーの一人だったという自負がありました。「あいつ、日本初の人力飛行に成功したっていっても大した奴じゃないな」と言われるようなみっともないことは出来ない、という気持ちが仕事上の支えになりました。それから、これだけ気心の知れたメンバーに巡り会えて、やっぱりやってよかったなという思いがあります。辛辣なことを言っていても根底には相手に対する敬意があります。
澤藤 ちょっと優等生じゃない?(笑)
岡宮 やっぱりそうかな?(笑)
澤藤 私はJALでパイロットになったのですが、就職が決まって木村先生に報告に行った時、「魚は水に泳ぎ、鳥は空を飛び、人間と4つ足は地面を歩くように出来ている。その自然の摂理に逆らって空を飛ぶに当たっては、真摯な態度とそれなりの覚悟を持っていどむように」、とアドバスをもらったのが役に立ったと思います。

本日はいろいろ興味深いお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

参考文献
『あすも飛ぶ日本大学理工学部人力飛行機の50年』(日本大学理工学部航空研究会編、デザインエッグ社、2016年)
『航空情報』1965年2月号、3月号、1966年8月号

執筆

日本大学リネット製作チーム

*本記事は『航空と文化』(No.113)
2016年夏号からの転載です。

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